カナと共に貫かれ、それでも逃げ出したダンゾウは今、その逃げ道を失っていた。
これまで橋全体を包んでいた結界が狭まっていく。イギリが印を組み退路を閉ざしたのだ。息絶え絶えのダンゾウは前方を塞がれ、振り返る。すぐそこに迫っているのはサスケ───そして今、マダラもその傍に現れる。
ダンゾウに残されていたすべは、全てを道連れにすることのみだった。最期の術が発動される。マダラの退避を命じる声が飛んだ。球状に全てを巻き込もうとする術は、橋をもえぐり取っていく。
かつての友を追った死は、独り。破壊音が消えて残されたのは、ダンゾウただ一人の亡骸だった。
それを見下ろしたイギリは、息切れと共に膝をついた。結界も消えていく。
「限界のようだな。一度体力を回復しろ、イギリ」
「アンタに聞きたいことがまだ残ってる......」
藍色の目が胡散臭い面を見上げる。だがマダラは「後で聞いてやる。今は戻れ」とだけ言い、イギリの肩にポンと手を置いた。直後、イギリの姿は渦の中に消えていく。その一仕事を終えてから、マダラの眼は隣に向けられた。
サスケの目からは写輪眼が消え、視力が落ち始めている瞳はぼうっとどこを見ているか知れない。その理由が分かっているマダラは、しかし特別その事を言及もせず、すっと動き出そうとした。
「カナは回収しておく。"神鳥"のおかげで出血死はしないだろうが、貫いた箇所が箇所だ。こちらで回復させて」
「アイツに触るな」
しかしサスケの声がそれを遮っていた。マダラは振り向く。漆黒の瞳は敵意を剥き出しに。だがそれ以上は口が動く様子はない。マダラは数秒の沈黙の後に「そうか」と肩をすくめる。
「それなら、あの女にでも回復させておけ。オレは先にダンゾウの体を持って帰る......お前もアジトに戻って一度体を休めろ」
言ったマダラはダンゾウの亡骸に近づいていく。サスケはその言葉をさして意識には留めなかった。ただ、ダンゾウを追いかけるために開いたカナとの距離を、ゆっくりと埋めていった。
香燐は何度も何度もカナの名を呼んでいた。横たわるカナの頬に、点々と涙が落ちている。その目の前には、香燐のいくつも歯形のついた腕が差し出されているのに、カナは一向に噛み付こうとしていなかった。
「何でだよ......ッカナ、頼むから、早く噛めよ......!」
それはもう何度も何度もされたやり取り。だがカナはその度、緩く頭を横に振るのだ。目前に回復するすべを得ているというのに、まるで望んでいないかのように。
ごめんね、とその口が呟く。ワケが分からない香燐は一層泣きわめいた。
「バカヤロー、謝る暇があるならとっとと噛めってんだ!ずっとそのままじゃ、お前、このままッ」
「のけ、香燐」
だがその時、香燐はぞっとするような声を聞いて振り返る。
背後に立っていたのは、真っ暗な瞳を宿しているサスケ。
それ以上すぐに動けなかった香燐の脳裏に甦ったのは、つい数分前の出来事。香燐を押しのけ、ダンゾウを拘束したカナを見て、まるで躊躇もせずにカナごとダンゾウを貫いたサスケ。あの時地面に転がった香燐は、その瞬間を見てしまったのだ。
今 ここにいるサスケも、表情をぴくりとも動かさない。まるで、情の全てをなくしてしまったかの如く。
「もう一度言う。のけ」
「サ、サスケ......ッお前、カナになんてことしやがったんだ!カナに近づいて、どうするつもりだ!」
「邪魔だ」
三度目。サスケの手が風を切る。そして、香燐の体を吹っ飛ばしていた。
軽々と飛んだ香燐は、ガッと頭を岩にぶつける。それきり、その体は動かなくなっていた。
