「土遁 土龍弾!」
「風遁 風波・裂!」
土遁と風遁が何度も唸りをあげてぶつかる。悲鳴を上げるようにして術は消えていく。
「水遁 水乱波!」
「土遁 土流壁!」
土の壁が水を阻む。カナはその壁が崩れた瞬間にクナイを放ち、奇襲する。それを刻鈴で跳ね返した北波、その背後にカナが迫るが焦りはなく、体術には体術で対処する。蹴りには足で、拳は避けて、不意の忍具には刻鈴で弾き−−鳴らす。
カナの頭にまたぐわりと記憶が大きく揺れて、それが隙となった。北波はカナの胸倉を掴んで地面に叩きつける。痛みに歪んだカナの目と、北波の光のない目がかち合う。だがそれも一瞬、北波は自ら後方に下がって印を組んだ。
「土遁 蟻地獄」
ぼこり、とカナの寝ていた地面がへこむ。浮遊感を覚えたカナはハッとして下を見る。現れたのは何もかもを呑み込むかのような穴ーーー飲み込まれるーーーわけにはいかない。
だが。
「水遁」
カナがまず唱えたのは自分を助けるすべではなかった。その声にハッとした北波は、不意をつかれたように上空を見上げる。蟻地獄の底から降ってきたのは雨。そこらじゅうを水浸しにした水溜りは北波の足元にまで広がった。
「水飴拿原!」
北波の足が捕まる。その一秒後、多少砂に飲み込まれたであろうカナが風に浮き上がって降りてくる。動けない北波からせめてもの手裏剣が投げられるが、風がそれを防御する。そして降りる寸前、更なる術を。
「風遁 風波!」
カナの手によって操られた風が北波に向かう。その前に刻鈴が音を奏で、カナの手元が狂う、しかしそれでもカナはかろうじて北波に意識を集中した。狙ったのはその北波の手元。
風波は正確に刻鈴に当たり、抵抗も虚しく手から離れた。
空中で何度も何度も回転しながら、刻鈴は飛ばされた。
カランカラン、と転がったのは、紫珀を包む風繭の傍だった。
「、ハァ、ッハ、」
自分の一族の悲劇から、カナはようやく解放された。だがまだそれだけにも関わらず、"神鳥"朱雀の力も使わないカナはチャクラ切れ寸前だった。水遁・水飴拿原もすっと消えていく。地面に膝をついたカナは呼吸を必死に整えようとする。その矢先に、砂利を踏む音が前方から。
北波の目がカナを突き刺している。カナに似た銀色は、鋭い光を放っていた。
「もう......終いだな」
たった数分の攻防しかしていないのにも関わらず、その中でも術名を叫ぶ声は聞いていたにも関わらず、カナには北波の声がもう久しぶりに感じられた。
「お、しまい......」
「チャクラ切れだろ...」
「おしまいというなら、私は、この先に行く...!」
「違うな。幕を下ろすんだよ...お前の生に。そして、オレの全てに」
紫珀を包む風繭の音が二人の耳元にまでざわめいている。
北波は静かにカナに近づき、一定の距離で止まった。その体がチャクラを練っている気配がカナにも伝わってくる。一旦目を伏せたカナもそれでも立ち上がる。深く、深く、深呼吸をした。
「あなたを、殺すつもりで攻撃する......」
大丈夫だ、とカナは自分に唱えた。
「"私"の全力じゃ、多分それでもあなたは死なない。だけどそのつもりでもなきゃ、あなたの先に進むことはできない」
「...死なないと分かってての、"殺すつもり"かよ?つくづくお前はバカだな...ホントに」
北波がゆっくり印を組み始める。体の奥から全てを練りこむようなチャクラがどんどん高まっていた。カナも一つ一つに念を込めて印を組んでいた。
その数秒の間に、不思議と北波との戦闘の数々が思い起こされる。そして、自分の思いも。
「どうしても、教えてくれませんか」
カナの髪はもう風に揺れていた。体の周りを舞うように風が吹き上げていた。
「あなたが、私を恨む理由...」
「......今更だ。もう終わりっつったろ?教える意味もねえんだよ」
だが、北波はそれを皮肉気に笑って退ける。聞く耳も持たない。カナに向けられた北波の目は、三年前と同じまま。
「土遁 臥竜の術。......構えろ」
「......風遁 風車・剣」
北波の腕を呑み込むように現れた術がカナに牙を向けている。カナの体をまとっていた風は一点拳に集中し、裂くような唸りをあげた。竜はカナの全てを呑み込まんとばかりに大口を開けている。風は触れるもの全てを刻まんとばかりのチャクラ量。
これがきっと、お互いに、最後の術だ。
どちらからともなく走り出す。
竜が、天を貫くほどの咆哮を上げていた。
たったの一瞬が二人には何秒にも何十秒にも感じられていた。
同じ銀色が風になびき、同じ瞳の色が相手を見つめる。互いの距離がどんどん狭まり、互いの術がどんどん近づく。
『いーや、構わねえよ?』
中忍試験、一次試験会場での出会い。ぶつかったことを謝ったカナに北波は最初から意味深な目を向けていた。その口で知っているふうに、姫、とカナを呼んだ。
それが初対面だった。そのはずが、北波はカナのことを知っていた。
何故かは言わない。結局北波自身がそれを伝えようとすることはなかった。二度会っても、三度会っても、そして今この瞬間、最後であると口にしても、結局いつまでも。
隠すかのように。
結局北波は、自分で口にすることはなかった。
「やめえっつっとるやろが、こんのッバカ兄妹がァーーーー!!!」
紫珀の怒鳴り声が空に届いた。
ーーー第四十七話 痛み
竜の大口がカナの目前に迫る。北波のほうがリーチが長く、術が届くのも早かった。それをかろうじて避けようと、多大に練りこまれたチャクラが意思を持ってカナを攻撃した。
泥に呑まれる。それでもカナは退かない。目前に迫った北波に、自分もまた術を仕掛けたーーー
その時聴こえた相棒の声が、全神経を停止させた。
「−−−え?」
