忍び寄る影の跡
「まだ荒れているな」
岩べりに腰をおろしていた高淤の神は、くつくつと喉を鳴らして笑う。
舞を終えた理紗は自覚があるようで、決まりが悪そうに眉尻を下げた。
元来、理紗の舞は、それこそ天女が舞うかのような、柔らかく、優美な舞だ。
しかし、例の事件以来、理紗の舞はまるで抜き身の剣のように、鋭利で、きんと冷えたような印象を与える。
日が過ぎる毎に柔らかさを取り戻しつつあるが、まだ本来のそれまでではない。
まだあれから、ひと月と半分しか、経っていないのだ。
妖異たちに殺された宮司や禰宜たちの鎮魂の儀は、晴明がひっそりと行った。
事が公になれば、大混乱を招くことになるので、それを避けるための采配だ。
それから理紗は、昌浩を助けてもらった御礼のため、貴船に通い詰めていた。
「まあ、そういう舞い方でも美しいことに変わりは無いがな。」
ふ、と薄く笑った女神に、理紗は苦笑する。
「・・・高淤の神は相変わらず・・・・・・。お褒めくださることは大変嬉しゅうございますが、そうあまり頻繁にですと、恐れ多くてなりません」
「今更だな」
笑った高淤の神は、次に琴を所望した。
理紗は本宮に置かせてもらっていたそれを引っ張り出して、弦を弾く。
普段は笛を、と仰せられる神は、しかし今回は琴を希望された。
妖異たちの瘴気を祓う意味もあってのことだろうと理紗は推測する。
真実、ぴんと気を張り詰めていた理紗の奏でる琴の音は、弦を弾く度に、ともに瘴気を弾き飛ばしていたし、初日には、目前におわす龍神からも「鬼も裸足で逃げそうな雰囲気だな」とからかわれたほどだった。
数日は邸から持ってきては、持ち帰っていたのだが、さすがに十を越えたあたりで、理紗は琴を置かせてくれるよう、頼んだ。
高淤の神は二つ返事で承諾してくれ、今に至る。
ちなみに、今この場にいるのは高淤の神と理紗、そして楓牙の三名のみである。
高淤の神はふたりきりで理紗の楽や舞を楽しみたいと仰せになられ、過保護な木将二名はそうそうに追いやられた。
唯一残った楓牙は、理紗の足では貴船に来るのが大変だから、という理由で何とかこの場にとどまる権利を獲得したのである。
「あれはどうしている?」
目を閉じて凛と響く音に耳を傾けていた高淤の神は、不意に口を開いた。
「まだ、伏せっております。高淤の神の御慈悲により、一命を取り留めることは叶いましたが、しかし人の身は脆弱でございますので。
体力が落ちていたところに、冷え込んだのも相俟って、風邪をこじらせています。
本調子になるには、もうふた月はかかりましょう」
爪弾く手を止めずに答える。
「ふた月か。・・・長いな」
「・・・申し訳ございませんが、こればかりは」
「わかっている。
・・・あれからまた姿を消した彼奴らは、やはり気配を気取らせない」
「はい。どこへ隠れているのかはまだわかりませんが、必ず片をつけますので」
「ああ。早々にな」
「尽力いたします」
「お前の笛も、早く聞きたいものだ」
「うっ・・・・・・。が、頑張ります」
昌浩が完治するまでは無理だろうと思いつつも、理紗は曖昧な笑みで頷いた。
「う〜・・・眠・・・・・・」
貴船から帰った理紗は倒れるように茵に潜り込んだ。
「楓牙・・・・・・えっと、一刻半、経ったら起こして・・・」
もう夜も半ばを過ぎた。明日というか既に今日だが、朝餉の用意があるのでそんなには寝てられない。
「お願いね・・・・・・」
楓牙の返事も待たず、一瞬で眠りについた理紗に、楓牙は心配そうに顔を歪ませた。
忙しさがとどまることを知らなかったこのひと月半―――夜は貴船、朝は早くから食事の用意、昼は家事をこなしつつ修行も欠かさず、日に数回は昌浩の様子を見に行き、夕餉の用意、そして再び貴船へ、の繰り返し―――理紗はまともな睡眠時間を取れていない。
さすがに家事の合間に仮眠を取るようになったが、それでも足りていないのは誰の目にも明らかだった。
事情を良く知らない露樹には、何度も大丈夫かと言われるほど。
楓牙はもちろん、過保護な神将代表である六合と青龍は、いつか倒れるのではと、気が気ではなかった。
今夜ようやっと、高淤の神に満足いただけた―――しかし月に一度は顔を見せろと言われた―――のだが、当の理紗は朝から働く気満々である。
「ぐぬぬぬ・・・・・・起こすべきか、起こさざるべきか・・・・・・・・・」
ひと月以上繰り返した自身への問い掛けの答えはやはり変わらず、今日も夜が明けて来た頃、痛む心を抑えて、理紗の願い通りに朝を告げるのだった。
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