一部始終を見ていたカナは香燐の姿を目で追って、下唇を噛む。だがもう、すぐ傍にサスケの影が迫っている。
目が合った。互いに、ぼやけている目で、それでも見つめ合っていた。
「ご......めんな、さい......」
掠れた声。先に言ったのはカナ。血は今もどくどくと、その体から流れていた。
「ごめんなさい......あなたを、忘れてしまって......ごめん、なさい......あなたを、救えなくて」
謝るその瞳から、涙が零れる。じんわりと滲んでサスケの姿が見えなくなっていく。
あの時、カナは直感的に分かってしまったのだ。ダンゾウが香燐を人質に取ろうと、サスケは頓着なくダンゾウの貫くだろうと。そう分かってしまった途端、動き出さずにはいられなかったのだ。それは、記憶の空白の部分が叫んでいたから。
罪滅ぼしだったのかもしれない。
「......オレが知る"カナ"は、お前じゃない」
サスケの声が言う。
「"お前"は血が嫌いだった」
カナは聞いて思い返す。人の命にそこまでこだわらなかった自分を。
「"お前"は木ノ葉を忘れられなかった。"お前"は里を捨てることができなかった」
木ノ葉という単語を聞いても何も思わなかった自分を。
「"お前"は......オレを」
ここにいるカナは、記憶を失い、かつての思いの全ても失くした。
サスケと出会ったことも、同じ思いを共有したことも、そうして約束したことも、笑い合って泣き合ったことも、他の誰よりも互いに分かり合っていたことも、ずっとずっと一緒に生きてきたことも。
その全てを、忘れた。カナは結局思い出すことができなかった。
それは、間違いなく。
「でも」
カナが唇を震わせて、サスケは止まった。
泣いている瞳はじっとサスケの顔を見上げていた。記憶のどこにもない顔を見ていた。
「一つ、だけ」
憶えていない。だけれど、感じている。喪失した記憶の穴から、それでも滲み出てくる想いが、ずっと"今のカナ"にも伝わっていた。
「なんでかな......ずっと、ずっと、これだけは、はっきりしてた......ほかのなにも、憶えてないのに、たった一つだけ......」
カナは薄く笑った。
それは、ふわりとした、かつてのカナの笑顔と酷似した笑顔。
「"私"......あなたを、愛してた」
サスケを見る時。カナは何も憶えていないのに、他の人を見る時とは違う感情が流れるのを感じていた。
香燐が言っていたように、ドキドキするわけでも、もっと近づきたいと強く思うわけでもない。だからきっと、"好き"だという感情ではなかったのだろう。
では何だったのか。
好きとか、恋とか、そんなものでは言い表せられないこの想いは───
「......そうだな」
言ったのは、サスケの声。
動揺も何も無く、落ち着いた声がカナに落ちる。
「オレも"お前"を、愛していた」
───きっと、愛だった。
チリチリ、と何かが鳴き出す。カナはそれを見上げていた。青白い雷光がサスケの手に宿るのを、ただ見上げていた。
つぅ、と目尻から落ちた涙。やはりカナは、最後まで嘆くこともなく、ただ笑っていた。
「サスケくん!!!」───その声が、サスケを止めるまで。
ーーー第六十二話 「あなたを」
木ノ葉を出て、ナルトに話をし、それでも自分の決意を変えなかったサクラは今、呆然としていた。
橋の上。まだ遠くに見えるその姿は、間違いなくサスケだった。だがその足元に横たわっている姿もまた、サスケと同じく里を抜けた一人の仲間だったのだ。
尋常ではない量の血を流しているカナ。サスケは今、何をしようとしていた?
