犬と盆暗
一
乾燥機の中でガラガラと回る服をぼんやり見つめながらハイライトを吸う。着古した下着とTシャツ、それから派手な色のアロハシャツが何度も何度も狭いドラムの中を止まることなく回り続けていた。
うだるような暑さもセミの大合唱も、この冷房の効いたコインランドリーの中ではどこか遠い世界のことのように感じた。さっきまで汗で湿っていた首筋もすっかり乾いて、俺はこのひと時の気持ち良さを味わい尽くすようにして煙草をフィルターギリギリまで吸った。
夏が好きだ。カンカン照りの空も駄菓子屋の「氷」の暖簾も、見ているとどうしてか気分が上を向く。
乾燥機がピーという音を立てて停止する。俺は吸い殻を銀色の薄っぺらな灰皿にグリグリと押し付けて腰を上げた。
額の上にかけていたサングラスをかけ直し、スラックスのベルト部分に刺した団扇を仰いで、往来を進む。
弁当屋の横を通りながら、至って平穏な日々を俺は存分に謳歌した。
数ヶ月前、俺も兄貴も死にかけるような出来事があった。思い返すと未だに腹わたが煮えくりかえるし、元凶であるあの男には数発、いや数十発ほど見舞ってやりたくて仕方ない。
だけど兄貴は「とっとと忘れろ」と言う。俺が奴の名前を恨めがましく呟く度に溜息をついて「だからテメェは馬鹿なんだ」と呆れるのだ。
以前俺たちが乗り込んだのは「興誠会」という、当時はずいぶん幅を利かせていた組だった。その頭だったのが「横田」という胸糞の悪い大男だ。俺は横田のことを思い出す度に虫酸が走り、あの下衆な顔を鉛で撃ち抜いてやりたい思いに駆られる。奴は間違いなく、人情も義理も欠片だって持ち合わせていねえクズ野郎だった。
当時、兄貴と俺が世話になっていた龍田組を奴は狙った。体の良い言葉で組員の一人をそそのかし、汚ねぇやり方でぶち壊して丸ごと喰らおうとした。きっとそれまでも同じように誰かを利用し、踏みにじっては食い散らかしてきたのだろう。奴は人の皮を被った外道だ。
幸い、俺たちが世話になったその組は今では体制を立て直し、離れかけていた組員の多くも戻ってきているという。新しく長になった若頭がよく頑張っていると、何度か風の噂で耳にした。そんな話を聞く度に兄貴が安心した顔を見せるので、俺もその隣で嬉しく思った。
兄貴が今日俺に寄越した仕事は二つ。溜まった洗濯物をどうにかすること、それから自分の借りてるアパートの部屋を綺麗に片付けてくること。
一つ目は無事に果たした。二つ目は…どうにもやる気が起きないからまた今度でいいや。どうせ滅多に帰ることもねえし。
洗い終わった洗濯物を詰めた鞄を持って、俺は踵を返す。新しい場所で用心棒をしている兄貴の元へ戻るのだ。なにか雑用でもありゃあ頼まれるつもりだし、特にないなら兄貴の側で仕事を振られるのを待つ。
兄貴と俺が今世話になっている◯◯会はここら一帯をシマとしている割と大きなところである。会員の数は百人ちょっとってとこだろうか。会長サンは顔が広く、それでいて気の良いお人だ。ずっと昔、盃を交わした兄弟を兄貴が助けたらしく、だから会長サンは兄貴のことを知っていたし、慕っていた。兄貴が自分の会の門を叩きにきたことが嬉しかったんだろう、俺たちを迎え入れてくれる時会長サンは心底嬉しそうだった。
途中にある駄菓子屋でアイスを買い、それを食べながらユラユラと熱を帯びるアスファルトの上を歩く。
一番好きなコーラ味を、暑さに溶けてしまわないよう急いで食べる。ちぇ、今日もはずれだ。あの駄菓子屋で当たった試しがねえや。
「おう児島。ちゃんと洗濯もんのついでに部屋も掃除してきたか?」
◯◯会の本邸を上がると兄貴は客間で自分の和服を丁寧に畳んでいるところだった。
「へい」
当たり前のように嘘を吐くと、兄貴にギロリと睨まれた。
「さっさと戻ってこなくていい、自分の身の回りのことゆっくりやれっていつも言ってるだろうが」
「身の回りのやることなんて、俺ァ殆どねえんだよ兄貴」
俺が笑うと、兄貴は服を畳んでいた手を止めこちらをじっと見つめた。
「…そうか。じゃあ今度テメエの部屋に足を運んでやる。中ァ綺麗に片付いてんだろう?」
「うっ、それはちょっと待って兄貴」
慌てふためくと兄貴に頭を小突かれ、そのついでにちょっと乱暴に髪を撫でられた。撫でられながら思う。兄貴の、沢山の傷がついたこの細い手が俺にとっては何より大切だ。犬でも三下でも構わない。誰がなんと言おうとどうだっていい、俺はこの人の側に、生涯かけてずっと居たいのだ。