大きく見開いたカナの瞳に、同じように、いやそれ以上に目を丸める北波の顔が映った。
泥の威力が衰える。北波の目の揺れは、カナよりも。
その瞬間に攻撃云々のことなど考えられなかった。カナの術はそのまま、発動される。カナの拳が北波の胸に届いた瞬間ーー爆発的に風が四散していた。豪風が弾くように北波を、そして、自分の身を考えることさえ忘れていたカナでさえも、後方へ弾いていた。
両者共に地面に転がり、北波は強く木に打ち付けられる。仮にも術者であるカナへの被害はそれよりも軽く、ざっとすぐに体勢を立て直す。
しかしそれでも、声は出ない。
カナの頭は真っ白のまま、その原因である相棒を呆けて見ていた。
紫珀はその足元に、封印式を描いていた。複雑な術式が描かれて中央には"風"と雑に刻まれている。シュウ、とその中央から煙を出しているその封印式に封じたのはカナの風繭。紫珀が唯一得意な封印術で、自ら状況を打破したのだ。
指、爪からは血が滴っている。かろうじて立っていた紫珀は、その時膝をついていた。口寄せの効果がチャクラ消耗と出血のせいで切れかかっているのだ。
「もう、少しだけ、耐えろ......!」
自分自身に唱えるように。紫珀がそう声を漏らしたのがきっかけとなるように、その相棒であるカナもようやく口を動かした。
「な......なんて、言ったの......?」
震えている。目を見開いたまま。冷や汗が額を、頬を伝って、ぽたりと地面に染みこんだ。
「紫珀......今、きょ、兄妹って...」
「......血が繋がっとるわけやない」
「なに......どういうこと?そんな、北波さんは、じゃあ...」
「...ああ。お前とは直接は繋がっとらん、けど。もう分かっとるやろ。お前らは......」
「言うな!!!」
北波の声が上がった。
前髪は血に濡れ、口には吐血の痕。風をまともに受けた"暁"のコートはもう見るも無残であり、北波自身の身体も大きなダメージを受けている。起き上がりきれず、やっとのことで上体を起こしているだけだ。それでも北波も紫珀と同じだった。絶対的な意志が意識を引っ張っているだけだ。
こうしたのはカナの術だ。だがカナはそれでも、自分が打ち勝ったのは自分の実力ではないとはっきり言えた。紫珀の声が上がった瞬間の隙が、カナよりも北波のほうが大きかった、ただ、それだけーー。
「言うな......紫珀」
「北波、」
「言って......言って、どうすんだよ...!この状況にどう決着をつける!?オレの意志は変わらねえ!!なのに姫がどうなるかは、どうしちまうかはお前が一番分かるだろうが!!」
「...!その為にカナの記憶を消したんか!?」
「違う!!オレはあの夜で全てを終わらすつもりだったんだ!!こうなるとは思わなかった......あの時、オレはただオレの目的のために、」
「消した......!?」
カナの声が場を遮る。それで二人の口論も止まった。カナの視線は北波と紫珀を行ったり来たり、だが最後には血濡れた北波の顔を見て、一層震える。
「なに...なに言ってるの、二人とも......私、」
混乱するーー視界がまた、ぶれる。
何かがおかしい。こんなはずじゃなかった。北波と紫珀が怒鳴り合ってるのも、あんなところで北波が倒れているのも、自分がこうして頭を抱えているのも、全て、おかしい。
おかしいと、わかっているはずなのに、わからない。
「知らない......私、北波さんのことなんて、」
消した。......消された?記憶を?
どうやって。
「............、刻鈴」
カナが不意にぼやいたのと、北波が目を剥いたのは同時だった。
刻鈴。時を刻む鈴。過去を見せられた。
過去が、見える。
それは今、紫珀の傍に転がっている。
「やめろーー!!」
カナが走り始めるのと同時だった。
土遁が北波の足元から刻鈴へと、刻鈴を壊さんとばかりの勢いで蠢き始めた。
何よりもそれがカギとなっているために、北波はもう手段は問わなかった。カナが全速で向かうも、今一歩届きそうもないーーー
だが、カナがその手に掴む前に、土遁が辿り着く前に、他の手が刻鈴を掴んでいた。
「カナ!!」
紫珀の手が刻鈴を投げた。
その紫珀は刻鈴の代わりに土遁に巻き込まれ、その瞬間ボフリと煙となって消える。
「紫珀...!ありがとう!!」
宙に弧を描いた刻鈴は、そのまま吸い込まれるようにカナの手に収まっていた。
何度も何度も悪夢を見せてきたこの楽器を、まさか自分で使う羽目になろうとはと、カナはどこかで冷静に思いながら、最後に眉根を寄せて笑って、ーー
チャクラを込めて、音を奏でる。北波にも聴こえるように、高らかに。
やめろ、と今再び北波の声が上がったが、それはどんどん遠のいていったーーー
■
木ノ葉の二小隊の前に立ちはだかっている影があった。大樹の横に伸びる幹の上から見下ろしているその姿は、"暁"の衣と、渦巻き模様の面。右目に空いた穴からは今何も見えない。木ノ葉の面々はその男、トビを見上げていた。
「いやあこんなところで木ノ葉のみなさんにばったり...しかも八対一とは間の悪い、アハハ...」
「その衣。お前も"暁"のメンバーだな」
ヤマトが眉根を寄せる。その隣でカカシは「コイツは...」と呟き記憶を辿った。
「新人なもんでよろしく!」
「へッふざけやがって!余裕かましてんじゃねー!」
「キバ、迂闊な動きはするな。カブトの残した"暁"のリストには載ってなかったが、この男は一度報告に上がっている」