「......なんで......」
言いたいことがあったはずなのに、サクラの頭からそれらは一瞬で消えた。
「......サクラか」
一旦 千鳥を消したサスケがサクラを振り返る。その、真っ暗な瞳。微かに目を開けているカナもサクラに気付いたようだ。だがカナは不思議そうにゆっくり目を瞬くだけだった。
「サスケくん......何で、カナを」
「何しにオレの前に来た?」
冷たい声。サクラの身が震える。その視線はサスケとカナを交互に見やり、言うはずだった言葉は全て呑み込むしかなかった。
「(とにかく、カナを......)」とサクラは足を速める。戦闘の痕が痛々しく残る橋を歩いて行き、徐々にサスケとカナに近づいて行く。だが、医療忍者としてサクラがカナを看るには、当然サスケがそこに立ちはだかっていた。
「何しに来たって聞いてるんだ」
もう一度サスケの声が言う。もう少しで辿り着くというところで、サクラは足を止めざるを得なくなった。写輪眼でもない黒の瞳が威圧感を放っている。まるで、これ以上近づくことを許さないと言わんばかりに。
「私......」と、サクラは震える唇で、ようやく吐き出した。
「サスケくんに、ついて行く......私も木ノ葉を抜けて、一緒に、行く......」
だが、断言するにはあまりに弱い声。その原因は間違いなく、サクラの視界に映る毒々しい赤のせいだ。
「お前がオレについて来て何の得がある。何を企んでる?」
「な、何も、企んでなんか......ただもう、後悔したくないだけで......サ、サスケくんの望み通りに動くから、その」
「オレの望みを知ってるのか」
びくりとサクラは揺れる。
「木ノ葉を潰す」
「!!」
「それがオレの望みだ。......お前は本当に、オレの為に木ノ葉を裏切れるのか」
ごくりとサクラは唾を呑み込んだ。何故サスケが木ノ葉に敵意を剥き始めたのか、全く分からない。
サクラの目は泳ぎ、カナに向かう。心中、カナに救いを求めたのかもしれない。だが血を吐くその口は何も言おうとしないまま。
「......もしかして、カナとは意見をたがえたから、こんな」
「それはお前には関係のない話だ。で......どうなんだ?お前は木ノ葉を潰せるのか」
カナについては何も言おうとしないサスケ。サクラは歯をぐっと噛み締めた。
覚悟が恐怖に呑まれる。里を抜ける───その言葉が、もう一度サクラの口から出てくれない。その言葉は嘘で、そう言うことでサスケを油断させ、サスケにこの場でとどめを刺すつもりだったのに。そういう覚悟を決めたはずなのに、サクラは今のカナを見ると口にできなくなっていた。
「サ.....サスケくん。まずは私に、カナを看させて......お願い」
なんとかサクラの口から出たのは、結論を先延ばしにする言葉。
サクラの思いが届いたのかどうか、サスケは何も言わない。その視線をカナに落として、それからすっと身を引いた。僅かに安堵したサクラは徐々に近づいて行く。カナの傷を改めて近くで見て息を呑んだ。
「(これ、千鳥が貫通した痕......じゃあやっぱりカナは、サスケくんに)」
カナの口が僅かに動いたが、聞き取れるほどの声ではなかった。眉根を寄せたサクラは掌仙術を使うために手袋を外そうと手をかけた。
だがその前に、ハッとする。カナの手が僅かに上がって、サクラの体を押しのけようとしたのだ。
その意味が分からずサクラは目を丸めた。
「カナ?」
「サ.....スケさん、やめて......」
違う。
カナはサクラを押しのけようとしたのではなく、サスケから庇おうとしていただけだった。
その時には既に、サクラの背後に千鳥が迫っていたのだ。
振り返ったサクラは動けなかった。迫ってくる青白い光に囚われてしまったかのように。
それを阻止したのは、サクラでもカナでもなく、新たに現れた第三者。
「堕ちたな......サスケ」
千鳥を見切れるのは、同じ術を与えた師しかいない。ガッ、とサスケの手首を掴んだのはカカシだった。
サクラは目を見開く。サスケは目を眇め、瞬時に蹴りを放った。だがいくらかの体術の応酬では決着つかず、サスケは一旦カカシから離れる。
横たわるカナの傍に、サクラ。二人を守るようにカカシが立ち、向かい合うのはサスケ。
「次から次へと......」
サスケが鼻で笑う。カカシは強ばった表情で後ろを振り向いていた。
