もういいと思った。もうどこにも、俺の居場所はない。知らない道を雨に打たれながら、全身ずぶ濡れになって一人、俺は黒いアスファルトを見つめる。行き先はないのにずいぶん遠くまで歩いた。どこかに向かうためじゃなくて、あの場所から逃げるために歩き続けた。
今が何時かは分からない。歩き始めた時はまだ夕方くらいだったと思うけど、いつの間にか辺りはもう真っ暗だ。分厚い雨雲は消えない。靴の中まで水浸しで、踏み締める度に足元から「グジュ」という音がする。
もういいんだ、無理だ。あの場所に帰るくらいならこのまま、気を失う方がマシだ。
歩き疲れて、道の端にあるゴミ捨て場の横に座り込む。小さなトタンの屋根の下に身を潜めて、降り続く雨をぼんやり見つめた。
体が全部重たくて、ああそうか服が水を吸ってるからこんなに動きにくいんだと、当たり前のことに今更気付いた。背負っていたランドセルを下ろして自分の隣に置く。冷えた膝を抱えて腕の中に頭を預ける。
お腹が空いていたような気がするのに、もう空腹を感じなかった。今日食べた給食はなんだったっけ。おかしいな、数時間前のことなのにうまく思い出せない。自分の感覚と意識がぼんやり遠くなる。俺、このままここで死ぬのかな。それでもいいや、もう、その方がマシだ。
しばらくそのまま動かないでいたら、目の前を誰かが通り過ぎる足音がした。チラリと顔を上げてその足元を見る。汚れたスニーカーが自分の前を横切って、それで、それだけだった。
自分は誰かに手を差し伸べられたり、優しくされたりすることはないって知ってる。俺はもう全部知ってる。だからそれは当たり前のことだった。遠ざかっていく足音にもう何の興味もなくて、俺はまた両膝の間に自分の顔を埋めた。
雨は、いつになったら止むんだろう。朝が来たらどうしよう。こんな所にずっといたらきっとゴミを捨てに来た誰かが「邪魔だよ」って嫌な顔をしながら言うだろう。俺が邪魔じゃない場所はどこだろう。どこに、あるんだろう。
両手両足の先の感覚が、だんだんなくなってくる。朝が来る前に死ぬのかもしれない。それならそれでいいか。もういい、疲れた。誰かに邪魔だと思われることに、もう疲れた。
「………そこで何してんの」
不意に、誰かに声をかけられた。俺はすごくビックリして、埋めていた顔を持ち上げた。自分の目の前に立ち止まっているのはさっき見た、汚れたスニーカーだった。
ゆっくり視線を上げたら、ビニール傘を差した男の人がそこに立っていた。顔は、暗いからよく見えない。片手にコンビニのビニール袋を下げて、その人は俺をじっと見下ろしていた。
「…家どこ?このへん?」
「………」
確かに自分に聞かれているのに、俺は何でだかそのことがよく分からなくて何も答えられなかった。いえどこ。このへん。この人は確かにそう言った。俺にそう言ったんだ。
「…あー…迷子?」
「………」
しばらくお互いにそのままでいたら、その人は上着のポッケから携帯電話を取り出して、画面を操作しながら「警察連絡する?」と言った。俺は、慌てて首を横に振る。
「…え、しない方がいい?」
今度は何度も首を縦に振る。警察に連絡をされてしまったら、だって、ダメだ。俺を迎えに来るのはあの人らで、きっと家に戻ったらその後たくさん顔を叩かれる。迷惑かけるな、面倒起こすな、いい加減にしろ、何回言えば分かるんだ、そういうことを数時間くらい言われ続けて、朝まで風呂場にいなさいって、きっと命令される。お風呂場は冷たい。ここにいるより、ずっとだ。
「……そっか」
その人は携帯電話をまたポッケにしまって、また俺をじっと見下ろした。
お願いだから、あの家に連れ戻されるくらいなら、もういいからこのままほっといてほしい。帰りたいんじゃない。迷子とかじゃない。帰りたくないんだ、戻りたくないんだよ。
「…このまま、ここにいんの?」
「……」
ゆっくり、頷いた。他にどうして良いのか分からない。だって俺が帰る場所は、いてもいい場所は、どこにも、ひとつもない。