以前木ノ葉へと足を進めていた"暁"飛段・角都との一連の戦闘の時。まず初めに遭遇したシカマルやイズモ・コテツが五代目に報告し、その情報は他の忍へも伝わっている。恐らく"銀色の漆黒"カナがいたためにその場にいたのだろう三人目の"暁"。能力も分からず、容姿しか報告されていないが、あの面は特徴的だ。特にシカマルが"飛段と角都よりもヤバそうだった"と評していた人物だ。
「まずは様子を見る。数では圧倒的にこちらが有利なんだからな」
「あらら......なめちゃってます?僕のこと」
カカシとトビの視線が交わる。だが相変わらず木ノ葉側にはトビの目は見えない。サクラは軽く唇を噛むーーサスケはもう目前だというのに。その時、ハッとしたのは全員同時だった。
サクラたちの隣にいるはずのナルトが、トビの上空で螺旋丸を構えていたのだ。
「邪魔すんじゃねェ!!」
「影分身!? ぐあ__ッ!!」
ナルトの十八番は見事トビに命中する。しかし誰よりもナルトが真っ先に違和感を覚えた。「なんてね...」と小バカにした声が聴こえたと同時、すっとトビの体をすり抜けたのだ。初めてトビと交戦する木ノ葉の誰もが目を見開いていた。
黒炎がサスケに牙を剥いていた。万華鏡写輪眼・その瞳術、天照。その眼で目標に視線を合わせるだけで発火し、目標を燃やし尽くすまでは決して消えない炎。イタチの右頬には血の涙が伝う。サスケはいち早く動いて逃げるも、視線からは逃れられない。
右翼に黒炎がつく。声を上げて倒れこんだサスケは身もだえるが、為すすべもなかった。沈黙ーーサスケは最早動かない。
天照を止めたイタチはそのサスケにゆっくりと近づいた。だがその手がサスケに触れる前に、イタチは突然両膝から折れた。ひとりでに咳きこみ、吐血をーー万華鏡の目を抑えて。
そこに更なる術が襲う。火遁・豪龍火の術、その巨大な火の玉が足元から現れ、イタチはすぐさま身を引いた。炎はアジトの内部から天井へと、更に空へと舞い上がる。肩で息をするイタチはそれを目で追ってから、目の前に現れた穴から階下を覗いた。
サスケもイタチと同じように息を荒げている。二人とも状態はあまり変わらない。
「これが、オレの、最後の術になるだろう...」
空が唸り声を上げ始める。イタチはその双眸でサスケを見つめた。
「写輪眼はチャクラを見る目だ...強がりはよせ。天照を回避した大蛇丸流の変わり身の術、バレにくく良くできた変わり身だが、アレは多量のチャクラを使う」
「確かに今のオレにはチャクラはない。さっきの火遁で全て使い切ったからな...だが」
ただの曇天がゆっくり雨模様へと変わっていく。唸り声は更に大きく、凄まじく。アンタを殺すのに何もせずにここへ来たと思うか、と言ったサスケは、写輪眼で兄を見上げながら口角を上げていた。
「さて...ご希望通り再現しよう。アンタの死に様を......」
サスケの目がすうっと、兄からその上空へと視線を移動させる。雨を降らし始めた暗い空へと。イタチもそれに気づき、すっと空へ視線を上げていた。その瞬間、まるで待っていたのかの如く光が弾ける。凄まじいほどの轟音が、光を追うように轟いた。
雨を受けながら、サスケもその手に雷遁を宿らせる。そしてイタチと同じ舞台に上がった。
「この術は天から降る雷(いかずち)。オレはその力をアンタへと導くだけだ。術の名は"麒麟"...」
その手をゆっくり空へと突き立てる。それに応えるように、竜の姿を模した雷が、イタチに咆哮を放った。
ーーー雷鳴と共に散れ。
空いっぱいのその雷遁術と、広範囲の地を伝うような破壊音は、木々を鳴かせ、鳥たちを羽ばたかせる。風が波のように流れて押し寄せていった。
銀の髪がーー二人の髪が、それに揺らされる。だが、何かを言うことはない。
二人は共に、過去の記憶へ落ちている。
■
水の国に近い場所にひっそりと栄える隠れ里。その規模は決して大きくはなく、ただ一つの一族の血を引く者ばかりの小さなものだった。
名を"露隠れ"。里には藍色の髪の者たちばかりが歩き、平穏に暮らしている。一族特有の術がいつもこの里を守っていた。
その里の内部、大通りから離れた場所、路地に集まっているのは少年たち。三人組が袋小路を見てにやついていて、その視線の先には一人の少年がいた。
「やっと追い詰めたぞ!逃げ足ばっかり早いヤツめ!」
「人をさんざんバカにしやがって!もう二度と仲間に入れてやんねーからな!一発殴らせろ!」
鼻息を荒くした三人はじりじりとその一人に詰め寄る。対して、あっけからんと笑ったのは追い詰められた側だ。
「チェッ、結構面白い鬼ごっこだったけど、もうオシマイか。行き止まりに入っちゃうとはウカツだったな」
「余裕ぶってんなよ!お前が使えるオレたち渦木一族の術だって、オレたちを一気にはどうしようもないだろ!」
「ガキのお遊びばっかやってるお前らとは違って、オレはちゃんとおべんきょーしてんの。いつまでも同じことしかできないと思うなよ?」
とん、と少年が自ら一歩出ると、その言葉に怯んだのか逆にじりっと後ずさりする。その三人の前にすっと手が差し出された。
「喰らいたくなけりゃ、仲直りの握手してくれたら許すよ」とにっこり笑われる。だがその案ーーという名の作戦ーーは受け入れられなかった。
「発動条件なんて知ってんだから、触るかよお!」
一人が叫んだその途端、三人は一斉に駆けだした。拳を握って準備は万端、後は一気に迫るだけ。「さすがにそこまでバカじゃないか」と呑気な顔で言った少年は、それでも一切の焦りはなかったが。
近づいてくる三人を、一人ずつひらりひらりとかわしていく。更に、とん、とん、とん、と触っていくのを忘れずに。
顔を青くして振り返った三人組は、無邪気な顔で印を組む、自分たちとは髪色が違うその少年を見た。
「封印術・止法の形(しほうのけい)!」