血反吐を何度も吐いたであろうカナは、朦朧とする意識をなんとか保っている状態だ。荒い息が誰もの耳に届いていた。カカシは聞かなくても、もう分かっていた。こうしたのはサスケであると。
「記憶を失くしただけで、お前の中のカナは消えたのか。サスケ......」
瞠目したのは知らなかったサクラ一人だ。サスケはぴくりと眉根を動かし、苛立たし気に吐いた。
「何やら知ってるようだが......アンタには関係無い話だ。口出しされる義理はない」
「カカシ先生、それって」
「......詳しいことは後で話すよ、サクラ。それよりお前......一人でサスケを殺ろうとしただろ」
「!」
「そんな重荷をお前が背負うことはないんだよ」
言い聞かせるようなカカシの声に、サクラはそっと目を伏せた。
顔を動かすこともままならないカナは、今は目の前にあるサクラの顔を見上げる。その酷く辛そうな表情。次にカナの目はサスケに向き合うカカシの背を捉える。そこにも、ある種の哀愁が見えた気がした。
「(......この人たちも......彼を)」
"今のカナ"にとっては見覚えのない二人。だがカナは感じた。この二人にも、カナ自身が持つ思いと同じものが流れていると。
「サスケ......オレは同じことを何度も言うのはあまり好きじゃない。だが、もう一度だけ言っておく」
憎しみに染まっているサスケへの、憂い。
「復讐に取り憑かれるな」
だが、響き渡ったのは孤独な笑い声だった。
"木ノ葉"の忍にそれを言われる。サスケにとっては馬鹿げた話にも程があった。サスケへ復讐心を連れて来たのは、他でもないその里だ。
「イタチを......父を、母を......一族を!!ここへ連れて来い!!そしたらそんなものやめてやる!!」
「......お前を殺したくはない」
「オレをいつでも殺せるみたいな言い方だな!いつまでも先生面すんじゃねェよ。オレはアンタを殺したいとウズウズしてるぜ、カカシ!」
その狂気じみた表情は、最早昔のサスケではない。
サクラは唇を噛み、カカシは覚悟を決めた。ちらりと背後を伺う。声を出すこともままならないカナと、そして少し離れた場所にはもう一人、香燐が頭を打ったまま気絶している。「サクラ」とカカシは声をかけた。
「まず、カナに応急処置を......それからそこに倒れてる子も拾って、ここから離れろ」
「先生は......?」
不安そうな色がサクラの声に滲む。だが、カカシははっきりとは言わなかった。
「お前の覚悟の重さは、オレが受け取るよ。......ま!これはオレの役目だ」
サクラの覚悟。それは、サスケをこの場で終わらそうとしたこと。カカシがそれを受け継ぐという。サクラはぐっと言葉を呑んだ。カカシはいつも通り安心させるような笑みを向けてくれるけれど、それはどう見ても、無理した笑顔だった。
だが「ホラ早く行け、サクラ」とすぐ言われ、サクラは二の句を告げない。堪えて、横たわるカナの頭の下に手を入れた。
「......おねが、い」
だが、その時 カナの息がようやく言葉をなして、サクラの耳にもカカシの耳にも届いていた。
「彼を......殺さないで」
サクラは息を呑む。カカシは眉根を寄せて強く目を瞑った。
カナの目尻からまた涙が落ちる。たったそれだけの言葉だったが、それは自分を殺そうとした者の救いを望んだ、心からの嘆願だった。息をするので精一杯な口を、動かす。
「おねがい......やめて......!」
「サクラ行け!!」
カナの願いを掻き消さんとばかりにカカシが言う。悲痛の声色。聞いたサクラの瞼もじんわりと熱くなり、頷かざるを得なかった。
サクラはぐっとカナの体を引き寄せ、走り出した。振り切るように。サクラが香燐も連れて行くと、そこには本当に二人だけになる。
果たしてサスケには先ほどのカナの声が聞こえていたのか。相変わらずサスケの表情には憎しみしかなかった。
一度目を落としたカカシは、しかしまた真っ直ぐ教え子を見据える。いつもは隠している、普段敵にしか見せない左目の写輪眼を露にした。
「どんなに堕ちても大蛇丸がかわいいと思えていたんだな......三代目火影様がどんな気持ちだったか、今になって分かるとはね」
「それなら、アンタは三代目の二の舞を演じることになる」
向かい合うかつての師弟。真っ先にサスケが動きだし、戦いは始まった。
その戦闘音を背後に、サクラはカナへの治療を始めていた。