俺は兄貴とどこまでも一緒に行く。どこへだってついて行く。死んだ後の世界があるかどうかなんざ知らねぇが、たとえば地獄の果てへだって、この人の後なら必ずついて行くと決めている。
拾ってもらったんだ俺は、命そのものを。助けてもらった。死ぬまで忘れない。あの日から俺の命はこの人の為に使うもんになったのだ。
死んだような目をして毎日生きていた。大事なものも縋りたいものも何にも持ち合わせてねえ、路地裏でゴミを漁ってる野良犬よりよっぽど薄汚かったそんな俺に、兄貴は手を伸ばした。
兄貴の白くて細い手が差し伸べられたその光景を、俺は死ぬまで忘れはしないだろう。全部が濁った視界の中、あの時それはやけに浮いて見えた。
なあ兄貴。俺は最初信じられなかったんだ。こんな場所でゴミみてぇに生きてる俺を、拾い上げようとするアンタのことがさ。どんな神経してんのかと疑った。頭がおかしいんじゃねえかとさえ思った。
だけど俺がいくら疑おうが唸ろうが、アンタは立ち去らなかった。背中を向けたまま、ずっとそこに居てくれた。
白い手は、傷をいくつも負っていた。アンタはその傷について何も語らない。背負ってきた、味わってきた傷みを見せびらかすことも、不自然に隠すこともしない。
俺はゆっくり顔を上げた。そしたらさ、当たり前かもしれねえけど視界が少し広がったんだよ。視界に映る無口なその背中がさ、なんだか漢らしく見えてさ。
気付けば俺はアンタの後を追っていた。時々振り返って俺を見るその目に、小さく俺が映ったりしてさ。
いつからだったかな、もうアンタの手に傷を増やしたくねえって思ったんだ。手前勝手な願いだよ。笑ってくれたらいい。いつもみたいに呆れた顔して、ため息吐きながらさ。
「そういや興誠会の話を聞いたんだがなぁ」
ある日会長サンから、会員数十名が集まる食事会に兄貴と共に誘われた。普段は滅多に腕を通さないワイシャツを着て、着け慣れないネクタイに窮屈さを感じながら特上のステーキ肉を口へ運んでいる時のことだ、会長サンが興誠会の名を口にした。
チラと横を見ると、兄貴も俺と同じように食事の手を止め会長サンを見ていた。続く言葉が気になるんだろう。俺も会長サンの言葉の続きをじっと待つ。
「あー…元会長の名前は、何つったか」
会長サンが耳の後ろを掻きながらそう言う。兄貴はテーブル越しに「横田です」と短く答えた。
「おうそうだそうだ、横田な。野郎、どうやら興誠会の残党を残して一人トンズラこいたらしい。辞めた後も残った連中が奴のことを必死で探してるんだとよ。横田さえ戻りゃあ何とか立て直せると信じてんだろう」
当時の記憶が脳裏に蘇る。確かに横田は腕も弁も立つ奴だった。人を従え、人を使い、きっとそれらしい言葉で言いくるめることも上手い。悔しいが奴は頭がキれる。それは俺も認める。だからこそあの時、龍田組の茂木サンは唆されてしまったのだ。
事務所へ乗り込みに行った時それを強く感じた。興誠会の奴らは、横田に忠実だった。きっと横田を心底信頼し、忠義を貫いていたんだろう。奴は人の心を掌握し、その上に立つことに長けている。
「だがまあ…探しても姿を現さねえってことは、本人は願い下げなのかもしれねえな。足を洗いてえとでも思ってるのかもしれねえ」
会長サンは年代物のワインを飲みながらそう続けた。
「…そうなんですかい。最近は名前を聞くこともなかったから、どうしてるのかとは思ってやしたが…」
兄貴が伏し目がちにそう呟くと、会長サンは「ああ」と思い出したように付け加えた。
「そういやおめえさん、以前興誠会に乗り込んだんだったな。どうして生かしておいた?息の根ぇ止めてやらなかったのかい」
「…どうしてですかね。分からねえな…あの時のことはあまり、覚えてなくて」
兄貴の食事の手は、もう完全に止まっていた。俺だってそうだ、あの時のことを思い出しながら食事をするなんざ、俺たちにはできない。
「まあ、今はもう虫の息なんだろうよ。どうも左腕がまるっきり動かねえらしい」
会長サンのその言葉に俺は目を見開く。会長サンから聞く横田と俺が想像する奴の姿があまりに違っているように思えて、面食らったのだ。
使えねえ腕を引きずって、今もどこかで生き長らえている。そんなのまるで無様な死に損ないだ。
「おめえさんが斬りつけた時の影響だろうな。興誠会の奴等の他にも、きっと恨みを持ってる奴だってたんまりいるだろうし…そのうち誰かに呆気なくやられるかもしれねえな。進むも戻るも地獄よ。ヤクザもんの成れの果てなんざ、滑稽なもんだな」
会長サンがワイングラスを置き、代わりに今度は葉巻に火をつける。濃い煙がたっぷりと吐き出され、テーブルの上をゆらりと泳いだ。