その途端、ぴしっと石のように固まった三人。殴りかかった体勢のままなので実に無様である。少年は満足そうに笑って何事もなかったかのように歩きだした。
「う、動けねえ...!」
「わりーけどオレにもどんだけの間止められんのかはわかんねーんだ。ま、誰かが気づいて解放してくれんの願っとけよ」
「ひとごとかよ!お前のせいだろ!」
「三対一なら勝てると思ったお前らの頭の軽さのせいだっての。せいぜい漏らさねーようにな!」
藍色の髪の三人組はその姿を目に悔しそうに歯を食いしばる。
ひらひらと手を振って道の向こうへ消えていこうとしている少年。路地を抜けたその姿に、ちかりと太陽光が降り注ぎ、その髪は尚更輝きを放つ。ーー同じ一族ばかりの露隠れで、その髪は文字通り異色だった。
自分たちの視界から消えていった、その銀髪の少年に、三人組は最後に大声で吠えていた。
「覚えてろよ、北波ァーー!!」
その声を耳にした少年、北波は振り返り、ニッと笑っていた。
◇
ただいまーと上げた声に、おかえりーといつも通りの声が返ってくる。いつものように玄関にサンダルを脱ぎ散らかして襖を開けると、その姿は台所にあった。
「ただいま、母さん」
藍色の髪を綺麗に伸ばした北波の母親は、改めて言った息子の声ににっこりと微笑んだ。
「今日は早かったのね?いつもの子たちは?」
「あー、なんていうか、今ケンカしてて。ケンカってほどでもないけど」
北波はなんでもないことのように言いながら、ちゃぶ台の前に腰を下ろす。「ケンカ?」と首を傾げた母は、作業を区切らせてその北波の隣に座った。「なにがあったの?」と聞かれると、北波は少し口を尖らせる。
「ま、色々。いーんだ別に」
「よくはないでしょ。仲良しだったのに」
「仲良しなんかじゃないって。ただ...。......あのさ母さん、オレ、この髪色を疎んだりしたことなんてないよ」
銀の色。この里の渦木一族の髪色、藍色とは全く違う色。だからこそ、里の中を歩くと北波は実によく目立った。この里には滅多によそ者が入らないから尚更だ。
北波が唐突にそう言うと、母はすっと顔を曇らせる。母は里の大勢と同じ、藍の色。
「その子たちに何か言われたの?」
「...うーん、まあ。けど心配しないで、ホントに大したことないんだ。それにさ、オレはもし誰かに何か言われたって、傷つかない自信あるよ。オレ、この色好きだから」
北波は自分の手で自分の髪を触る。その顔は自信に溢れ、全くの嘘を感じさせない。
「父さんと同じ色。もちろん、母さんの藍色も好きだけどね」
北波がそう照れくさそうに笑うと、眉根を寄せていた母も、それで穏やかな表情に変わる。その手で優しく北波の頭を、髪を撫でた。
「母さんも好きよ。北波と父さんの色」
「へへ......それにさ、渦木の血は封印や結界忍術には長けてるけど、戦闘はあんまり得意じゃないだろ?だけどオレは父さんのほうの血も混ざってるから、身体能力もそこそこある気がするんだ!さっきも、」
そこまで言いかけて、北波は「あ」と呟いて止まる。だがもう遅く、母は「さっき?」と眉を吊り上げていた。北波の頬に伝った冷や汗。何か言い訳をしようと口を開きかけて、やっぱり諦めてボソボソと言う。
「アイツらに、ちょっと...」
「もう!男の子だからケンカはするなとは言わないけど、暴力はやめなさい!まさか術も使ったの?」
「...最近できるようになったから..."止法の形"を」
「明日きちんと謝りに行くこと!わかった?」
怒ると逆らえないのは母親の典型だ。北波はバツが悪そうに目を逸らして「分かったよ...」と観念する。別に殴ったり蹴ったりしたわけじゃないが、そもそも今日あの三人を怒らせる原因を作ったのは自分だったので言い訳もない。
けどアイツらに謝るのは癪だな、と思っていると、「でも、ちょっと褒めちゃうわ」と母の声が言って目を瞬いた。
「まだ忍者にもなってないのに、独学で勝手に身に着けていっちゃうんだもの。すごいわね、北波は。さすが優秀な一族、父さんの息子だわ」
母の顔が本当に誇らしげに笑っている。北波はそれで一気に笑みを浮かべた。
「だろ!オレ、うちの書庫にある渦木一族の巻物は全部会得したいんだ!」
「あれを全部?...まあ、私は忍者にならなかったから、北波が使ってくれると嬉しいけど」
「やってみるさ。それから、それが全部できたら......」
そこで一旦言葉を切る。なあにと首を傾げた母の顔を伺いながら、「オレ、父さんからも術を教わりたいって...」と少し小さな声で。北波の目に映る母親の顔は、北波の想像通り若干暗くなった。眉尻を下げて、笑みはあるけど、悲しい笑顔。北波はそれを見て目線を下げた。
「やっぱ、ダメかな......」
「...私にはわからないわ。父さんにお願いしてみたら、もしかしたら。...でも北波、父さんを困らせたらダメよ」
「うん、分かってる...。...父さん、次はいつ帰ってくるかな」
もう暫くの間は会っていない父親の顔を思い浮かべながら、北波はぼやいた。それにも母親は答えられないことを知りながら、子供心は寂しがっていた。父親がいないことが普通でありながら、父親がいない時の家はすごく広い気がする。
しんみりした空気を払うように、北波は自ら話題を変えた。
「そういや母さん、アイツ知らない?今日全然見てないんだけど」
「アイツ?」
うん、と言った北波は立ち上がって窓辺に寄った。ざっとカーテンを開け放つ。
「シハク」
紫色の小鳥の名前。北波は慣れ親しんだその名前を言い、窓の外を見渡してーーーぴたりと止まった。
その後ろで、「そういえば、私も今日は見てないわね」と母は返す。だがその言葉への返事はいくら待てど帰ってこない。「北波?」と外を見て固まっている息子の名を呼べば...
