Chapter.4-4





その日は長いことテーブルについてくれた客がいた。年齢は俺よりだいぶ上の少し太った女だった。多くの行為を求められ、出来うる限りの注文に俺は応じた。シラフだと接客が難しくて、だから俺は客に頼んで何杯も酒を注文した。幸い、羽振りのいい客だったのでメニューを何度頼んでも嫌な顔をしなかった。酒を流し込んでタバコを吸って、頭の血管が何度も開いては締まる感覚を味わう。テーブルの上は俺が空けたグラスと吸い殻まみれの灰皿で散らかった。
アルコールに浸った脳で客の要望に応える。服の中に手を入れ、強請られた場所に舌を落として、何回かイかせる。客が満足する頃には俺もずいぶん酒が回っていて、だいぶ足取りがふらついた。
少し早かったがその日はその接客を最後にして退勤した。酒の飲み過ぎのせいで頭が痛い。こめかみを抑えながら、控え室のソファの上に投げ出していた自分の荷物を拾い上げる。煙草がもうない。帰りにコンビニで買わなきゃいけない。
「…あれ」
上着の下に置いていた財布の中身を見る。確かあと三万くらいは現金で持っていた筈だ。けれど、ない。札が一枚も入っていない。
「……」
財布じゃなくて服のポケットに入れていただろうかと思い、上着やズボンのポケットの中を確認してみるが、やはりない。どうしてだ。一昨日店長から手渡しで貰ったばかりなのに。自分でも把握してないうちに金を使ってしまったのかとも思ったが、一昨日も昨日もタクシー以外で金を使った記憶がない。考えながら思い出す。おかしい、だって今日の出勤前にそういえば財布の中を確認した。カートンが買えるだけの金は入ってるなって思った筈なのだ。
「……マジか…」
多分、パクられた。カードや小銭はそのままだから、恐らく誰かが万札だけ抜き取ったんだろう。
腹が立って、でも数秒後に怒りは消えた。それより煙草を買う金がないこと、タクシーで帰れないことへの焦りの方が思考を占拠した。誰かに借りられないかと考えたが、気前よく金を貸してくれるような仲の人は、この店にいない。メゾさんだったらタクシー代くらい貸してくれそうだけど、生憎彼は今日非番だ。
その場で立ち尽くし、どうしようかと考える。酒も回ってるせいかろくな案も思いつかず、ただ財布の中を見つめて数秒経った。
とりあえず、クレさんに送迎を頼めるかラインを送ってみようとスマホを取り出す。ラインを開いてクレさん宛に短い文を送信すると既読はすぐについた。回答はいつものように「ごめん今日は無理」という一文だった。
まいった、もう最悪この控え室で寝るしかないかもしれない。誰かが迎えに来てくれるまで動けないし、煙草も吸えない。
物凄く憂鬱になりながら、荷物をどかしてソファに腰掛けた時だ。クレさんから再びラインが飛んできた。
『ダカが車出せるって。あと30分くらいで行きまーす。』
意外な人の名前だったが、俺は素直にありがたいと思った。「あざす」と短い返信をして、それからダカさんが到着するまでの数十分をソファに横たわりながら過ごした。

