禍つ鎖を解き放て
離れた所で、昌浩たちの声が聞こえる。
それを、邸の北東側の晴明の部屋で理紗は聞いていた。
昌浩が戻ってきたと同時に、随身している六合から仔細は報じられている。
それ以外にも父の吉昌が、今日は一大事があったので帰れないという使いを寄越してきたので、大体の事情は飲み込んでいた。
「陰陽生の敏次か・・・。はて、どんな若者だったかな・・・?」
晴明は腕組みをして首をひねった。
彼が蔵人所陰陽師となったのは昌浩が生まれる少し前だった。今十六の敏次と顔を合わせたことはあまりない。乞巧奠のときに遭遇はしているかもしれないが、あまり気に留めていなかったから覚えがないのだ。
今陰陽寮に所属している十代から二十代前半の若者たちは、だから安倍晴明本人を間近に見たことがほとんどない。別格扱いを通り越して、もはや神格化してしまっているかもしれない。
「うーん。わしは自由気ままを愛するただの老いぼれなんだがのぅ」
かりかりと頭を掻いて、晴明はひとりごちる。そんな祖父の隣で、理紗は、あ、と小さく声をあげた。
「私としたことが、昌浩に諸尚のことを伝えそびれてしまいました・・・」
「・・・む、そういえば忘れておったな。まあ、白虎たちからそろそろ連絡が来るだろうし、それからでも・・・」
ふいに、声ならぬ声が晴明の耳に届いた。
《―――白虎から、風が》
風将太陰だ。ゆるやかなつむじ風とともに、白虎の言伝が太陰に伝わる。
《墓が、暴かれていたと》
「諸尚のものか?」
《ええ。さらに、黄泉還りの呪法を行った形跡があるとのこと》
「理紗様がご覧になられた夢の通りですね・・・」
理紗のすぐ背後に、天一と青龍が顕現した。
「これで確定だな。昌浩に・・・」
青龍を顧みて言いかけた晴明は、しかし途中で言葉を途切れさせた。青龍は剣呑に目を細め、なぜ俺が、と無言ながらも全身で表していた。
「・・・宵藍、昌浩を認めたんではないのか?」
「誰が?」
取りつく島もない。
「ええー・・・」
不満げに声を漏らした理紗を、青龍は相変わらずの険しい目で見やる。
「六合は結構、昌浩のことを認めてくれているのに」
「それが俺に、何か関係があるのか?」
抑揚に欠けた声だ。それでも相手が理紗だからか、そこまで冷たい色ではない。
晴明は、心の中で諸手を上げた。ここまで頑固だと、いっそ見事だ。理紗は頑固さは自分譲りだと言っていたが、守り役譲りの間違いではないのか。まあ、ここまで頑ななのは、紅蓮につづき、六合や天一が昌浩に比較的好意的なのが、気に障っているからなのかもしれないが。
「・・・天一。昌浩を追って、怨霊の名を告げてこい。それさえわかれば、紅蓮が全て諒解するだろう」
天一は黙然と一礼し、すっと姿を消した。
《白虎と朱雀は暁には戻ると》
「そうか」
太陰の言葉に頷いた晴明は、ふいに冷気が波打つような感触を覚えた。
それは理紗も同じで、簀子に飛び出して空を仰いだ。
風が唐突に凪いだ、次の瞬間、天空から目に見えない砂塵が降り注いできた。
「これは・・・!」
青龍の声音が硬い。
「空を覆っていたもやだ!」
月影が射している。月があまりにも皓皓と照らしているので、星の光が霞んでしまっている。
都の一角に建つ無人の邸。その屋根の上にたたずみ、女は悠然と空を見上げていた。
彼女の肩に留まっていた鳥が、低く鳴いて片方の嘴を摺り寄せてくる。女はくすぐったそうに目を細めると、鳥の足元に指を近づけた。鳥は彼女の手に移動し、そのまま羽ばたいて飛びあがった。
闇に消えていく鳥影を見送り、女は穏やかに微笑んだ。
両手を天に掲げて、目を閉じる。両腕にはまった腕輪についている鈴が、しゃらんと小さな音色を響かせた。
「―――揺ら揺らと」
囁くような歌声に呼応して、天が震えた。いや、天ではない、鈴に共鳴して震えたのは、理紗たちが見咎めた、あの天を覆っていた白い膜だ。
「振るべ、揺ら揺らと、揺ら揺らと」
しゃらん、と鈴が鳴る。しかし、女の手はぴくりとも動いていない。彼女の全身から放たれる凍てついた霊気が、腕輪を押しあげて鈴を震わせ、鳴らしているのだ。
「暗夜にとけ込む魂よ、影形なく、名すらなく」
風が不自然に凪いだ。女の声が、厳かに響き渡る。
徒人には決して見えない白い砂塵が、天から一斉に降り注いできた。生じた霊気がまるで波のように大きくうねって、大地に徐々に染み込んでいく。
「振るべ、振るべ、揺ら揺らと。鬼国より吹き来る風は、眠る魂振る禍つ風」
地に染み込んだ砂塵が、やがて鬼国に眠る名もなき魂を、地表に引きずりあげた。
ざわざわと立ち昇る、禍々しい黒いもや。それはやがて、無数の人影に変化した。
女は、閉じていた瞼を開いた。凪いでいた風が、穏やかに流れはじめる。四方にもやを押し広げ、眠りから無理やり引きずり起こされた恨鬼たちがあてもなく彷徨いだした。
「踊れ踊れ、冥き鎖に囚われて、みなさしころせ、天地玄冥・・・・・・・・・!」
女が手を下ろす。鳴り響く、鈴の音。
そのか細い音色を掻き消して、凄まじい鬼哭が都中に轟いた。
凄まじい恨鬼たちの只中にたたずむ女は、周囲をのんびりと見渡して、軽く首を傾げた。
「・・・・・・少し、早かったかな・・・?」
苦笑交じりに呟いて、彼女はあらぬ方を見はるかした。
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