「父さんだ」
「え?」
「母さん、父さんが帰ってきた!」
その直後、玄関がガラッと開けられる音が居間にも届いた。続いて、「ただいま」と懐かしい声がする。
母親と息子は顔を見合わせ、一目散に駆けだした。北波と同じ、銀色の髪の父親。靴を脱いでいるその背中に、北波は思いっきり体当たりするーー
「おかえり、父さん!」
「北波、ただいま。母さんも」
「ええ。おかえり、あなた」
「北波、寂しかったか?」
「全然!オレ、強いから、寂しがったりなんてするもんか!」
さっきまであからさまに寂しがっていたことなんて口にするはずもない。父の首に抱き付いて嬉しそうに顔を綻ばせる北波、その肩に、唐突に重みがのしかかった。目線を上げるとそこにはつい先ほど探していた紫色の姿が。
「なに言うとる、いっつも父さん父さん言っとったくせに」
「シハク!言ってねえよ、バカ!」
「シハクが迎えに来てくれたんだ。里の入口から背中に乗せてくれてね。少しの間の空の旅を楽しんだ」
「感謝しいや、お前の大好きな父さんをいち早く届けたってんから」
母親が真っ先に「あらそうなの。ありがとうね、シハク」とお礼を言う。しかしフフンと胸を逸らすその姿、シハクを目にして、北波は素直になれなかった。挑発的なセリフを言われると、ただ「うるさい!」と吠えるだけ。
けれど心の中では間違いなく、今この瞬間に幸せを感じていた。
◇
久々に帰ってきた父親と色んな話をする。夕食をとりながら、母と父が並んで座っているのを見るのも北波は好きだった。最近あった出来事を北波が話したり、あまりに話に夢中になって食事の手を止めていることを母に見咎められたり、シハクとちょっとした口喧嘩をしたり、そして、笑いあったり。
楽しい時間はあっという間に過ぎていく。もう夜更けになり、北波は風呂から上がって廊下を歩いていた。
だが、その時居間から漏れている光を目にして、そっと様子を伺った。
「(父さんと母さんの話し声...)」
居間に向かいあって座る二人は暗い顔をしているように見えた。忍である父も今ばかりは気が抜けているのか、息子に気が付く様子はない。
「そうか。北波がそんなことを...」
すぐに自分の名が挙がって北波はぴくりと反応する。
「ええ...ごめんなさい。私、あの子になんて言うべきかわからなくて」
「キミが気にすることはない。...北波にも、もうきちんと言うべきなんだろうな。あの子は優秀だ...きっと忍になるだろう。だがそうなれば、北波自身が隠すことを覚えなきゃならない」
「...でも、北波はまだ子供だもの。私、納得してくれる自信がないわ。もし逆上なんてしてしまえば」
母は俯いて身震いしている。その肩に父は優しく手を置いた。母とはどこか表情の種類が違う気がする。自分を責めるような、後悔しているような、そんな顔。「すまない...」とその口が言うと、母はハッとして首を大きく振る。「謝らないで」と強く言い放った。
「私、あなたと一緒になれて本当によかったと思ってるの。北波のこともとっても大事なのよ」
「ああ...ありがとう。...北波にはいずれオレがきちんと話す。時期を見て...」
ーー襖の外でその話を聞いていた北波は、そこですっと身を引いた。話が終わりそうな気配を感じて、ここにいてはいけないと思った。足音をたてないように細心の注意を払いながら階段を上がる。暗い段差を上がり、自分の部屋に辿り着いてドアを閉めた時、ようやく深く呼吸ができた。
「どないした?北波」
北波はゆっくり顔を上げる。窓枠に止まっているシハクの姿を見て、どことなく安心感を覚える。よたよたと歩いた北波はどさっとベッドに転がった。
「シハク...今日、父さんを迎えに行ったって言ったな。どこまで?」
「? どこって、里のすぐそばやけど。迎えっちゅうか、たまたま見つけただけやけどな」
「そうか...。......なあ、シハクは父さんの一族のことって、知ってるか」
訝しそうな顔をしている小鳥に視線を向ける。シハクは僅かに目を見開いたようだった。
父親の身体的特徴はそっくり息子に引き継がれ、それはここの里の者たちとは全く違う。だけど北波はそれだけしか知らない。優秀な一族だと母がよく言っているが、名前すら知らないのだ。
シハクは逡巡するようにくちばしを上下させ、数秒後やっと北波に応えた。
「いや......悪いけど、オレ様はここらで育った身やし...。...何かあったんか?」
「...父さんと母さんが...」
父親が帰ってくるたび、二人が何らかのことを話しているのは知っていた。北波には見せる明るい表情も外面だけかもしれないと思っていた。辛そうな顔をして俯きがちに話す両親の顔。顔を背けたくても、頭の中に浮かんできてしまう。
「二人は何かを抱えてるんだ。きっと、父さんの一族のことで...。父さんはいつもオレの話は聞いてくれるけど、自分の話はしてくれないんだ。ずっとはぐらかされてきた。秘密にしてる...なんでか知らないけど」
「......考えすぎちゃうか?まだお前が子供やから」
「それにしたって、おかしいさ。普通名前くらい教えてくれたっていいだろ?それに、父さんは何でか滅多に帰ってこれないし......絶対何かあるんだよ」
寝転がったまま、北波は天井を睨みつける。それは誰になんと言われようと確信に近かった。両親を暗い顔にさせるものが何なのか全く知らないが、とにかくそれが疎ましくて仕方がない。父がいない間、母だっていつも寂しそうにしている。父親の一族に一体何があるというんだろう。