「カカ、どうした児島。素っ頓狂な顔して」
俺の方を見ながら会長サンが笑うので、俺は慌ててかぶりを振る。言われて初めて自分の口が間抜けに開いていたことに気づいた。
「いや、いや俺は別に、なにも」
「可哀想にってか?」
「まさか!アイツにゃ恨みしかありやせん。まだくたばってなかったのかって、驚いただけでさァ」
会長サンはカカカと笑ってその後はまた楽しそうに食事を進めた。会員達と楽しげに話す会長サンにとっては、今の話は小さな話題の一つに過ぎないのだろう。
だけど俺は違った。皿の上の分厚いステーキ肉をギコギコ音を立てて切りながら、横田の姿を思い描く。左腕をだらしなく引きずって、死んだ魚のような目ェして、一人どこかで生き長らえてる横田。
…どうしてか気分が沈んだ。くたばってくれていた方がよっぽど良い。その方がよっぽど、気が晴れる。テメェが、テメェみてえな奴が、なに死に損なってやがんだよ。みっともねえ姿を晒して一人きり、身を潜めながらそれでも生きてるなんて、胸糞が悪りぃ。
口に運んだ肉はさぞ高級なもんなんだろうが、俺にはイマイチ旨さが分からなかった。モヤモヤと広がる心の内の憂鬱をうまく処理できなくて、俺は少し乱暴に口の中の肉を胃袋へ押しやった。
食事会が終わり、会長サンと幹部の数人が先に車で本邸へと向かう。兄貴もてっきりその車へ乗るのかと思ったが、会長サンに断りを入れてから兄貴は俺を「少し歩くか」と言って誘った。
夏の夜の湿った感じも好きだ。こういう時は煙草が早くは燃えないことを知っている。俺と兄貴以外に人影も特にないので、俺は兄貴の半歩後ろでネクタイを緩めハイライトに火をつけた。
「…児島」
「へい」
「奴のこたぁ忘れろ。妙な気ぃ起こしたりすんじゃねえぞ」
兄貴が何を言いてえのかは何となく分かった。俺はきっと、顔にすぐ出るんだろう。
「起こさねえよ。そんなに俺も馬鹿じゃねぇんだ」
煙を吐き出しながらそう答えるが、兄貴には溜息と共に「どうだかな」と返されてしまった。今のは別に、咄嗟に吐いた嘘ってわけじゃなく、本当に本心だったんだけどな。
「テメエを利口と思ったことが、生憎ねえからな」
「ひでぇな!信じてくれよ兄貴」
笑いながら答えると、今度はずいぶん真剣な顔で見つめられる。兄貴のその目に、俺は緩く持ち上げていた口の端を真っ直ぐに正されてしまった。
「横田は死んだ。そう思っとけ」
兄貴の、一切の反論を許さない言葉が夜の中に放たれる。俺は黙ったまま俯いて手元の煙草の灰をアスファルトに落とした。
分かってる。兄貴は俺の身を案じている。あの時に大ヘマをこいちまったから、きっと今日までずっと、感じなくてもいい罪悪感を背負ってくれているのだろう。
…やだなぁ兄貴。そんなもんは一つだって持っていなくていい。だって俺の命はアンタが拾い上げてくれたのだ。アンタの為に使うのは当たり前のことじゃねえか。
「無様なもんだなって、呆れただけでさァ。それ以外の感情なんてねえよ」
嘘じゃない。本当に呆れたのだ。惨めに生き長らえてる男の姿を想像して、鼻で笑ってやりたいだけだ。
「俺の先にだって、そんなどうしようもねぇ未来しか待ってねえかもしれねえぞ」
兄貴がまた前を向いて歩き出す。その背中をちゃんと追わなければと思い俺も慌てて駆け寄った。
この人は、いつもそうだ。ちゃんと追いかけていないと一人で行ってしまう。俺を残して一人で消える準備を、いつだってしてしまう。
「兄貴は、あんな奴とは違ぇでしょう」
「似たようなもんだ。…テメエはいい加減、この世界から足洗ったらどうだ。こんな流れの身について回ってたってろくなこたぁねぇぞ」
こうやって突き放される度、俺は開いてしまった隙間を埋めるように急いで側にいかなきゃならない。
優しいのだこの人は。優しいから、俺を側に置いておいてやることと、俺を手放すことの二つをいつも天秤にかけている。
「何言ってんだよ、地獄の果てまでついて行くって言ったこと、もう忘れちまったのかい?」
「テメエは地獄にゃ行けねぇよ」
優しさに気づかない振りをしながら、俺は笑う。冷たくあしらわれる犬のように振る舞って、アンタが捨てきれないでいる情に甘えながら、これからもずっとアンタのことを追いかける。
「なんでぇ。つれねぇこと言うなよ兄貴」
兄貴だってきっと、地獄には行けないだろう。拾った野良犬についつい手をかけてしまうアンタは、本当に優しくて人情深い人だから。
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