口から溢れた血液は、生ぬるいはずなのに、異様に冷えて感じた。心臓を貫いた刃だけが熱線のように焼けて感じるのは何故だろう。
目前の人物の輪郭がぐにゃりと曲がる。マダラの口がなんとかと言っているようだが、うまく聞き取れない。
宙に拘束されていた身体が唐突に地面に落ちた。うつ伏せに転がる。ようやっと自分の身体として支配できるようになったが、溢れ出る血がどんどんと力を抜けさせる。
この感覚は覚えがある。
もう遠い昔、霧が濃いあの国で。初めての里外任務で、あの時の実力では到底及ばなかった忍を相手にした時。
あの時は、守るために死を選んだのだったか。自分の選択で受け入れたのだったか。
だが、今回は違う。
まだ。オレは、まだ。
何も。
イタチの、生きた意味を、こんな、ところで、オレは。
「サスケ───」
声が突然鮮明に聴こえた気がした。
少し距離が遠い。
うつ伏せになっていた顔を、やっとの思いで少しだけ上げる。
視界がぶれて仕方がない。だが、なんとかその色だけを把握する。
あれは……銀色だ。
「マダラ、あなた───サスケを!!」
その怒りが混じった悲痛な声が、胸に響いた。
またオレは、ただお前を苦しませるだけなのか。
こんな後悔をする資格もオレにはないけれど。
銀色がその目前の人影に向かって行く。きっとせきあがる怒りのままに攻撃しているのだろう。
その様子も見えなくなっていく。どんどん、どんどん、瞼が落ちていく。
自分の鼓動の音が聴こえなくなった。
ーーー第八十五話 さだめの糸
私の目が見たのは、サスケの体が落ちた瞬間だった。
全速力でここまで走ってきた。もう万全と言えない体では、いつものようなスピードが出ないことが歯痒かった。
ここにたどり着いたその時、大きく肩が上下していた。だけどその瞬間、酸素を吸えば吸うほど窒息しそうになった。
「サスケ───」
鮮血が広がっている。
サスケの胸から血が広がり続けている。
迫りつつある死の匂いを、感じた。
その目の前に立っているうちはマダラ。その手に握られているサスケの草薙の剣。刃の先から血が滴り落ちている。
うちはマダラの片目に戻っていた輪廻眼が、薄く細んだのが分かった。
「マダラ、あなた───サスケを!!」
血流が上がっていく音がした。
体はとても冷えて感じたのに、頭だけ異様に熱くなる感覚だった。
無我夢中で、マダラに飛びかかった。
とても冷静じゃいられなかった。
クナイを握っていたのか、風遁を使ったのかも、覚えていない。
とにかく、とにかく、がむしゃらに攻撃をした。
マダラが持っていたサスケの剣を弾き返して、その剣を奪ったことだけ覚えている。
初めて握った柄を感情のままに振るった。
───頭が冷えるほどの痛みが襲った。
気づけば、私の両手は、地面に縫い付けられていた。
その持っていたはずの草薙の剣で。
冷静じゃない相手からもう一度奪い返すのは容易だったんだろう。
両手を重ねて上から貫かれて、やっとその痛みが私の意識を鮮明にした。
痛い。
この貫かれた両手よりも───心が。
「マダラ貴様…!」
声がした。ようやく、そこにサスケとマダラ以外に、二代目様も横たわっていることに気づいた。二代目様も私と同じように、黒い杭で地面に縫い付けられていた。
「シギの子孫にまで手を出すつもりか!」
私も殺されるのか。
サスケと…同じように。
「……いや」
声を発したマダラの口元を見上げる。
何故笑っているのかが分からない。
涙で頬を濡らす私の無様な姿が、そんなに愉快だろうか。
「カナ。もうその小僧は手遅れだ」
サスケはもう動かない。
「うちはの為に泣け。全てが終わったらまた見にきてやる」
マダラの背中が遠ざかって行く。涙で歪む視界。両手の自由を塞がれて、それを拭くことさえできない。
待て、と言おうとして、咳き込んだ。言葉が絡まって結局何も言えなかった。
サスケとの距離が遠い。
地面に縫い付けられて、そばに寄ることさえできない。
静けさの中、嗚咽が漏れた。
サスケの顔が見たかった。
■
今、二人の少年の命が、失われつつあった。
ナルトは、ついに九尾を抜かれた。
人柱力の運命。尾獣と命が繋がっている人間は、その尾獣が抜かれた瞬間、ゆっくりと生を閉ざしていく。
その運命に抗おうとするのが、我愛羅だった。
尾獣たちと共にマダラに立ち向かい、そしてその尾獣たちが外道魔像に呑み込まれる瞬間に立ち会った我愛羅は、九尾にこれからを託されたのだ。