聞く耳を持たない風の北波を目にして、シハクはため息をついている。短い足で自らカラッと窓を開けた。
「そんなに気になるんやったら、今度親父さんが里を出る時に尾行したるよ」
その言葉に北波はバッと上体を起こす。
「ホントか!?」
「お前にはケガしとったところを助けてもろた恩義があるからな。恩返しや恩返し...。やからそれまで親父さんに詰め寄ったりすんなよ?あんまり必死やったら警戒されてまうかもやし」
「分かった。サンキュー、シハク」
シハクは満足そうに頷いて、夜の闇に消えていった。それを見送ってから北波は再びベッドに倒れこむ。父親は時期を見て教えてくれると言っていた。だけどそれを待てそうもなかった。両親が大切だからこそ、二人の幸せな顔を奪うものが許せない。
二人の顔を思い浮かべながら、ゆっくりと眠りに落ちていった。
唐突に訪れる日が明日に控えていることなど知らずに。
◇
次の日の昼過ぎ、北波は父と話していたところを母に遮られた。
「北波、昨日の話覚えてるわよね?」
母のにっこりとした完璧な笑顔を見て、う、と身を引いた北波。父親が不思議そうに尋ねる横で小さくなっておくしかない。事情を聞いた父親は苦笑を零して北波の背を叩く。暗に行って来いと言ってるのだ。頼みの綱だった父にも促されてしまうと仕方なく、北波は渋々玄関を出て行った。
「(アイツらに謝るなんていつだってできるのに。父さんはいつもいるわけじゃないのにさ)」
心の中でぶつぶつ文句を唱えながら慣れ親しんだ道を駆ける。昼時になり賑わい始めた大通りに入っていく。一応昨日術を使った路地に入ってみたが、いなかった。もしまだ術にかかってたら更に大きなもめ事になっただろうから一安心だ。
謝って来いと言われたって、今日あの三人がどこにいるかだなんて分からない。途方に暮れながら歩く。同じ年の子供に謝ることほど癪なことはないが、今日は父親がいるのだ。さっさと用を済ませて帰りたかった。
「おー、北波くん!」
不意に呼ばれて振り返れば、母が良く使う商店の店員が店前にいた。ども、と頭を下げれば近寄られて銀色の髪を撫でられる。
「いやー、昨日はすごかったね」
「? なんの話?」
「そこの路地でお友達に封印術しかけたんだろ?このあたりじゃ中々有名になったよ」
「げっ...マジ?うわー、つくづくやんなけりゃよかった...当分母さんに叱られるよ」
北波はその容姿も相まってこの里で一番目立つ子供といっても過言ではない。小さな里だから北波やその両親はそこそこ有名で、そこに息子が爆弾をしかけたら両親はあちらこちらでその話を聞かされるだろう。父はどうか知らないが、母がその度目くじらをたてるのは容易に想像できる。
「ハッハッハ...北波くんは優秀らしいね。けど、ケンカに使うのは頂けないな?」
「もう昨日母さんに言われたよ。それで今は謝って来いって言われたんで、アイツら探してんだ」
すると、それならさっきあっちで見かけたよ、と目撃情報を思いがけず貰う。優し気に笑った店員はとっとと謝って来いとバシッと北波の背を叩いた。痛って、と背中をさすった北波だが、それでも笑って礼を言ってから駆けだした。
子供同士のケンカの種になることはあっても、大人たちが北波のよそ者の容姿をとやかく言うことは一度もなかった。時折物珍しそうな目を貰うも、それは決して嫌な視線なんかじゃなかった。物心ついた頃から、それが普通だった。だからこそ北波はこの髪色が好きでいられた。
同じ里の子供として扱ってくれるこの里が、北波は好きで、大切だった。
「よーお前ら」
「! 北波、お前!またケンカ売りに来たのか!?」
「いや、今日はいい子ちゃんしに来ただけだ。悪かったな、昨日は」
公園で道草食ってた三人に声をかければ案の定吠えられたが、次の北波のセリフには口をポカンと開けていた。
子供たちとだって、ケンカこそするが、北波は友達として好きだった。
「母さんに謝って来いって言われたんだよな。しょうがねーから謝りに来た」
「...しょうがねーからって、お前。全然誠意がねーじゃねーか!」
「まあまあ、そう怒るなよ。お詫びにィー......昨日お前らにかけた術、教えてやろうか?」
「! マジで!?」
たまに一族云々のことでケンカはするが、本気じゃないことは分かっている。だからこそ北波は友達でいられた。「まーアイツのほうが上手いけどな」とぼやきながら近寄っていくと、「...北波お前、本気でアイツと友達になったのかよ?」と三人も北波に歩みを寄せていく。そうやってあっさり"仲直り"をする。
この里にいる時間が好きだった。この里の住人たちと話したり笑い合ったりするのが好きだった。
そんな時間がいつまでも続けばいいと、願ったことすらないほど、ただただ平穏な毎日だった。
だが、その時は訪れた。
突然里中に鳴り響いたのは警鐘。
ガンガンガンガンと耳に痛い音が里中に響き渡っていた。
ハッと顔を上げた少年たちは、けれどその音の意味すら分からずに惚けていた。なにせ、聞いたこともない音だった。
「...なんだ?この音」
「うるっせ...」
「あっちのほう騒がしくないか?」
「...なんか、嫌な予感がする」
口ぐちに呟くが、意味はなさない。足を動かす理由も持たなかった。ちょっとした非日常、としか思わなかった。
「北波!!」
だがそれは突然空から降ってきた声に引き裂かれる。真っ先に顔を上げた北波は、異常に焦った顔をしている小鳥を見つけた。「シハク?」と北波は呆然とぼやくーーシハクの姿は北波の前に来る前に、ぼんと煙に巻かれて巨大化した。
「ど、どうしたんだよ?」
「敵襲や!」
「は?」
