白紙の便箋 2




 その晩は、俺の大好きな魚料理だった。

 焼いても生でも何でもいいんだが、中でも煮魚は俺が最も旨いと感じる魚の食べ方である。
いつもより多めに自分の皿に乗せて、忍び寄る魔のゴムの手から自分の皿を守る。
大好物を前に、食い終わるのがビリになるとかどうとかいう考えは頭からスコーンと抜けていた。

「おい鼻。骨つまらせて死ぬなよ。笑いもんだぞ」
サンジが全員分の飲み物を入れながら嬉しそうに笑う。
その顔を見て安心した。昼時にひどく落ち込ませてしまったかなと、懸念していたからだ。

「骨も食えるぞウソップ、ほら見てろ」
ルフィが事も無げに破壊的な音を立てながら魚の骨を噛み砕いていく。
見てろと言われても、何も参考にならなかった。

「お前なあ…腹から骨が突き出しても知らねえぞ」
「大丈夫だ、ほら見てろって」
また暫く破壊音がキッチン中に鳴り響くが、やっぱり見てても何の参考にもならない。

 サンジは未だ給仕に徹している。
メインディッシュである煮魚は、主に俺とルフィのせいで残り僅かだ。

 今までの自分の態度に罪悪感を感じまくっていた俺は、意を決して新しい皿に魚をよそった。
勇気を振り絞り、その皿をずいとサンジの前へ差し出す。
「コッ、コッ、コッコックが食いっぱぐれてたら、それこそ笑いもんだぜ!」
ニワトリかよ。自分の台詞につっこみを入れずにはいられない。ニワトリかよ。
 でもサンジはからかう事はしなかった。からかう代わりに、皿を受け取ってから心底嬉しそうに「だな」とだけ言って笑った。

 もしかしたら、俺が思っているよりずっと簡単なのかもしれない。サンジが唯一俺に頼んだあの願い事を、叶えてあげる事は。

 サンジ、ごめんな、俺臆病でさ。今日は皿洗い手伝うから。
「今まで通りでいよう」なんて、頭下げて頼むような事じゃねえって、お前の肩叩いて、絶対、笑い飛ばすから。
三日もかかっちまったな、許してくれよ。

「おおウソップ、いらねえなら俺貰うぞこれ」
ルフィが変な事を言い始めたので何かと思って振り返れば、俺の分の皿を自分の元へ引き寄せ、ガツガツと口へ運んで食べている。
そして皿の上はそれを認識している間に嘘みたいな速さでなくなっていった。

「いらないなんて誰が言った馬鹿野郎!!!」

ルフィの胸倉を掴んで怒鳴るが「俺はさっき聞いたぞ!貰うって!」と反論された。

「それ聞いてねえじゃねえか!!」
「ちょっと、うるさいアンタら」
ナミが横槍を入れるが俺の怒りは頂点に達したままだ。
俺の!煮魚が!

「返せよ俺の!!!」
「無理言うなよ、もう食っちまった」
ルフィに飯を横取りされるのはこれが初めてじゃないけど、今回は本当に腹が立った。
だって!俺の煮魚が!

「…っ…サンジの!作った煮魚!俺がどんだけ好きだと思ってんだよ!!!」

 俺がここまで腹を立てるのにはわけがあった。
 数ヶ月前に食ったサンジの煮魚が、奇跡のように美味しかったのだ。
元々料理がこれだけ旨いのに、そのうえ好物を作られた日にはもう、サンジを神として崇めてもいいというくらいの気持ちにはなる。
 俺は初めてサンジの煮魚を食べたあの日、これから先いくらこのコックに不当な扱いを受けたとしても、今日の煮魚を思い出して強く前を向いて生きていく事が出来るだろうと確信したのである。
それだけの力を持った煮魚だったんだ。サンジの煮魚は。

「おい、クソ眉毛。タコより赤いぞお前」
ゾロがサンジを見ながら首を傾げる。
俺はその言葉を聞き、ルフィの胸倉を掴んでいた手の力を緩めて、サンジの方へ顔を向けた。

 …確かにサンジは、タコも真っ青になる程、耳まで真っ赤になっていた。…こいつ一日に何回タコになる気だろう。

「…だ、大丈夫?どうしたの?汗凄いけど」
ナミが覗き込むように様子を伺う。が、サンジは目をハートにする事もなく目を見開いたまま固まっていた。
ナミの言うように、サンジの首筋を汗が滑った。