横には香燐も寝ているが、よっぽど頭を強く打ったのか起きる様子はない。仰向けで治療を受けているカナは、大量の血を流し痛みも半端ないはずなのに、それでもなんとか意識を繋いでいた。そうして、サクラの顔をぼやける視界で見つめていた。
サクラが流す大粒の涙は、あまりにも哀しい色をしている。
───本当は、殺したくないんだね。
掠れ掠れのカナの声がサクラの耳に届き、一瞬、その口から嗚咽が漏れた。
それでもなんとか堪えようとする。自分の気持ちを紛らわすように、サクラは泣きながら無理やり笑って、自分の手に意識を集中した。
「記憶を失くしたって、本当なんでしょ......バカカナ。なのに、何でそんなこと、分かんのよ......」
鮮やかな桜色は震えている。想い人を殺す覚悟は、あまりにも重過ぎた。
橋から下り、川の上に出現した須佐能乎。その矢が飛んで、今 大量の水がドッと跳ね上がっていた。
まるで爆発するような勢いを見せていたが、しかしその中には水浸しのカカシが立っているだけ。カカシの万華鏡写輪眼の能力・神威が矢を消滅させた結果だった。
「まさかうちはでもないアンタが万華鏡を開眼してるとはな。助かったのはどうやらその眼の能力らしいが。うちはの力に感謝するんだな」
サスケのセリフはどれもこれも一族に固執したものだ。だが数年前のサスケも知っているカカシは、昔を思い出させるように語りかける。
「サスケ......お前の中にあるのは、一族だけじゃないはずだ。憎しみだけじゃないはずだ......もう一度 自分の心の奥底を見つめてみろ」
「まだそんなこと言ってんのか」
「お前は本当は、分かっているはずだ」
口を閉じたサスケの脳裏には、カカシの望み通りあの頃の"平和"が映し出された。共に歩んだ同期たちの姿。その全員があの頃の幼い姿形のまま、笑顔でサスケを見ている。
サスケはぼやくように、「全員、笑ってやがる......」と小さく漏らし、それから怒鳴った。
「イタチの命と引き換えに笑ってやがる!何も知らずに一緒にヘラヘラ笑ってやがる!!」
サスケは知らないのだ。サスケが成長したようにあの頃のみなも成長し、色んな痛みを抱えながら生きていることを。
「今のオレにとって、お前らの笑い声は軽蔑と嘲笑に聞こえる!!」
あの頃を捨ててしまったからこそ、痛みを全て自分一人で背負わなければならなくなったことを。
憎しみに呼応した須佐能乎の容貌が変わっていく。カカシは目を丸めて顔を強ばらせた。
「その笑いを、悲鳴と呻きに変えてやる!!」
だが結局、それは数秒も無かった。巨大化していた須佐能乎が急激に力をなくし、肉が落ち、消えていったのだ。目を疑ったカカシが見たのは、不意によろめき、両目を抑えたサスケだった。
万華鏡の使い過ぎによる副作用。「クソッ」と漏らし、痛みを堪えつつカカシを見ようとしても、今のサスケが認識できるのはうっすらとした色のみ。何度目を擦ってもそれが治る様子がなく、サスケは何度も悪態をつく。
「......!!」
そんなサスケの代わりに、真っ先に気付いたのはカカシだった。
サスケの頭上。
そこにあったのは、橋の裏側をチャクラコントロールで伝い、その手にクナイを持つサクラの姿。
「(カカシ先生に重荷は背負わせない!)」
その瞳に再び宿った決意は果たして。
「(サクラ、何で出てきた......よせ!!)」
カカシは内心怒鳴って、そんなサクラを止めるために走り出す。
そして、橋の上から川を覗き込む顔もそこに。サクラに応急処置だけ施され、そこまで体を引きずったカナがその場面を上から。
「(......!)」
その瞳に映る三人の影。今、サクラが橋の裏から飛び降り、サスケの背後に迫っていた。
だがやはり、サスケの背を刺そうとする手はその場で止まったのだ。
震える手、落ちる涙。想い人の懐かしい背中。サクラは、それを貫けなかった。
直後、気付いたサスケが振り向く。その手は容赦なくサクラの首を掴んだ。
「サクラ!!」
カカシが叫んで走り出すが、瞳力を使った副作用のために足がぐらつき、間に合わない。今、サスケの手がサクラからクナイを奪ったのだ。
「よせ!!サスケェ!!」
クナイが風を切る。サクラの首を狙って。そこには恐らく、一秒となかっただろう。
しかし、カナは目を瞬いていた。
それは川の上の三人ではなく、別方向から来たとある人物を目に映したからだった。