ダカさんとはラインの交換をしていなかったから、到着の連絡は登録していない番号からの着信だった。通話ボタンを押すと「着いたわ」とダカさんの声が聞こえた。俺は荷物を雑に片手でまとめ、それから控え室を後にした。
店の裏の駐車場、黒のワゴン車の前で俺を待つダカさんがいた。軽く頭を下げると、親指で車に乗るよう指示される。俺は助手席ではなく後部座席に座ることにした。まだ頭が痛いし体もだるい。少し楽な姿勢を取りたかったのだ。
「俺が来てちょっとビックリしただろ?」
車を発進させながらダカさんがそう言う。俺は小さく頷き、それから「あざす」と付け加えた。
「ここんとこずっとタクってるもんな?まあなんか可哀想になってよ」
「…どうも」
「あ、吸っていいよ。灰皿、背もたれんとこに引っ掛けてあんだろ」
ダカさんは前を向いたままそう言ったが、生憎煙草を一本も持ち合わせていない俺は「はあ」と、曖昧な返事をすることしかできなかった。
「あ?どうした?」
「…煙草切れてるんで」
「ふーん。じゃどっかコンビニ寄って買ってくか?」
「……」
無言のままでいると、ちょうど赤信号で車を停めたダカさんがこちらを振り返り「なに、どした?」と俺に問いかけた。
「…なんか、金が」
「ん?」
「パクられたみたいで」
それだけ答えると、ダカさんは「マジかよ」と言って少し笑った。信号が青に変わる。ダカさんは前に向き直りハンドルを握りながら続けた。
「災難だなあ、次給料貰えんのいつ?」
「一昨日もらったばっかなんで…来週の水曜くらいすかね」
「それまでなんも買えねえの?うわーキツイな」
「…そーすね…」
力なく頷く。窓の外で何度も通り過ぎていく街の灯りをぼんやり追いかけながら憂鬱に浸る。煙草が吸いたい。切れている状態が1秒だって続くのが、本当に嫌なのだ。
「ふーん。じゃあ俺貸してやるわ」
ダカさんが前を向いたままそう言う。意外だった。ダカさんからそんなことを提案してもらえるなんて思ってもいなかった。だってこの人に優しくしてもらう理由も義理も、特になかったからだ。
「…いんすか」
「いーよ?一万で足りる?」
「はい」
「じゃあコンビニ寄ろうぜ。そん時渡すわ。給料入ったら返してくれりゃいいからさ」
そうしてここから一番近いコンビニに車を停め、ダカさんは約束通り俺に一万円を裸のまま渡した。
「…あざす」
「おん」
ダカさんは特に気に留めない様子でコンビニの中へ入っていこうとする。俺も追いかけるようにしてその後に続き、店内の中を回らず真っ直ぐレジへ向かった。ダカさんから貰った一万円を早速出してアメスピをカートンで買う。
俺の会計が終わったのと同時にダカさんがレジに並んだ。店員が商品を一つ一つスキャンしていくのを待ちながら、彼は俺に声をかけた。
「外で一本吸ってこーぜ」
「…うす」
ダカさんの会計も終わり、一緒に店を出る。軒先に設置された灰皿の傍に立ち、それから殆ど同時で俺たちは煙草に火をつけた。
数時間ぶりの味にゆっくり目を瞑る。頭の痛さやかったるさが、少しだけ遠のいたような気がした。
「ホスケはいつからアメスピ吸ってんの?」
ダカさんは白いケントの箱を服のポケットにしまいながら俺に尋ねた。
「…高校ん時から」
「ふーん?他の銘柄吸ったりとかはしなかったんだ?」
「や…親父のラークたまに隠れて吸ってましたけど」
俺がそう言うとダカさんは少し笑って何度か頷いた。
「ふーん。俺はさ、ちょっと前までマルボロ吸ってたんだけど客が置いてったの吸ってからなんかこっちのが良くなってよ」
ダカさんがニッと笑ってケントの箱を軽く振る。大して興味のある内容でもなかったが、俺は適当に相槌を入れながら会話を繋げた。
「…ふうん…客?ダカさんもクレさんから紹介された仕事とかやってんすか」
「やー。俺は一応、彫り師っすわ」
「…彫り師?」
「そう。まだまだ一人前とはいかねえけど。修行の身なんだわ」
ダカさんがたるんだジャージの裾を持ち上げてふくらはぎを晒す。その内側に黒い色で花のシルエットが大きく掘られていた。
「これ今年自分でやったんよな、練習がてら。割と上手くいったわ」
「……へえ、すごいすね」
「だは、だろ〜?」
ダカさんが気分良さそうに笑う。俺は内心驚いていた。練習で自分の体に刺青を入れるものなのか。でも彫り師という職業について知っていることなど何もないから、案外それは普通のことなのかもしれない。
「…痛いんすか」
「ん〜…まあ痛いけど。いやでも思ったよりは痛くねえかな。いや、やっぱ場所による」
「…へえ」
「お前もやってみる?」
ダカさんがおもむろに煙草の火を消して俺の肩を乱暴に抱いた。突然のことだったので足がふらつき、体重をダカさんの体に預ける形になってしまった。
「俺、まだ男の客は彫ったことなくてよ。やってみたいんだよな」
「…や、俺は」
「このへんとかどう?かっこいいの入れてやるよ?」
ダカさんがそう言って俺の右手首を掴んで撫でる。首を横に振って言葉無く拒否したが、ダカさんが俺の肩を放すことはなかった。
「協力してくれよ〜?男で練習してえんだよ。俺を助けると思ってさ、な?」
「…や、でも」
「俺助けてやったべ?困ってる時はお互い様って言うべや?な?」
そのセリフを、どこで聞いたのか。数秒考えて思い出した。ああそうだあの日、大学の喫煙所でクレさんが、同じように言っていた。
…よく分からない。助け合うとか手を差し伸べるとか。利用し合って、都合良く消費し合うことと何が違うんだろう。
「断ってもいいけど、だったら今すぐ一万返してくれる?俺もそんなお人好しじゃなくてよ」
笑うダカさんの、こちらにヒラヒラと向けた手のひらをぼんやり見つめる。俺が一万を使ったのを確認してから話を持ちかけようと、初めから考えていたんだろう。そっか。
…どうでもいいや、もう。俺がどうでもいいと思うのだから、もういい。もう、いい。
「…わかりました」
それから部屋に着くまでの車中、ダカさんが運転席で気分良さそうに歌う鼻歌を聴きながら、俺は静かに目を閉じた。
もういいんだ。空っぽのクソみたいなこの体がどうなろうと知ったこっちゃねえよ。
頭が痛い。かったるい。胸糞が悪い。俺の中に巡る感覚はもうずっと、そんなもんばっかだ。




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