曰く、四代目火影の中にも九尾の半身が宿っているから、それをナルトに入れることができれば、ナルトを救える、と。
そうして我愛羅はまず、すぐそばの戦場でサクラを拾った。
四代目がまだ居るであろう、うちはオビトを倒した場所までは遠い。その間にナルトの命を完全に失わないために、サクラに看させるべく。
「この私が看る限り、簡単に死なせやしないわ…!」
我愛羅の砂に乗って移動しながら、サクラも必死に運命に抗う。
色々なものを救ってくれた、いつでも真っ直ぐ人を引っ張り続けてくれた、もう火影という夢が目前まで届いたこのかけがえのない少年を、永遠に失ってたまるものかと。
そして、サスケ。
サスケの命が失われていくのを感じている者が、我愛羅がサクラを拾った戦場でも居た。
「嘘だ…サスケの…チャクラが…」
感知に長けている香燐が頭を抑えて涙を流す。重吾が反応した。
「まさか…」
「消えてく…!サスケが、サスケが死んじまう!」
「ちょ、ちょっと落ち着きなよ香燐!大体、サスケのそばにはカナがいるんじゃないの?カナなら、あの神鳥のチャクラとかいうので」
水月が慌ててフォローするが、香燐は勢いよく頭を振る。
「カナからはもうほとんど神鳥を感じねえんだ!!アイツも、限界だ…これじゃあ…」
「…急がないといけないようね」
そばで聞いていた大蛇丸が顔を上げる。
目の前にはグルグル面のふざけた男。悠長に連合軍の忍たちと共に相手をしていたが、その間に様々なものが失われつつある。
この男も所詮足止めだろう。
ここを抜けた先で、サスケが今にも完全に死のうとしている。───全力で向かわねばならない。
そしてその先───サスケが横たわる場所では、カナの嗚咽が今、ぴたりと止んだ。
少女の慟哭を押し黙って聴いていた扉間が反応する。扉間も今は自分を貫く杭に力を奪われて動けないため、かろうじて目線を向ける以外にできない。
両手を地面に刺し留められ、俯いて涙を流していた、痛々しい姿の少女。その銀色の震えが、止まった。
代わりに、銀色の頭をゆっくりと上げていく。
その前髪の隙間から見えた眼光に───その決意の色に、扉間は息を呑んだ。
「諦めて、たまるか…」
小さな呟き。
眼光が睨む先は、自分の両手を縛る一振りの剣。これさえどうにかできれば───
「おい、お前…!」
「ッ…!!」
左手の肉がさらに抉れる。
それでも、無理やり動かしていく。
痛みに意識が持っていかれそうになりながらも、痛みに諦めてしまいそうになりながらも、なんとか手のひらを手前に引こうとする。
幸いというべきか、刀身の刃は、カナとは逆方向に向いている。
片手だけでも、自由になれば。
「やめろ!!二度とその手を使えなくなるぞ!!」
手のひらの痛みに負けるまいと、唇を強く噛む。
形容できないほどの痛み。もう手のひらの半分は裂けた。どんどん血で濡れていく。
けれど、だけど、それでも。
刃の先が指の間にもうすぐ届く。
痛みに震えながらカナは大きく息を吸う。やっとの思いで届いたという気持ちと、これを引き切れば左手は完全に二つに裂けるという恐怖と───
いや。もう、ここまでくれば。
「曲げるもんか…!」
ぐっと左手を引き切った。
「ッ……フーーーッ……」
額に滲む冷や汗を、自由になった左腕で拭く。だが、まだ右手が差し抜かれたまま。
「まだ、もうちょっと、動いてよ…!」
自分の左手に言いながら、なんとか柄のほうへ持っていく。血の量が激しいが、長引けば長引くほど出血してしまう。
「馬鹿者が…!」
「…」
「お前は今、神鳥と繋がっていないんだろう!血の流しすぎで死ぬぞ…!お前まで死んでどうするのだ!」
「…まだ、死ぬと、決まったわけじゃない…!」
自分も。───サスケも。
左手の神経がうまく動かない。意識を朦朧とさせるような痛みに震えている。
もう現実的に考えて動きようのない左手。ここまでくれば気合いとか根性とかの話だな、とカナはぼんやりと場違いなことを思って、笑った。
金色の掛け替えない少年を思い出す。
「(だよね、ナルト…)」
左手がぴくりと反応する。
血がますます流れ出る感覚を感じながら、ぎゅっと草薙の柄を握る。これさえ引き抜ければ、利き手である右手が解放される。
そうすれば、サスケのところへいける。
左手の痛みに打ち勝って、引き抜いた。
カランカラン、と音を立てて、草薙の剣が地面に転がった。その刀身も柄も鮮血で染まっている。