どこまでも輝く髪色。どこまでも澄んだ空色の瞳、そしてそこに宿るどこまでも真っ直ぐな意志。
少年は一直線に仲間の元へ目指していた。仲間を守るために走っていた。
それに初めに気付いたカナは、自分の力が勝手に働くのを感じた。何かを考えたわけではなかったのに。
風が、金色を後押しする。風の速さに乗った少年が、危機一髪、サクラを抱えて助け出していた。
交錯した視線。世界を覆う空色の瞳と、世界の色を失いだした黒の瞳。
「ナルト......!」
救われたサクラが呟く。カカシはその一瞬の隙に体術を放ち、サスケをその場から遠ざける。ナルトはゆっくりとサクラを川の上に下ろした。
「サスケェ......サクラちゃんは同じ第七班のメンバーだぞ」
「元......第七班だ。オレはな......」
すぐさまされた返答には、笑みまで讃えて。ナルトは目を細めてから、ふっと橋の上を見上げた───そこにある銀色。
ちょうどその時、身を乗り出していたカナの体がぐらついた。体の痛みに耐えきれなかったカナの体はそのまま落ちてくる。誰もがハッとしてそれを見上げるが、真っ先に動いたのはナルトだった。
現れたナルトの影分身が、カナの体を受け止めたのだ。
「カナ......!」
カナが川に沈まなかったことにホッと安堵したのはサクラ。サスケは、動かなかった。影分身のナルトは抱えているカナを見下ろす。
「カナちゃん、大丈夫か」
だがカナは何も言わない。なんとか保っている意識の中でサスケを見つめるのみ。
本体のナルトはその様子を見て、サクラが治療したばかりの傷痕も見つけてから、再びサスケに視線を流した。
「カナちゃんをこんなにしたのもお前か......」
今度は何も言わないサスケ。しかし、肯定の証だった。
そうして揃った旧第七班。
サスケ。ナルト、サクラ、カナ、カカシ。数年ぶりの、喜びの欠片もない、冷たい空気の中での再会だった。
「もう分かっただろ......ナルト。サスケはもう昔のサスケじゃなくなってる」
カカシの抑えたような声が言う。サクラを殺そうとしたことも、カナに千鳥を喰らわせたことも確か。以前のサスケはどこにも見えなくなった感覚が、カカシとサクラには押し寄せていた。
だが空色の瞳はただ真っ直ぐサスケを見るばかり。ナルトは一歩前に進み、サスケと向かい合った。
「サスケ。......イタチの真実ってのを、トビってヤツから聞いた」
「......」
「嘘か本当かはよく分からねえ......けど、どっちにしても。お前のやってることは」
ナルトははっきりと口にする。
「分かるってばよ」
サクラもカカシも目を見開く。影分身のナルトに支えられるカナは、そこで初めてサスケからナルトに視線を移した。
一方でサスケは憎々し気に顔を歪ませる。
「ナルト......前に言ったはずだ。親も兄弟もいねェてめェに、オレの何が分かるってな......他人は黙ってろ!!」
「ッナルトがどんな想いで里抜けした二人を......!」
サクラはそこまで吐き出してから、一旦言葉を呑み、もう一度口に出す。
「......サスケくんを。どんな悪いことを耳にしても、ずっと仲間だと思ってた!みんながサスケくんを狙っても、ナルトだけは......ずっとサスケくんを助けようと思ってる!今だって!」
「オレを助ける......?何から」
「それは、」
「復讐だってばよ」
サクラの言葉を引き継いだナルト。その脳裏には、自来也の顔、父の顔、そして長門の顔が過っていた。何十年も何百年も続いて来た、この忍世界における憎悪の連鎖。その結果が目の前のサスケなのだ。
悪いのはサスケじゃない、復讐だ。
「オレはぜってェ、お前を復讐の泥沼から助け出してやる」
「......フン。そんな必要はない。オレの復讐の幕は既に上がった」
しかし闇に染まり、視界も歪んでいる今のサスケにナルトの光は届かない。
「さっきだ。さっきやっと一人だけ、イタチの仇を討てた。木ノ葉の上役をこの場で殺した......ダンゾウってヤツだ」
「......!」
「今までにない感覚だ。汚されたうちはが浄化されていく感覚、腐れきった忍世界からうちはを決別させる感覚!」
ナルトは黙って、歴史に囚われたサスケをただ見つめる。
「ある意味お前ら木ノ葉がずっと望んできたことだ......昔からうちはを否定し続けたお前らの望み通り、お前らの記憶からうちはを消してやる!お前ら木ノ葉の全てを殺すことでな!!つながりを全て断ち切ることこそが浄化、それこそが本当のうちは再興だ!!」
