闇へ誘う声
すっかり日も暮れて、夜の帳が空を覆った頃。
退出してから仮眠を取った昌浩は、つい先ほど、安倍邸を抜け出して行った。
それに六合が同行したと知る理紗は、自然と頬を緩ませた。
昌浩を知ろうと行動してくれるのが、嬉しい。
そんな風にひとり笑う理紗に、傍らにいた青龍が怪訝そうな顔を見せる。
視線でどうしたと問うてくる青龍に、理紗は「嬉しいな、と思って」と笑って返して、庭に降りた。
一つ、大きく息を吐いて、空を見上げる。
先ほどまでとは一転し、鋭い目つきで星を眺めやる。
―――やはり。
気のせいではない。星は変わってしまった。
「この所、毎晩だな。変わった星宿が気になるなら、占じればいいだろう」
「・・・だめだと思うの。きっと、私が占じても、正しい結果は出ないだろうから」
式占は、そうなればいいなどと思いながら行ってはいけないのだ。
中宮彰子。
紫式部を始め、和泉式部や赤染衛門、伊勢大輔などの後世に名を残す教養高い女房を従えていた、輝く藤壺。
一条天皇の、后。
後の後朱雀天皇を出産し、道長の出家後は藤原一門を統率し、弟達と協力して政治を支えた賢人。
それが“あの子”の知る、藤原道長が長姫、藤原彰子だ。
絶対に変わらないと思っていた星のさだめ。
だと言うのに、針一つほどの歪みが、確かに出来ているのだ。
そうなればいいと、願った。
姫と楽しそうに話す弟と、楽しそうにそれを聞く姫を見て、そうなって欲しい、と。
歪みは歪みを生むのだろうか?
この歪みの代償は何だろうか?
「・・・・・・今更ね」
「何がだ?」
「ううん・・・何でもないわ」
最も、いびつで、異質、なのは、他でもない、自分自身、だ。
もう、十年以上も経っているのに、未だに私は―――・・・・・・。
****
「土蜘蛛ねぇ・・・」
昨晩、昌浩の夜警に同行していた六合からの話に、理紗は口元に手を当てて考え込んだ。
「消えた、というのもだけれど、異邦の妖異を狩っていた、というのも気になるわね。
相当な力を持っていることは間違い無いし・・・・・・でも」
悪い感じが、しない。話に聞いただけ、直に感じたわけでも無いのに、勝手に無害だと判断している自分がいる。
と、思ったままに六合に告げる。
「理紗がそう感じたなら、それでいい」
「そう・・・かしら?いくら陰陽師の勘と言っても、実際に自分が出くわしたわけでもないし」
「考えの一つとしておくには十分すぎるくらいだ」
「考えの一つ、ね」
今夜は、私も出よう。
可能性は低いが、その土蜘蛛に会えるかもしれない。
しかし、それよりも。
ずっと胸につっかえて取れない、何か。
それが気掛かりで、早く事を片付けねばならないと、警鐘を鳴らし続けている。
「ああ、すっきりしないわ・・・・・・。一度、彰子様にお会いしてみようかしら・・・」
彼女と最後に会ったのは、彼女が昌浩のお見舞いに来た時だから、もうふた月も会っていない。
そもそも、理紗の身分では会うことは一生叶わないような人なのだが、そこは理紗。道長からも一目置かれる陰陽師である。個人的に会いたいと言っても、追い返されるどころか手放しで歓迎される。
先触れを出そうかと思っていたところ、そばにいた六合が口を開いた。
「彰子姫なら、昌浩に様子を見てくるよう、今朝晴明が言っていた」
「え、そうなの?なら・・・」
昌浩に任せる、か。
「・・・でも、やっぱり自分の目で直接視ておきたいのよね」
よし、明日にでも伺わせていただこう。
「何を気にしている?」
暗い表情の理紗の頭を撫でて、六合が問う。
「・・・わからないの。何かが気になっているのに、それが何なのか・・・。彰子様に対するものよ。
私・・・・・・何か見落としていない?」
その何かに気づいたのは、酉の刻を過ぎた頃。事が起きた後だった。
****
昌浩が帰宅し、おじい様へ報告に向かった。
二度手間で申し訳ないが、後で私も彰子様の様子を教えてもらおう。
取り入れた洗濯物をたたみ終え、運ぼうと立ち上がる。
「、っ・・・!」
「主様!!」
突如、ぐらりとふらつき膝をついた理紗に、楓牙が慌てて駆け寄った。
「・・・だい、じょうぶ・・・・・・へいき・・・」
胸を押さえて、荒い呼吸を繰り返す理紗。
大丈夫、大丈夫。まだ、大丈夫。
「主様・・・」
「・・・大丈夫よ、楓牙。だから、誰にも言わないで・・・お願い」
「・・・・・・承知、しました」
「ごめんね・・・」
耳と尾を力無く垂れ下げた楓牙を抱き寄せる。
ふるふると首を横に振る楓牙は、納得はしていないのだろうけど、絶対に私の意志を優先してくれる。
今、他に誰もいなくて良かった。
彩輝や宵藍が、いなくて良かった。
「・・・まだ、大丈夫・・・・・・」
自分に言い聞かせるように、呟いた、そのとき。
「―――っ!!?」
衝撃が駆け抜けた。
何かが砕け散る。そして、地の底から這い上がってくるように、低い唸りが生じた。次いで、それに呼応するように、大地が震動する。
理紗は座り込んだまま顔を上げ、空を仰いだ。
「瘴気・・・!!」
街のただなかから、常人には視ることのできない瘴気の渦が迸っている。
あの位置は―――
「楓牙!行って・・・!」
「ですが、主様をお一人に」
「行きなさい!急いで!」
渋る楓牙を遮って、理紗は叫ぶように命令を下した。
「瘴気は毒にしかならないわ・・・徒人には特に」
「―――御意。主様はこのまま邸にいて下さい」
普段なら、いくら命じられても絶対に理紗をひとりにすることはない。
しかし、今自分が行かねば、理紗は自身の体調を慮ることなく、東三条殿へ行ってしまう。それは許されない。
「くれぐれも」
楓牙は今一度、念を押して、風に乗って消えた。
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