Chapter.2-4




車が停まった場所は繁華街の中の店、その裏手側にある駐車場だった。クレさんは「急げ急げ」と言いながら慌てた様子でエンジンを切った。
「よし行こ。とりあえずホスケは歳聞かれたら二十歳って言っといてね。ここ店の裏口。こっから入れるから」
クレさんが早口で説明しながら先陣を切る。メゾさんは俺の隣で欠伸をしながら手首と首元に香水を擦り付けていた。
裏口の扉を開け、店の中に入る。紙がたくさん貼られた細長い通路の先にもう一度扉があり、そこを開けると白く濁った空気が扉の隙間から漏れ出した。これは、煙草の煙だ。
「店長ー、連れて来ましたー」
クレさんが部屋の中に飛び込み叫ぶ。俺は扉の前で一旦立ち止まったが、後ろにいたメゾさんに「入って平気だよ」と言われ、背中を軽く押された。
中に入った途端、煙たく濁った空気が両目に染みた。部屋を囲むように壁に沿ってソファが設置され、そこに何人かスーツを着た男たちが座っている。
他より一回り歳を取っていそうな男が俺の前に現れ、俺のことを一瞥する。男の首にはストラップのついた携帯電話がいくつもぶら下がっていた。
「うん、うん…うん。えーと一応ね。今おいくつですか?」
聞かれ、俺は「二十歳です」と答える。男は「はい」と短く頷いて、それから「じゃあ採用です」と言った。
「あ、メゾ。お前最初についてやって。表でCやってきて。30分くらいしたらお前だけ戻ってきていいから」
「C?うわーいつぶりだろ。了解です」
メゾさんは笑いながら頷いて、部屋の隅にある段ボールの中からなにかの紙の束を持ち出した。
「クレ、紹介料ニ万。ほら」
クレさんが男から茶封筒を受け取る。クレさんは男に頭を下げ、それから俺に「サンキュー」と口パクで言った。
そうか、今やっと合点がいった。この紹介料のためにクレさんはあの時、喫煙所で俺に煙草を買い与えたのだ。
「ホスケ行こ。メチャクチャ簡単だからすぐ慣れるよ」
メゾさんが俺の肩に手を置く。俺は言われるがまま、流されるまま、未だ内容の分からない業務へと就くことになった。

「まあ要はね、キャッチなんだけど」
店の表へ移動したところでメゾさんが俺に仕事の内容を説明した。
「この紙配りながら、羽振り良さそうな女の人に声かけてくだけ。入店させらんなくてもあんま気にしないで。紙がなくなったら終わりでいいから」
「…はあ」
「で、ちょっとコツがあってさ。三種の神器って呼ばれてるセリフがあんのね。まず「メチャクチャかわいいですね!」って、驚いた感じで声かけるの。あ、綺麗ですねとかでもいいよ」
「…」
「それで立ち止まってくれたら「お姉さんにだったら特別待遇効くと思います」って言ってね。それで、インカムで中の人と何かモショモショ話すフリして」
「…フリ、すか…」
「うん。このインカムみたいなやつ、別に中と繋がったりしてないから」
そう言ってメゾさんが俺に渡したのは片方だけの黒いイヤホンだった。コードの先には何もついていない。
「これ、コードの先をさ、こうやってポケットに入れといて。…ね。なんかそれっぽく見えるでしょ」
「…はあ」
「それで最後に「VIPご案内できるんですけど…他のお客さんには内緒にしといてもらえます…?」って、ちょっと困った感じで言えたらオッケー。これで入店断られたら潔く諦めていいよ」
「……はあ」
「あは、まあ見てて。今から俺やってみるからさ」
メゾさんはインカム(のようなもの)をしっかりと片耳にはめ、街を歩く通行人を選別し始めた。
少しして、身なりが派手な三十代後半くらいの女に目をつけ、メゾさんは声をかけに行った。
「すみません!ちょっと、うわ…メチャクチャ綺麗ですね!あの、うちの店、お姉さんにだったら特別待遇でご案内でき…」
女は視線を交わすこともないまま足早に過ぎ去っていってしまった。メゾさんはこちらを振り返り、笑いながら「こういう感じが9割だから」と補足した。