 チョッパーが身を乗り出しサンジの頬をペチペチと叩いた。
「サンジ?」と呼びかけるチョッパーの声に、やっと目が覚めたかのようにサンジは反応した。
「おっ!?おお!!なんともねえ!問題なしだ!」
サンジは自分の飲み物を一気に飲み干すと「早く食え野郎共!!」と、いつもの感じで一喝した。

 まだ皿の上が片付いていなかったチョッパーは、慌てて口の中へ料理を詰め込んだ。
「そんな急いで食ったら骨が危ねえだろ、よく噛んで食え青っ鼻!」
どうしろって言うんだよ、という顔をするチョッパーを見て、お前の気持ちは尤もだと同情していたら、サンジがずい、と、先ほど俺がよそった分の料理を差し出した。
「俺は作ってる間に食ったからいらねえ。てめえが食え」
「え、でも…」
「食えって言ってんのが聞こえねえのかオロすぞ!!!!!」
「ひい」

何かが取り憑いてしまったのではないかと疑う程、サンジの感情の起伏は凄まじかった。
その理由を解明できないまま、俺は兎に角言われた通りに料理を口に運ぶ。
既に完食していたクルーは、自分達に火の粉が降りかからぬようそそくさとキッチンを後にした。

 キッチンの扉を閉める間際、共に出て行こうとしていたゾロとチョッパーの会話が聞こえた。
「病気じゃねえか、あれ」
ゾロが聞くが、チョッパーは首を横に振ってみせる。
「いや、極度の緊張状態に陥った時の感じだったぞ、あれ」

 サンジのお陰で煮魚にありつけたのは大変ありがたい事だったが、お陰で食べ終わるのは俺がビリになってしまった。
この、腫れ物のようなサンジと、どのようにして同じ時間を共有すれば良いのでしょうか。
さっきの決心がもう挫けそうだ。助けて。

「…ご馳走様でした」
「……」
ルフィのように骨までは食えなかったが、自分の中でできる最高に綺麗な食べ方で皿の上を平らげた。
何か一つでも間違えれば俺は、目の前の男に、こ、殺されるかもしれない。

 サンジは無言のまま煙草に火をつける。思い切り吸っているのだろうか、フィルターは物凄い速さでその姿を灰に変えていた。

「さ、さて、皿洗おうかな!うん、皿をね、洗うよ俺は」
手が震えているから運んだ食器がガチャガチャと不自然な音を立てる。
止まれ震えよ、殺されるぞ!

 蛇口を捻り、スポンジに泡を立てながら考える。よし食器を急いで洗って、一刻も早くこの場から離れよう。笑ってサンジの肩を叩く日は今日ではない。絶対に今日ではない。

 背後で、サンジが席を立つ音が聞こえた。俺の喉は小さく「ごく」と音を立てる。
不吉な音楽が音量を上げて脳内で響き渡る。

 その時左肩に、何かがドサッと乗っかった。

「っひょああ!」
 掴んでいた食器をシンクの中に落とした。幸い水が張ってあったので割れる事はなかったが、そのせいで水が数滴、顔面辺りまで飛び散ってきた。

「つめて」
 サンジの声が、随分左耳の近くから聞こえるなあと思い、その瞬間に自分の肩の上に何が乗っかってきたのかを理解した。
…サンジが、後ろから俺の肩に頭を乗せている。

 いよいよ俺の命運も尽きたかと涙目になったが、サンジから殺気が感じられない。さっきまでの鬼気迫るオーラは、もう何処にもなかった。

 俺の心臓は未だにバクバクと脈を打っているが、特に何もしてこなさそうなサンジの様子に、俺は恐る恐る首を左に向けた。

「サ、サンジ、どど、どうした」
「…死ぬかと思った俺」
 おいおいそれは俺の台詞だぜ。とは言わないまま「な、な、なんで?」と、どもりつつも目一杯優しく尋ねてみた。

「…嬉しくて」
「ん、うん?ちょっとよく分からないな、詳しく話してくれるかいサンジ君」
サンジの髪が俺の肩の上でサラサラと揺れた。

「…お前が俺の料理、好きだっつった」
「…」

 呆気にとられる、っていうのはこういう事を言うんだな。
俺にはサンジの言ってる意味が全然分からなかったし、なんか本当に、もう一回言うけど全然分からなかった。

「えっと……?うん…言ったけど」
「どんだけ好きだと思ってんだよっつった」
「…いや、だから、言ったけど…」
要領の得ない俺の返答に痺れを切らしたのか、サンジは俯けていたその頭を持ち上げて、俺を睨んだ。
でも全然それが恐くなかったのは、笑ってしまう程その顔が赤かったからだ。本日三回目のタコである。