一度全ての光を失ってしまったサスケは、最早もう一度光を差し出されたところで受け入れられなかった。
サスケの声を全て聞いたナルトは、サスケの光"だった"カナを振り返る。今は自分で立つことすらままならないカナは、記憶を失ったばかりに何も言えないのだ。ナルトは理解していた、だからサスケは暗闇に呑まれてしまったのだと。
「......もしカナちゃんが記憶を失くしてなかったら、なんて言ってただろうな......サスケ」
「"たられば"の話か?意味もねえ。考えるだけ無駄なんだよ」
サスケはカナを見ない。サクラは目を伏せる。ナルトは再びサスケを見据えて、そして十字印を組んでいた。しかし煙が吹いてまた二体の影分身が現れた時、その前に差し出されたのはカカシの腕だった。
「これはオレの役目だ」
師として、かつての弟子を止める役目。
「ナルト、サクラ。お前たちはカナを連れてここから消えろ」
「カカシ先生、でも!」
「シズネに教わった毒付きクナイじゃサスケは死なないよ、サクラ......大蛇丸に耐性を埋め込まれてる。それに、もう自分の気持ちが分かったろ」
一度目、二度目と決意を固くしても、結局クナイを振れなかった自分を思い出してサクラは俯く。
サスケは気にもせずさっさと千鳥を発動した。パチャ、パチャと雷光を片手に近づいてくる音。カカシも同じ術をその手に宿らせ、進んでナルトの前に出た。
「ここにいれば見たくないものを見ることになる。お前らは今のうちに」
「カカシ先生それってば、サスケを殺すってことか」
ナルトの直球な言葉。サクラ、そしてカナも震えた。カカシの背中はそれには応えず、「行け!」とだけもう一度。だが、諦めない空色の瞳が取る選択は、そんなものではなかった。
「!?」
ナルトの影分身一体がカカシを後ろから止め、その間に本体が飛び出したのだ。
サクラが「ナルト!」と叫ぶ。カカシも制止の声をかけた。カナは眩しそうに目を細め、小さくなっていくナルトの背を見つめるばかりだった。
ナルトの手には螺旋丸。サスケの手には千鳥。
それは、かつても戦った、二人だけにとっての懐かしい図。あの時よりもずっとずっと成長した二人は、あの時よりもずっとずっと重いものを背負って、それぞれの術を放ったのだった。
周囲の者にとったら一瞬の交わり。
けれど、ナルトとサスケ、二人にはそれはもっと長い時間に感じられた。
「螺旋丸!!」
「千鳥!!」
二人の力は、まるで鏡のように同じだった。
川の水がドッと跳ね上がる。二人の体は反対方向に弾かれた。
雨のように川の水が降ってくる中、ナルトの体はカカシが跳んで受け止める。一方でサスケが岩とぶつかるダメージを軽減したのは、突如サスケの体から出てきた白い物体。
白ゼツが形を成し、吹っ飛んだサスケを支えていたのである。サスケは視力も失いかけている目で睨んだ。
「お前は......いつの間に」
「もう随分前からお前についてる。ホントはお前に気付かれないようにって、トビに言われてたんだけどね。どう見てもコレ、ピンチだからさ」
五影会談・ダンゾウ戦と続いたサスケはほぼ満身創痍と言っていい。対する木ノ葉の面々はほぼ万全。ナルトはカカシのお小言にも耳を貸さず、またサスケに向き合おうとしている。
その口がぼやいた。
「これで......ハッキリした」
「......ハッキリした?一体何のことだ」
しかしナルトは応えない。ただ真っ直ぐサスケを見据えるだけだった。無言の二人の視線が再び交わる。二人にしか分からない交錯。
サクラ、カカシ。そしてカナも、ナルトを見つめていた。だが、不意にぞくりとする気配を感じ、カナは顔を強ばらせる。
今、サスケ、ゼツの隣に現れた渦模様。
橙色の仮面。カナだけでなく、ナルトたちもハッとした。
「帰って休めと言ったはずだが?サスケ」
ゼツから緊急連絡を受け、再びこの場に現れたマダラは、体力が切れる寸前のサスケを見てから木ノ葉側に視線を流していた。
カカシ。ナルト、サクラ。そして、カナ。仮面の奥の写輪眼がすっと細まる。
「カナを九尾に取られたのか?」
「取られたっていうか......ねえ。サスケが殺そうとしたところを、助けられたっていうか」
一部始終を見ていた白ゼツのほうが応える。サスケは何も言おうとしない。マダラは数秒黙った後、やれやれと言うように首を振った。