それから数十分、メゾさんは見本を見せてくれた。メゾさんの誘いに乗った客は一人。声をかけた人数を分母にして考えると、たぶん三十分の一ほどだ。
「一時間やって一人も捕まえらんない、なんてこともザラだから。まあ気楽にやってみてね。この紙配り終わったら正面からお店入ってきてくれて大丈夫だから」
「…はあ」
「じゃあ俺、中戻ってるね。また後でねホスケ」
メゾさんは手をヒラヒラと振りながら店内へ入っていってしまった。
俺は手元の紙の束を見る。『CLUB-dire-』と大きく印字された下に、アルコールのメニューが載っている。
ようやく俺は今から自分が何をするかを理解した。要は、ホストクラブの客引きだ。
そんな仕事はもちろん生まれてこのかたした事がないので困った。まず、街を行く人に声をかけることができないのだ。
「……」
立ち尽くすだけで、多分10分は過ぎたと思う。このままではどうにもならない。とにかくメゾさんに言われた通り、手元の紙だけはなくさなければいけない。
頃合いを見計らって、どこかにまとめて紙を捨てて店の中へ入ってしまおうかとも一瞬考えたが、割りかし丁寧に業務を教えてくれたメゾさんのことを思うと少し気が引けた。まずは一枚、誰かに紙を渡さなければ。
その時ちょうどキャバクラで働いていそうな派手な見た目の女が目の前を通った。数歩追いかけて「あの」と声をかける。しかし、女は止まることも振り返ることもしなかった。完全にシカトだ。こういう客引き行為に慣れきっているのだろう。
俺はまた違う女を探す。今度は少し年齢がいっていそうな女に声をかけるが「急いでるんで」と遮られ喋る余地を与えてもらえなかった。
こんな調子で紙が捌けるのか甚だ疑問だったが、とにかく続けるしかない。
金のためとは言え、よく自分はこの仕事を引き受けたものだと思う(もっとも、内容の説明なんて殆どなかったが)。悪いがこれが俺に向いている仕事とは到底思えない。やっぱり今日の分の金をもらえたらそれで辞めよう。
今度は楽しそうに喋りながら歩く女二人組を見つける。俺はダメ元でその二人に声をかけに行った。
「あの」
二人はこちらを見て一瞬足を止める。足を止めてもらえたのはこれが初めてだった。
「…メチャクチャかわいーすね」
メゾさんに言われた通りに勧誘を開始する。すると女の一人がおかしそうに笑った。
「あはは、超棒読み」
もう片方の女も「ほんとだ」と笑っている。二人は立ち止まったままだった。
「…や、ホントに思ってるんで」
「うそだー、マニュアルトークでしょそれ」
「お兄さん新人の人?見たことないかも」
「…はあ、まあ」
頭をかきながら頷くと、女二人はケタケタと笑った。二人からは客引き行為に対する苛立ちを感じない。もしかしたら、この紙を渡すくらいならできるかもしれない。
「紙、貰ってくれる?」
二枚差し出すと、女たちは快くそれを受け取ってくれた。
「紙貰うだけでいいの?」
「うん、どうも」
「じゃあもうちょっと貰っといてあげる」
そう言って女たちは5、6枚、俺の手から抜き取っていった。
「どうも」
お礼を言うと「バイバーイ」と手を振られた。入店はなかったが紙を少しだけ捌くことができ、俺はやっと肩の力を抜いた。
それから何人かに声をかけ、メゾさんから教わったやり方ではなく「貰ってくれるだけでいいんで」と勝手な謳い文句を作って紙を配った。一人も入店させられなくても気にしないで、と言われているのだ。だったら紙を手元からなくすことだけに焦点を当ててしまえばいい。俺は街行く女に紙を配り続けた。

紙の量が最初の三分の一ほどになったところだった。二十代後半くらいの綺麗な女が目の前を通ったので紙を渡しに行く。
「あの、これ貰ってくれるだけでいいんで」
そう言って差し出すと、女は一旦足を止めて紙を受け取った。
「…あれ?やり方変えたんですか?」
「…は?」
女はぼんやり思い出すように「なんかもっと、前はグイグイ来られた気がして…」と言った。
「…あー…新人なんで、俺」
微妙に噛み合っていない言葉を返すが、女は笑って「そうなんですか」と言うだけだった。笑った顔は少し幼い。綺麗な黒髪は街の中で逆に目を引いた。
「…髪、綺麗すね」
思うままに言うと、女は照れ笑いをしてみせてから「ありがとう、嬉しい」と言った。けれど笑った後に女はハッと気づいたように驚いた顔をして俺を見上げた。
「すごい。新しい戦法?」
「え、いや違う。ほんとに思ったんで」
「あはは、そっか。嬉しい」
笑った顔がかわいい。ああそっか、この人ちょっと俺のタイプなんだなと頭の中でぼんやり思う。
「…じゃ、一杯だけ呼ばれようかな」
「え、ほんと?」
「うん。お仕事頑張ってください。行ってきます」
女は軽く会釈をして、そのまま店内へと入って行った。
入店させらんなくても気にしないで、とメゾさんは言ってくれていたが、とりあえず一人入ってくれて俺は胸を撫で下ろした。しかし俺の功績とは言い難い。さっきの女の人が特別いい人だっただけである。
もうこんなことはないだろうなと思いながら、俺は残りの紙を配った。

しばらくしてやっと手元の紙が全て捌けた。
ここに立ち始めて二、三時間は経っているだろうか。それなりに革靴の中の足が痛い。
あの後、もう一人だけ入店まで漕ぎ着けた客がいた。俺の棒読みがウケたみたいで、最後の「VIPご案内できますけど、内緒にしといてもらえますか?」というセリフには大笑いされた。
とにかく、似合わないことをした数時間だった。純粋に疲れた。俺はメゾさんが車の中でスタイリングしてくれた髪が乱れることも気にせず頭をボリボリとかきながら、店の中へ入った。





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