「この里に、忍が襲って来とる!!大通りはもう一面火事や!!」
隣にいる三人組と同じく、北波はシハクの言葉の意味が全然理解できなかった。
「この里の忍が今迎え撃ちに行っとるけど、多分......いいからお前、早ようオレの背に乗りィ!」
「な、なんでだよ!?敵襲...?迎え撃つ?何の話だよ!?」
「ガキ共、お前らもさっさと家に戻れ、やないと巻き込まれんぞ!」
「無視すんな、説明しろよ!!」
「つべこべ言うな!!!」
怒鳴ったシハクは問答言わずにそのくちばしで北波の首根っこを掴む。うわっと声を上げた北波はシハクの背中に投げ出され、浮遊していく感覚に慌てて羽毛を掴んだ。
「北波!?」と叫んでいる友人たちを見下ろすが、その三つの顔はどんどん遠ざかっていく。北波の頭は完全についていけていなかった。
「おい、アイツらほってって...!」
「悪いけどオレにとっちゃお前が最優先や!お前をさっさと家に戻す、んでさっさと隠れろ!!」
「だからなんで......ッ!」
シハクは急速に上昇していく。その背中でシハクの顔に怒鳴った北波はーーしかし、怯んだように固まっていた。
シハクの言った通りだったのだ。先ほど北波が駆けていった大通りが、もう炎に包まれていた。叫び声が散乱し、怒鳴り声が空まで届き、そして、倒れた人影が散らばっていた。
倒れた人影。その下を這うのは、赤い液体。北波は腰を抜かしてシハクの背に座り込む。
あれは、血だ。
「なんだよ、これ......なんで...!」
ついさっき気のいい笑顔を向けてくれた店員が倒れている。その真上をどんどん進んでいくーーシハクは顔を歪ませていた。大通りを包む炎が熱い。熱風が上空に押し寄せ、北波の髪をさらっていく。銀の色が揺れた。
「わ、けわかんねえ......!」
「ワケ分からんのはオレも同じや、けど、お前はとにかく...!親父さんとこ連れてくぞ!!」
襲撃者の影は見えない。だが炎はどんどん大きくなっていた。どこかで破壊音が鳴っている。悲鳴が響いて、立ち向かう声は少なかった。渦木一族は封印術や結界忍術ばかりが得意の一族。里に入り込まれてしまったら、その末路はもう、見えていた。
呆然とする北波の視界に、ようやく自分の家が映った。
既に、炎が移っている。
「そんな......」
北波の乾いた唇から上下する。シハクは徐々に家に近づいている。
だが北波は、もうシハクの背に座っているだけの自分に嫌気がさしていた。突如立ち上がり、ダンッとその背中を蹴ったのだ。
「なっオイ、北波!!」
シハクの声はもう遠くに聴こえる。かなりの高さから落下する北波はそれでも恐怖は覚えなかった。急速に近づく地面への衝突を備えて身を丸める。両手両足を使って着地した北波は、衝撃を最大限に抑えた方法をとれていた。
北波はただ無我夢中なだけだ。バッと顔を上げた北波はすぐさま自分の家へと走り出していた。ドアを思い切り開け放ち、叫ぶーー
「父さん、母さん!!」
ーーだが、返事はない。火の音だけが家の中から聴こえてくる。
「(いない...?でも...父さんならともかく、戦えない母さんは家を出たりしないはずだ...!)」
北波が家を出てからまだそう時間は経っていない。北波はこくりと唾を飲み込んだ。どくりどくりと高鳴る心臓の音を聞きつつ、サンダルを脱ぐことも忘れて玄関を入った。火の音以外は何も聞こえない。街のほうではまだ爆発音が聴こえているが、北波にはもう遠く隔たっているような感じがした。
まず真っ先に居間の襖を開く。だが、入る前に「うわっ」と身を引いていた。−−もう完全に火が入り込んでいる。もし自分がここにいたらと思うと、ぞっとした。
「か、母さん...父さん...!」
よろりとふらめいた北波は、次に目に飛び込んだ襖を開ける。だがそこにも人影はおらず、いないことを確認するたび身が震えた。シハクがいつまでもやってこないことなど頭の片隅にもなかった。
「どこにいるの...?母さんッ父さん!!!」
一際大きな声で叫んだ時、
「来るな、北波!!」
上から声が聴こえた。
北波はハッとして上を見る。天井が遮っている...けれど今、確かに。
−−二階だ。
北波はぱっとこの真上に位置する部屋を思い出し、すぐさま方向転換した。叫ばれた内容など全く考えに上らなかった。慣れ親しんだ階段を上り切り、目的の部屋に足を踏み入れていたーー
「父さん母さん!!早くっ、...」
書庫には、新たな炎が散っていた。火は急速に燃え移り始めていた。
巻物や数々の書が並ぶ本棚の前。そこにいたのは確かに北波の父と母の姿だった。だが、北波の目に映った赤色があった。どろどろと床に流れている色があった。
それは、父親が抱きかかえている、母親の腹から流れていた。
「か、母さん...?」
「北波...!何で来たんだ、早く出て行け!!」
入口で立ちすくむ息子に父親が初めて見るような剣幕で怒鳴る。だが、それさえも、今の北波には見えなかった。
「ほく、は...?」
微かな声で呟いた母親以外の姿は。
「母さん!!」
−−悲鳴を上げた北波は、そこにいる他の人影に目もくれずに走り寄っていた。聞き知らない他人の声が聴こえたような気がしたが、今は他のこと全てがどうでもよかった。
一度は怒鳴った父の声も、もう無念そうな声で歪んでいる。「母さん...母さん!」北波は一心不乱に母親の体を揺さぶっていた。
「なんで...なんでこんな事...!なんでこんな事になってんだよ!!」
「北波、」
「こんなの、誰が...誰が母さんをこんな目に!!」
部屋の中に籠る熱が熱い。炎はもう埋め尽くさんとばかりに影を揺らしている。