「サスケ、九尾とはちゃんとした場を設けてやる。カナは今オレが奪い返そう」
ぴちゃり、とマダラの足が一歩前に進み、川が揺れた。だがもう一歩進む前にマダラはその肩を強く掴まれていた。顔だけで振り向けば、息切れが収まらないサスケがマダラを睨んでいる。
無言だ。だが、マダラは既視感を得て脳裏に思い起こした。ダンゾウを回収する前と似たような視線。
「(......無意識か、それとも)」
マダラが何とかと言う前に、サスケは無視して前に出ていた。それに応ずるようにナルトも前に出てきている。二人、また向かい合う。
先に口を開いたのはナルトだった。
「サスケェ......覚えてっかよ。昔 終末の谷で、お前がオレに言ったことをよ。"一流の忍なら"ってヤツだ」
一流の忍同士なら、拳を一度交えただけで互いの心が読めるのだと、あの日。終末の谷で向かい合った時、サスケは涙を流すナルトに言って嘲笑った。
成長したナルトはトン、と自分の左胸を親指で指して、「直接ぶつかって、今は色々分かっちまう」と呟く。そして曇りない瞳でサスケを見る。
「サスケ。お前も本当の心のうちが読めたかよ......このオレのよ」
「......」
「それに、見えただろ?お前とオレが戦えば」
二人以外には、分からない。
「二人とも死ぬ」
しかしそれは、二人だけにとっての真実。周囲の者には動揺が走ったが、サスケは何も言わなかった。ナルトは続ける。
「お前が木ノ葉に攻めてくりゃあ、オレはお前と戦わなきゃならねえ。憎しみはそれまでとっとけ......そりゃあ全部オレにぶつけろ。お前の憎しみを受けてやれんのは、オレしかいねえ。その役目は、オレにしかできねえ!そん時は、オレもお前の憎しみ背負って、一緒に死んでやる!」
ナルトの心から溢れた言葉は、ここに来て、初めてサスケの心に届いたのかもしれない。サスケはギリッと歯ぎしりする。「何なんだ.....ナルト」と溢れた言葉は、滲んだ戸惑いを掻き消すように。
「てめェは一体何がしてェんだ!何でそこまでオレにこだわる!?」
「友達だからだ!!」
何の飾り気もない言葉。ナルトにとっては、たったそれだけが理由だった。
「サスケェ。お前と分かり合うにゃ一筋縄じゃいかねーって、初めて会った時から分かってたよな......そういやよ。カナちゃん巻き込んで言い合ってた時も、七班でチームになってからも、お前と語り合って分かり合ったことなんて、一度もなかったっけなァ」
ナルトのセリフであの頃を思い出し、サクラはぎゅっと拳を握る。カカシは目を伏せ、その頃の記憶がないカナにも何かが胸に滲む感覚があった。
「拳で分かり合うのがお前とのやり方なのは、間違いねえよな!」
ナルトは笑って"ただのケンカ友達"に拳を突き出す。オレはまだ諦めてねえ、といつもの信念を何でもなさそうに言って、口ベタなオレが説教なんてガラじゃなかったな、と少し恥ずかしそうに頭を掻く。
今語りかけているのは、抜け忍でも復讐者でもない、ただの友達だから。
「へへへ......もし行き着くとこまで行って、お互い死んだとしてもよ。うちはでもなく、九尾の人柱力でもなくなってよ。何も背負わなくなりゃあ、あの世で本当に分かり合えら!」
サクラの頬に涙が伝う。けれど今度のそれは、悲しさが滲んだものではない。
ナルトはまるで太陽のよう。今すぐは無理でも、きっとその光は深海に沈んだサスケにも届く。
「オレは変わりはしねェ......お前と分かり合う気もねェ!死ぬ気もねェ......死ぬのはお前だ、ナルト」
「死ぬなら一緒だ、サスケ」
どこまでも、真っ直ぐ。沈黙が降りてもナルトはサスケから目を一度たりとも逸らさない。
「......いいだろう。お前を一番に殺してやる」
「オレってば、まだお前にちゃんと認めてもらってねえからよ......」
「もういいナルト。サスケはオレがやる......お前には火影になるって大切な夢がある。サスケの道連れでお前が潰れることは、」
「仲間一人も救えねえヤツが、火影になんてなれるかよ」
カカシの声を遮ったナルト。それは、いつかと同じセリフ。ナルトはどこまで行っても変わることなんてない。
「サスケとは、オレが闘る」
迷いのない言葉。敵としてではなく、友として。サスケを、サスケの思いを殺すためではなく、痛みを分かり合うために。
いつか第七班みんなでまた笑い合う、そんな未来を掴み取るために。