それを虚ろな目で見たカナは、改めて自分の右手が自由になったことを確かめた。左手の痛みの前ではまるで感じないが、右手も当然貫かれた痛みが滲んでいる。
「……サスケ」
だが、倒れることなく、立ち上がる。ふらりとその足が倒れている少年の元へ向かっていく。
「……そこまで」
扉間が吐息のような声を吐いた。
風羽の末裔。扉間と同じ時代を生きた、風羽シギによく似た少女。だが、戦乱の時代を生きたあの強かな女の空気にはまるで及ばないと思っていた。
だが、この姿───痛みを覚悟して大事なものを守り遂げようとするこの姿勢は、まさに。
「(……貴様と良く似ているな……シギ)」
カナの足がサスケの横へ辿り着いた。
がくりと両膝を地面に打ち付けて、その勢いのままサスケの顔を覗き込む。やっと見れた顔は、もう生気が薄すぎる。長い間共にいて初めて見るほどの。
「…サスケ、まだ、…」
サスケの頬に手を這わそうとして、すぐに躊躇した。視界に入った自分の手が赤に濡れている。
口を強く結ぶ。
手を這わす代わりに、自分の額をサスケのそれに近づけて、くっつける。───ひんやりしているが、まだ微かに熱を持っているのが分かった。
まだ……まだ。
もしかしたら、まだカナの中に多少残っている朱雀のチャクラを使えば、まだ。
「ッゲホ……!」
だが唐突に喉に流れてきたものを、カナは咄嗟にサスケから顔を背けて吐いた。血だ。
「お前…お前ももう、ボロボロだろう」
扉間が痛ましげに言う。その通り───カナの体はもうとうに限界を超えている。このもう三日にも及ぶ大戦で、ほとんど休むことなく戦ってきた。
血反吐を吐き切ったカナは、それでももう一度サスケに額を近づける。
全てのチャクラを使い切ってもいい。
この愛する人を、救うためならば───。
───そこに唐突に入り込んできた声は、まるで想像だにしない人物のものだった。
「馬鹿だな。それじゃあ、歴史を繰り返すだけだろう」
扉間がすぐさま視線を飛ばして、眉をひそめた。カナは俊敏に反応する余力もなく、ゆったりと上体を起こして、声の主を探した。
この声、聞いたことのある…長い間聞いてきたもの。だが、カナの瞳に映ったその姿は、予想した人物からは遥かにかけ離れていた。
面影が残るのは、唯一……その丸眼鏡。
「カブトさん……?」
薬師カブトで間違い無いだろう人物。肌は灰色に変色し、頭からは角を生やしている。眼光は蛇のような異彩を放っている。
カブトは、カナの問いかけに応えず、ゆっくりと近づいてきた。
「キミが死んで…サスケくんが生き返ったとして。その先の未来が想像つかないか」
「…その先」
「うちはオビトと同じだ。キミがサスケくんを愛するように、キミはサスケくんに愛されている……第二のオビトが生まれるだけだ。また一人、帰る場所を失う者が生まれるだけだ」
カブトがサスケを挟んでカナの反対側に腰を下ろした。
「帰る場所を失うのは、何より辛いことだ」
「……カブトさん……そんなこと、言う人でしたか……?」
「茶化すなよ。キミの大事なサスケくんを、これから助けてあげようっていうのに」
カナは僅かに目を丸める。
薬師カブト。大蛇丸の配下だったこの男に、サスケを助ける義理はないはずだ。むしろ、うちはの体を欲してた彼らからすれば、今この状況は美味しいもののはず。
…だが、そういう悪意の気配がまるで感じられないのが、カナにも分かった。
カブトの手がサスケの胸を這う。
「…危険な状態だな。僕の医療忍術なら、ギリギリ間に合うかもしれないけど」
「貴様…その身体。もしや、兄者の細胞を取り込んでいるのか」
口を出したのは扉間だった。新たな得体の知れない人物を観察していた扉間は、確信を持ったように問いかけた。
「…ああ、いたんですか。二代目火影様」
「兄者の細胞をそのうちはの小僧に分け与えることはできるか」
「!……なるほど。さすが弟様…よくご存知でいらっしゃる。確かに、僕ならそれができる…」
触診するようにしたカブトの、その腹からぼこりと、管のようなものが膨れ上がっていた。カナは息を呑んでそれを見る。
「それは…?」
「…“何者か”になりたかった僕が色々なものを取り込んだ、その一つが…柱間細胞。強い生命エネルギーの塊だよ。これをサスケくんに分ける」
伸びた管がサスケの胸へと繋がれる。その様子をカナは黙って見つめていた。
ずっとサスケを見ていたカブトの視線が、ちらりとカナの顔を見た。