「…どうしよう、死ぬかも俺」
震える声でそう言って、また頭を俺の肩へ預ける。
「…クソ嬉しい、ウソップ」

 いや。
 いやいやいやいや。サンジの料理が旨いのなんて今に始まった事ではないし、それは前々から本人にも伝えていた筈だ。
何で涙目になるんだサンジ君。情緒不安定なのかねサンジ君。

「お前ってさ…」
続く言葉を慌てて飲み込んだ。てめえもなって、悪態つかれそうだし。あとこれ言ったらメチャクチャ怒られるだろうなあと思って。
…お前ってさ、すげえ泣き虫だよな。

 俺が何て言おうか分かってしまったのか「だって」とサンジは言う。
「避けてたくせによ…独占欲丸出しな言い方するんだもん。心臓止まった俺」
だもんって。だもんってお前。なんだそりゃ。

 俺のあんな一言で心臓が止まっているようじゃ、この先の航海やっていけねえぞサンジ。
なんて、笑いながらからかってやれればいいのかもしれないけど、俺もつられて心臓がおかしくなるから参る。尋常じゃない程体が固まる。
もう、どうせいっちゅうんだよ。皿洗いたいのに、両手がびくとも動かねえじゃねえか。

「好きだ」
耳元近くで響くサンジの声は信じられない位低くて、頭に直接響いて、俺の脳内にカンカンカンと警報を鳴らせた。

「ウソップ」
「は、はい」
「……あの、また、充電、してえんだけど」

昼間握られた手の感触がフラッシュバックする。

 …っていうかさあ!仲間に手ぇ握られるなんて!全然大した事じゃあねえだろ!何でいちいち固まるんだよここで俺は!
減るもんでもねえし、寧ろ力一杯握り返して「いて」って言わせるくらい出来るだろうよ!

 何言ってんだよ俺、と自分を笑う。
分かっているくせに。できねえよ、できねえよなそりゃ。
だってこいつ、俺が好きだって、言ってんだぞ?

 話しかけられたら、困る。微笑まれたらドキドキする。
その声は、その顔は、サンジが俺に注ぐその全部は、誰がどう言ったって、もう俺にとっては特別なものでしかない。
だってさあ…だって。何一つ、大した事じゃなくない。

 だってさあサンジ、誰かに好きだと言われたのは、俺は、生まれて初めてだ。

「…い、い、い、いいぞ、充電」

水を張ったシンクの中から手を引き抜き、食器置き場にかかっているタオルで乱暴に拭いた。
「ごく」と喉が鳴ったのを気付かれたくなくて、慌てて咳払いをする。
俺はゆっくり、サンジと向き合うように体を向けた。

 両方の掌をサンジに見せるように前へ出して「ほら」と言った。
「お、お、俺様が充電させてやるんだ。あ、ありがたく思えよ!」

サンジは一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに笑った。
眉をふにゃりと下げて…それは今まで見た事ないような、小さい子供が母親に見せるような無防備な笑顔だった。

「ありがとう」
そう言って、サンジは俺の手を握る。…事はなく、俺の体を両腕で包んだ。
それはつまり、分かりやすく言うと、抱擁であった。

「サっ!?…な!?ほ!?」
サンジよ、なにゆえお前は充電と銘打って、俺を抱擁したのであろうか。
そう言いたかったのだが多分サンジには微塵も伝わらなかったと思う。
耳元で「うるせえな」と舌打ちされた。

「何もしてねえだろ」
「し、して、してるっ、と…思う、な、俺!」
「うるせえよ好きなんだよ」
「………」
全然質問の答えになっててねえし、そんな事言われたら心臓が爆発するだろって!
どんだけ勝手なんだよお前。文句の一つも言わせろよ。

 だけどそれでも、俺の口から何にも言葉が出てこないのは、俺を抱き締めるサンジの手が背中越しに震えているからで、本気で振り解けばきっと簡単に逃げ出せるような力しか入れてないからで、自分勝手な言葉の割にえらく慎重で…サンジの全部から、自惚れじゃなくて、俺を好きなんだって、伝わってくるからだった。



 便箋には一文字も書かれないまま、また一日が終わる。
一生分の脈を打つ心臓の音を聞きながら、俺はぼんやりと考えた。

 ああ、カヤになんて言い訳しようかなあ。




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