「…ふーん。わかった」
そう言うと、その人はまた歩き始めた。傘を差す後ろ姿を俺はこっそりと、ぼんやりと見つめる。…無理矢理警察に連れて行かれなくて良かった。ホッとした。
両膝の上に顎を置いた時、もう足の感覚がほとんどないことに気付いた。冷たい。今あったかいお風呂に入れたらどれだけ気持ちいいだろう。真っ黒になった爪の間は、ゆっくりお風呂に入ったらきれいになるのかな。ギザギザの爪の先を眺めながら、俺はそんなことを一人考えていた。
どのくらいそうしていたか、寒さと疲れからだんだん、俺は眠くなってきた。目をつぶってご飯のことを思い浮かべる。そういえばこの前給食に出てきたワカメとキノコのスープ、美味しかったな。あれ、また食べたいな。あとは白いごはんがいい。パンじゃなくて、ごはんが食べたい。おかずはなくてもいい。食パンはもう、飽きてしまった。
「ねえ」
半分眠りかけていた俺は、その声にビックリして目を開けた。膝から顔を上げたら目の前に、しゃがんで俺を見る男の人の顔があった。
「俺ん家来る?雨止むまでいたら?」
さっきの人だ。暗くて遠くて見えなかった顔が、この時やっとちゃんと見えた。男の人はビニール傘の柄を肩と首の間に挟んで俺をじっと見ていた。
睨まれているのかと思ったけど、違った。その人はしばらくしてから「あ、睨んでんじゃなくて、目ぇ悪いだけ俺」と付け足すようにして言った。
「…寒くない?」
「…」
頷くと、その人は「だよね」と言ってちょっとだけ、ホントにちょっとだけ笑った。
「…警察連絡しないから」
「…」
「…風呂入ってけば?風邪引くでしょ、こんなん」
「…」
頷いたら、図々しくないかな。大丈夫ですって言うのが正解なんじゃないのかな。頷いて、家まで行って、そしたらその途端警察に連絡されてしまうんじゃないのかな。
どう答えるのが正しいのかわからない。だけど、お風呂に入りたい。だから俺の口から出た最初の言葉は「お風呂入りたい」だった。
「うん、いいよ」
「…」
ほんとに、いいの?お湯を使ってもいいの?ガス代かかってもったいないって、ならないの?
「じゃー早く行こ。寒いじゃん」
男の人が立ち上がるので、俺も一緒に立とうとする。だけど足の感覚がほとんどなくて、俺は立つのに失敗してその場に転んでしまった。男の人は「え」と驚いたけど、俺は慌てて「大丈夫です」と言って体をなんとか起こした。
膝がガクガクする。足の裏が麻痺しているみたいに、何も感じない。だけど早く歩かなくちゃ。ランドセルを背負って自分の足で立ち上がる。足が震えるのが治らなくて、歩きたいのに、歩けない。
「…歩ける?」
「あ…ある、歩けます」
「ほんと?」
何度も頷く。早く、早く動けってば。グッと足に力を込めてみようとする。でも、やっぱりダメだった。力が入らない。
「……」
男の人は隣でじっと、俺を待っていた。早く、早くしろよ。戻れよ、普通に戻れよ。どうしてだ、どんなにそう思っても足はガクガクしたまま思い通りに動いてくれない。
「…おんぶする?」
男の人は俺を覗き込んでそう言った。心配そうな顔をされたけど、俺はブンブンと首を横に振った。
「…ま、まってください」
「うん」
「…待ってて、ください、ごめんなさい」
「うん、いいよ」
男の人はそうして、そのまま隣で待ってくれた。
一歩、片足を前に出す。やっとだ、やっと動いた。ビキビキと割れてヒビが入っていって、足の表面に貼り付いた氷がまるで剥がれていくみたいだった。片足が動いたらもう片方も動いた。良かった、歩ける。これでやっと歩ける。
男の人を見上げると、その人は小さく頷いてまたちょっとだけ笑った。
「ゆっくり行こ」
俺の歩く速さに合わせて、男の人が少しこちらに傘を傾けながら隣を歩く。
もう俺はビショビショだから、こっちに傘を向けなくてもいいですよ。言おうか言わないか迷った言葉は、結局喉を通り抜けなくて、俺のお腹の中にそのまま落ちて溶けてしまった。