風に薫る甘い芳香
昌浩の物忌みが明けた後、入れ替わるように今度は理紗が物忌みに入ることになった。
「ああっ主様!おそばに居られぬ我が身のなんと口惜しいことか・・・!」
大きな瞳に涙を溜める楓牙の頭を理紗はふわりと撫でた。
「ありがとう。気持ちだけで十分嬉しいわ。こんなに主人思いの式神がいてくれて、私は果報者ね」
「主様・・・っ!」
「大丈夫、たとえ離れていようと、私たちの心は繋がっているわ」
「主様・・・」
「楓牙・・・」
「主様・・・」
「楓牙・・・」
「・・・・・・気は済んだか?」
「本当・・・。毎度毎度よくやるわよ・・・」
廊下の真ん中で見つめ合っていた一人と一匹に声を掛けた勾陣は、芝居染みた主従のやり取りを見て呆れたように苦笑をこぼした。
その後ろにいる太陰も同様だ。
「何を言うかっ!これより三日も主様に会えぬのだぞ・・・!」
きっ、と勾陣と太陰を睨めつけた楓牙は理紗に頭を擦り付け甘えた。
「はう・・・・・・楓牙は今日も可愛いわ・・・!」
「・・・理紗の主馬鹿も大概だな」
勾陣の言葉に、全くだと言うように太陰は大きく頷いた。
「理紗」
今度やって来たのは青龍で、その手には書物が抱えられている。
「これで全部か?」
「ええ。ありがとう、宵藍」
理紗は横に置いていた紙の山を抱えて立ち上がった。
楓牙も側にあった硯箱を器用に頭に乗せる。
「今日もいっぱい持って入るのねぇ」
太陰は紙や書物を見て呟いた。
「物忌み中ほど暇なことは無いわ。少し気になることも有るし、用意しておこうと思って」
「・・・あれから姿を見せないからな」
勾陣の言葉に理紗は頷いた。
先日の一件以来、異邦の妖異たちは姿を見せていない。
外れて欲しいくらい嫌な予感がするのだが、こういった直感が外れることは滅多に無いと知っている。
自室へと足を進めながら、理紗は思考を巡らせた。
「――理紗!」
「・・・前を見て歩け」
「え?」
太陰の声が聞こえた後、ぐっと腰を引き寄せられた。
「六合?」
香炉を片手に持った六合は無表情ながらも呆れたようなため息をついた。
「壁に激突するところだぞ」
勾陣が笑いを含んだ声色で言う。
振り返ると確かに目の前は壁だった。曲がり角に気づかなかったらしい。
「あはは・・・・・・・・・ごめんなさい。ありがとう、六合。太陰も」
六合は何も言わず、変わりに理紗の頭をぽんぽんと撫でた。
「・・・・・・・・・・・・」
無言で跳躍し、六合の肩に飛び乗った楓牙は、何か言いたげに六合の頬を右前足でぐいぐいと押した。
頭の上の硯箱は健在である。実に見事な平行感覚だ。
「楓牙?六合がどうかしたの?」
「・・・いえ、何でもありませぬ」
六合から降りた楓牙は、てくてくと足を進める。
理紗は首を傾げながらもそれ以上は聞かず、自分も歩みを再開した。
「ねえ理紗」
「何?」
「薫物をするの?物忌みなのに?」
六合が持っている新品の香炉を見て、太陰は首を傾げた。
以前から使っていた陶器製の香炉は不運な事故―――先日の台風事件―――により割れてしまったので、新しい物を塗籠から持ってきてもらったのだ。
ちなみにこれは例の如く続くどこぞの貴族たちからの贈り物攻撃の一つである。
「ああ、薫物はするけど衣に薫きしめるためじゃないの。目的はこっち」
理紗は持っていた紙の束を少し上げて見せた。
「そっち?その紙は符を書くためのものじゃないの?」
理紗が物忌みに入る時はいつも符を書き溜めたり、縫い物をしたり、読書をしたりが大体だ。
「符も書くけど・・・・・・念のために他にも、ね」
「あんな子どもに任せるからだ」
青龍は剣呑な目つきで言った。怯えた太陰が隣にいた勾陣の背に隠れる。
「子ども子どもって・・・・・・宵藍。昌浩よ、昌浩」
理紗の訂正に、ふんと鼻を鳴らした青龍。心なしか、眉間の皺が増えた気がする。
「あ、そうだわ」
理紗は良いことを思いついたと言わんばかりに声を上げた。
「宵藍、しばらく昌浩についてみたらどうかしら?」
「・・・・・・何だと?」
今で最高と思われていた青龍の不機嫌さが、三割は増えた。太陰はもう半泣きである。
このぴりぴりした神気を毛ほども気にした様子を見せないところが、理紗が神将たちに認められている所の一つである。
「つく、って言い方は適切じゃないわね。何て言うの?様子を見る?
昌浩がどんな風か、全然知らないでしょう?日に数回でいいから、ちらとでも見てみない?
私も丁度、今日から物忌みなわけだし」
「・・・それはそれで問題ではないか?」
勾陣は苦笑した。昌浩の側には、あの騰蛇がいるのだ。
「大丈夫よ。紅蓮だって四六時中、昌浩にくっついていないだろうし。
というか、ばったり会ってもいいじゃない。お互いにお互いを避けてるからだめなのよ。どちらも全然、相手のことを知らないままになっちゃうじゃない。やっぱり相手の本質を知るには、自分からぶつかっていかないとね」
理紗が言うと説得力がある。
昔、姫に武術を叩き込むのはどうだろうか、と悩んでいた神将たちに、本気で教えてくれと文字通り体当たりした理紗である。
そのお陰で理紗は勾陣や朱雀と親しくなったと言っても過言ではない。
「騰蛇など―――」
「えいっ」
ばちん。
片手で紙束を抱え直した理紗は、なんと青龍の額を指で弾いた。
「私、宵藍よりも紅蓮のことを知っている自信があるわ。
そして、紅蓮より宵藍を知っている自信もね」
私、みんなの良いところ、両手の指じゃ足りないくらいあげられるわよ?
そう言って退けた理紗の得意気な顔。
勾陣と六合は口元を緩め、太陰は嬉しそうに笑った。
青龍は呆れたようなため息をこぼしたが、それ以上、何も言わなかった。
「・・・まあ、どうしても無理だったら、その合間にでいいのよ。それも無理なら、私と一緒に行きましょう」
「「・・・・・・・・・」」
後者はともかく、前者だった場合。
騰蛇(昌浩からすれば頼れる相棒)がいない時に青龍(昌浩からすれば自分を目の仇にしているような存在)が日に何回も、自分を見に―――青龍のことだから睨み付けるような目で―――来られたら・・・・・・。
「昌浩、可哀相・・・・・・」
思わず呟いた太陰の言葉に、理紗と青龍以外、心の中で激しく頷いた。
前項 | 次項
←