神の舞姫
「・・・暑い・・・・・・」
理紗は額の汗を拭い、燦々と降り注ぐ日の光を見上げた。
ここひと月ほど、雨が全く降っていない。
夏真っ只中とはいえ、まだ完全に日が昇ったわけでもないのにこの暑さ。
しかも空気が乾燥しているので、少し風が吹けば砂煙が酷い。
このじっとりとした暑さのせいで倒れる人も多いと、お父様が仰っていたな。
洗濯物は良く乾いてくれるので助かるが、そろそろ一雨欲しいところだ。
高淤の神はどうされたのだろうか。
理紗は幼い頃より親しくさせていただいている龍神を思った。
最後に会ったのはふた月半前か。
そろそろお会いしに行こうか。
ついでに雨を願ってみよう。
理紗は最後の洗濯物を干し、空になった盥を持ち上げた。
「理紗」
そこに顕現した鳶色の長髪を靡かせた青年。
「彩輝」
「晴明が呼んでいる」
「おじい様が?」
何だろうか。
この時間帯なら、昌浩の修行中ではないか。
ひとりで動き回れるようになった六歳下の弟は、おじい様の後をついて回り、既に陰陽師としての修行を受けているのだ。
数年前、夜の貴船に置き去りにされてからは、おじい様に不信感を抱いているようではあるが。
後で、私もされたから大丈夫だと補っておいたが、効果は無かったと思われる。
理紗は盥を片付け、すぐに祖父の下へと向かった。
****
「・・・・・・・・・は?」
たっぷり三拍ほど考え、理紗はぽかんと口を開けた。
「ええっと・・・・・・・・・冗談ですよね?」
「真剣に言っとるぞ。わしよりお前のほうが親しいではないか」
「だからって!!
帝や左大臣様までいらっしゃるような祈雨の儀に、私なんかがおじい様の代わりに行ったら、即刻追い返されます!!」
祖父のたぬきっぷりは重々承知しているのだが、これは無理が過ぎるだろう。
そういう自分も、着々とたぬきに近付いているという自覚は、理紗本人には無い。
「考えてもみろ。わしが高淤加美神に雨を降らしてくださるよう願ったところで、あの女神が叶えてくれるとは思えんだろう」
「高淤の神は懐の大きい方です。真剣に願えば、必ず御慈悲を与えてくださいます」
「それはお前に対してだけだ」
晴明は扇を口元にあて、わざとらしくため息をついた。
「始まりは五つになった理紗を貴船に置き忘れたことだったなぁ」
「置き忘れたとはなんですか。御丁寧に縄で木に縛り付けて行ったではないですか」
理紗の反論をさらりと無視し、晴明は昔を懐かしむように目を細めた。
「宵藍と六合に連れて帰られた理紗に翌日会ってみれば、あの龍神に気に入られておるし」
「・・・舞を見せるためとはいえ、高淤の神手ずから扇を賜ったときはさすがに焦りましたが」
以前から私の舞を気に入ってくださっていた高淤の神は、今年の正月を少し過ぎた頃に、これで舞えと見事な細工が施された扇をくださったのだ。
裳着を終えた理紗に、成人の祝いとでも思え、と仰せになられて。
それから晴明は、理紗がどれほど高淤加美神に気に入られているかを語り、理紗は半分どころか八割方聞き流しながら、適当に相槌を打った。
この後の展開はもはや決まったも同然。
何やかんや言っても結局は晴明の言うことに従ってしまうのだ。
「それに、あれはお前がまだ七つになったばかりの頃か。
三日も行方知れずになったかと思うと式神を連れて帰って来るし」
「―――楓牙を式に下すのは大変だったんです。
七つの幼子がひとりで下せたのは奇跡ですよ」
自分でも、よく死ななかった・・・と思う。
数年前の冬の日を思い出していると、傍らに楓牙が顕現した。
「ああ、楓牙!別に責めているわけじゃないのよ?」
「主様・・・」
ひょいと両前足を持ち上げるように抱き上げると、尻尾が力無く揺れた。
可愛い動作に思わずぎゅーっと抱き締めると、苦しそうにもがきだしたので、慌てて力を緩める。
「・・・確かに、わしもよく無事帰って来れたものだと肝が冷えたわい」
・・・・・・てっきり『ひとりだったとはいえ、三日もかかるとは情けない。ああ、じい様の教え方が悪かったのか。切ない、やるせないぞ』とでも言って泣き崩れるふりでもするかと思ったのだが。
そうか。おじい様もさすがにまだ幼い孫娘にそんな酷なことは要求しないのか。
「まぁ兎に角、お前なら力も申し分ない。それに高淤加美神に気に入られているだろう。ちょっと行って雨を降らせていただきなさい」
「ちょっと市までお使いに行ってこい、みたいに軽く言わないでください」
理紗は大きく息をついた。
この祖父は一度こうと決めたら頑として譲らないことは分かっている。
やはり今回も自分が折れるしかない。だって、この祖父を言いくるめられるなどとは思えない。
「・・・・・・わかりました、お受けします。必ずや祈雨の儀を成功させてみせましょう」
帝なんて、そうそうお目にかかれる方ではない。
これを機に是非とも帝に“安倍理紗”の名を覚えて頂こうではないか!
開き直った理紗は拳を握って、胸中、高らかに誓った。
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