「…僕のこと、嫌いだろ。信用できないんじゃないのかい」
カナはじっとサスケの顔を見つめたまま。
「サスケを助けてくれる、その言葉に、嘘を感じませんでした……お願いします。サスケを、助けてください……」
今、これ以上の願いはない。
カブトはカナの様子をじっと見つめた。視線を地面に落とすと、地面に下ろすカナのその手の痛々しい傷が目に入った。
その痛みを口に出すことなく、カナは今、サスケの無事だけを望んでいる。
「……お安い御用だよ」
カブトは再びサスケに目を落とした。
■
生死の間を彷徨っている少年二人は夢を見る。
忍の祖・六道仙人───大筒木ハゴロモ。
彼がかつて残した二人の息子───アシュラとインドラの因縁を通じて、ハゴロモは今代の二人の転生者・ナルトとサスケに問いをかける。
忍の世の歴史。
その本当の始まり……チャクラの元であった神樹から、ハゴロモの母・大筒木カグヤがチャクラの実を奪い、人間たちがチャクラを得たところから、永劫続いてきた戦いの歴史。
ハゴロモが本当に願った、ただ人と人を繋げたかった“忍宗”は、“忍術”と呼ばれるようになり、今世まで人々の争いに使われてきてしまった。
そして今、再び神樹がチャクラを取り戻さんとし、人々が使う忍術の歴史が幕を下ろそうとしている、今この時。
なにを目指すのか。
生死の間で時を待つ二人の少年に、ハゴロモは問いかけた。そして、得た答───時代を経てもなお、今代でもまったく真逆の答を導き出した二人に、ハゴロモは薄く笑う。
だからこそ、この力を今度こそ、二人ともに分け与えるのだと。ハゴロモは手を伸ばし、これからを描く時代に全てを託した。
■
香燐を先頭に、一行は走っていた。
元大蛇丸の部下らしき多様な能力でグルグル面の相手から抜け出し、向かうは直線、今にも消えかけているサスケのチャクラの元。
探知が人並外れている香燐は既に、サスケの傍に、カナと二代目火影以外に得体の知れない人物がいることに気づいていた。カナが戦っている様子はないが、その気味の悪いチャクラの気配には、足を急がせるほかなかった。
そして見えた光景に、目を疑った。
「カナ!!」
香燐の声に反応して振り返ったカナの先で、気味が悪い風貌の人物が、サスケに何かしている。
「てめー!!どこのどいつだか知らねーが、サスケに何してやがる!?」
「香燐…!?待って、この人は…」
カナはよろめきながらも立ち上がって、両腕を広げて香燐を制した。
香燐に続いて、重吾、水月、大蛇丸がその場に到着する。だが、香燐以外の冷静な三人は、男を見た途端に気がついている。
「なんだよ、そういうことか。…カナとの組み合わせは想像つかなかったけど」
ここまで全速で走ってきた水月が脱力したように言い、重吾が「確かにな」と同意をこぼす。大蛇丸は目を細めてその様子を見つめた。
「アナタだったのね…カブト」
腹から生命エネルギーをサスケに与え続けているカブトは、微動だにしないままだった。
「ここへ急ぐ一行は感知してました…。やはり大蛇丸様でしたか」
「こいつがカブト…!?チャクラが違うぞ!」
「色々と他人のチャクラを体に入れ込んだ挙句、仙術チャクラまで取り込んだから、香燐でも別人と間違えたようね。……そんなに睨まないでよ、カナ」
「……大蛇丸……」
カナの視線は複雑そうな色を交えて大蛇丸を睨んでいる。
「…ナルトが、アナタを、今回は味方だと言ってた」
「まあ、そうね。安心なさい。色々思うところがあって、もうサスケくんをどうこうするつもりはないから」
「……」
「そんなことより、カナ…!カブトに何させてんだよ!まさか、まさかコイツがサスケを」
「カブトさん、まさかサスケまで取り込む気じゃないよね?カブトにサスケでカブケかサストか知らないけどさ?」
勢いこんでまた突進しようとする香燐を、カナは改めて止めた。目を見張る香燐に対して、ゆるく頭を横に振る。訪れた沈黙の中、ようやく渦中のカブトが口を開いた。
「水月…僕はもうそんなことはしないし、香燐…僕ももうサスケくんを奪おうとは思わない」
「…カブトさんは、今、サスケを助けてくれてるんだ」
それでようやく、冷静じゃなかった香燐も───サスケのチャクラが戻りつつあるのに気づいたようだった。
香燐の力が弱まったのを感じて、カナも抑えるのをやめ、再びサスケの横に腰を下ろす。
初めの頃より生気が戻ってきたその様子に、安堵の息が漏れた。