北波の目から一粒溢れた涙が、母の顔に落ちた。だがその母はもう息絶え絶えでそれ以上何かをできる状態ではない。「母さん...!」_優しく笑ってくれた微笑みが脳に焼け付くようだった。
そこに、冷水を浴びせるような声が響いていた。
「息子までいたとは...」
北波はようやく気づく。顔を上げ、振り返った先にーー数人の人影が、取り囲むように立っていた。
「なんだ...あんたら」と北波の口から漏れる。だが他に何かを言う前に、父親の腕が北波の前を遮った。
「この子には...!この子には手を出すな!」
「それを決めるのはこちらだ...貴様に四の五の言われるつもりはない。自らの一族を裏切り、この一族と共に反逆を考えた貴様が今更何を注文する」
「そんなことを考えた覚えはない!!なんなんだアンタは!風羽の者じゃないだろう!?」
「甘っちょろいことを言うお前ら一族のみになど任せておけんのでな。お前らの長の代理でやってきた。わざわざこんなところまでだ」
「アンタは誰だ...!何で、ここまでしなければならなかったというんだ!!」
北波は歪む視界の中で一人一人を確認する。
中央に立っている男は、面をしていてその顔は分からない。黒衣から覗く手と杖が記憶に残った。その周囲にいる数人は、面も何もしていない。ほとんどの者が眉根を寄せて、歯を食いしばっている。
ただ、そんなことよりも、北波は呆然とそれを見る。
取り巻きのその数人の、その髪色ーーー北波や父親と同じ、銀の色。
「もう死ぬ貴様に何を言うこともあるものか...」
中央の男の声に、北波は震えた。
その時、新たな影が入口に現れる。男と同じように動物の面を被っている姿。
「なにやら喋って怒鳴る鳥が歯向かってきたので、気絶させました」
紫色の小鳥がその男の手の平に乗せられている。捨てるように投げられ、それは北波の目の前に転がった。「シハク!!」_叫んだ北波は、父親の制止の手も振り切ってすぐさま抱き寄せた。息はあるーーけど、傷つけられた。
この、目の前のヤツらに。きっとーーー母さんも。
「北波、やめろ!」
「なんなんだお前ら...!なんでこんなことしてんだよ!!オレたちが何をしたって言うんだ!!」
「銀色の髪...それにその鳥もお前のか。父親の血を色濃く受け継いだようだな。まァともかく...お前は後だ。そこを退け。お前の父親を殺す」
その言葉に、反応する間もなかった。北波の横を何かが過ぎ去った。
遅れて振り返るとーーー父親の胸に、何かが突き刺さっていた。黒々とした冷たい光を放つ刃ーークナイ。
母が僅かな声で悲鳴を上げた。父は血を吐いて背後の本棚に倒れこむ。その光景が全て、北波の目には何十秒にもかかって見えた。じわりと涙が北波の目に溜まり始めた。
「と...うさん...!」
「北、波...いいから、お前は、逃げろ...!」
「父さん...父さん!!なんで...母さんも、父さんも...!!ふざけんな、ふざっけんなよ!!」
熱いのは、周りに燃え盛る炎のせいか、煮え立つような自分の中の血液のせいかはわからなかった。
涙のたまった目で男を振り返る。面の奥の絶対零度の瞳とかち合った気がした。シハクを脇に置き、両親を護るように両腕を広げる。
「もうやめろよ...!」と怒りで震える声が響いた。溜まった涙が一滴、頬に流れる。
「やめろよ......二人を、傷つけるな......!」
取り巻きのほうが身じろぎした気がした、が、今の北波には目の前に立つ男しか見えなかった。
「"風羽"と"渦木"の混血か...さて、どうするか」
「...容姿から見て、この子は我々の血のほうを濃く受け継いでいます。子供には罪がないのでは」
「だが危険性は十分だ。いずれ脅威になる」
「我らが責任を持って引き取ります…!ですから、」
銀色の髪の一人が口を挟む。その会話内容には、北波の頭はついていかなかった。北波の後ろでは、二人の最早途切れそうな息が聴こえている。何度も、何度も逃げろという声を聴いた、だが、そんな選択肢は今の北波にはなかった。
「さっさとこの家から消えやがれ───!!」
ーーその瞬間、右頬に痛みが走っていた。ざくり、という音が聴こえた気がする。
男の手が掴むクナイが、一閃、北波に届いていた。ビッと血が跳ねる。初めて感じる斬られた痛み。
「うァッ...」
「黙っていろ。貴様の処遇を決めるところだ」
北波はどろりと血が伝うその上から頬を抑え、座り込んでいた。
酷い痛みだった。酷い熱さだった。何もかもが酷かった。
ぼやっとしてくる視界の中で、何事かを喋りこんでいる見知らぬ者たちがいる。視線を横に移すと、シハクが眉根を寄せて気絶している。その体をなんとはなしに抱え込んで、最後に、ずりずりと後ろを振り返った。
父と母。
二人はもう、何を言うこともできなさそうだった。
母は最早目を瞑っていた。父はかろうじて薄く開けた目で、息子を映しとっていた。その口が僅かに動いたが何かを声に変えることはできないようだった。北波はそれらのことを段々と白くなっていく頭で考えていた。
ーーー夢だ。
こんなのは...きっと、酷い夢だ。
眠ってしまおう。
そしたら、次に目が覚めた時には、何もかもが元通りになってる。
母さんのおいしい料理を食べて、父さんと色んな話をして、シハクとなんてことない口喧嘩をする。
そんな普通の日が、待っているはずだ。
きっと...きっと。ーーー
北波はゆっくり倒れこむ。父と母が重なり合っているところへ。
願望だらけの思考を抱えながら、引っ張られるようにして気を失った。