ジュージューとベーコンの焼ける匂いが鼻腔を擽る。
ぐう。
食べ物の匂いにつられて少女の腹が盛大に音をたてた。
調理する際に起こる炎がパチパチと爆ぜる音とベーコンを焼く音だけでは大きく鳴った腹の音は隠しきれない。

絶対に聞こえたったい。

少女は顔を赤くして、知らないフリをしながら頬杖をついた。
目の前にはエプロンをつけた自分と同い年の少年。
一本だけぴょんと跳ねたアホ毛が何とも可愛らしい少年は少女と自分自身の為に朝食を作っていた。
慣れた手つきで卵を落とし、フライパンを操る少年は一体どのくらいの年月を一人で過ごしてきたのだろうか。
無駄のない動きをする少年の背中を眺めながら少女はぼんやりと思った。

あたしも手伝えたら良かとやのに…。

以前、朝食を作って貰ってばかりでは申し訳ないから自分が作る!と張り切って朝食を作った結果、キッチンを爆破させた経験がある少女は少年に朝食作り禁止令を出された。
突っぱねる事も出来た筈だが、少年の恐ろしいまでの剣幕と少女を心から心配している故の発言に少女はこくりと頷き、朝食作りはしないと誓った。
そういう経緯があるから、少女はぼんやりと少年を眺める事しか出来ないのだが、まあ、何というか居候の身としては肩身の狭い思いをする訳で。
そもそも自分の目的は少年に魔女と呼ばせる、ただそれだけの筈だから別に一つ屋根の下で一緒に住む必要はないのでは。
思考の海に沈んでいった少女を現実へと引き戻させたのは目の前に置かれたベーコンエッグだった。

「お待たせ。お腹空いちゃったよね?今日はパンだよ。バターは要る?」

エプロンを外して少年はトーストから焼けたほかほかのパンを皿に置いて少女へと差し出した。

「…ジャムも欲しか…」

やっぱり聞こえてたと。

けれど、それを口に出さないのは少年の優しさなのだろう。

「モモンとナナシ、どっちが良い?」

「モモンのジャムったい」

「OK」

少年は戸棚のガラス窓を開き、中に置いてある桃色のビンを取った。
少女に渡すとスプーンで掬われたジャムがパンに塗られる。
モモンジャムののったパンを口に運んで美味しそうに食べる少女を満足げに見守ると少年もパンにバターを塗り始めた。




朝食を食べ終えた少年と少女は少年が煎れた紅茶を飲んで休憩していた。

今日は良い天気だから久々に布団を干すのも良いかもしれない。

家事の事を考えていた少年は「あんね」と話し掛けられ、紅い瞳を少女に向けた。

「何だい?」

少女は俯いていたが、やがて決心したのか顔を思い切り上げた。
ぎゅうと紅茶の入ったマグカップを握って真剣な表情で少女は言う。

「あたし、この家ば出て行こうと思う」

瞬間、柔和な笑顔を少女に向けていた少年の笑顔が凍りついた。

「…な、んで」

口元の笑みが消え、少年の紅い瞳が大きく開く。
固い声音に気付かずに少女は続けた。

「あんたに迷惑ば掛けてばかりやし、よくよく考えたらあたしの目的はあんたに魔女ち呼ばせる。ただそれだけの事やけ、なら、別に一緒に住む必要なか。会いに行けば良かこつやろ?やけん、あたし出てく」

今までありがとね、と笑う少女が立ち上がって出ていくのを少女の手首を掴んで止める。

「……何ね。離すったい」

「嫌だ」

「離すったい」

「断る。君が出ていくなんて許さないよ」

「痛」

捕まれた手首を強く握られ、少女は顔を歪めた。
その表情にハッとして少年は慌てて少女の拘束を緩める。

「…だってさ、納得いかないよ。君は君の言い分だけ言って出て行こうとしてるんだ。ボクの気持ちは聞いてないじゃないか」

「ばってん、あんたやってあたしがおらん方が良かやろ!?」

「そんな訳ないだろ!」

「そげな訳あるったい!」

興奮して怒鳴り合う少年と少女。
二人して目を怒らせていたが、少年の方が怒りが治まるのが早かったらしい。
ふっと息をついて少女を呼ぶ。

「…天使さんはさ、どうしてボクが天使さんが居ない方が良いって思うの?」

「…………あたしは、あんたのキッチンば爆破するし、朝ご飯も作ってあげられん。いつも、家事はあんたが全部やって、あたしは何の役にもたっとらん」

どうやら少女は拗ねているらしい。
頬を膨らませ、ぷいとそっぽを向いて不満を漏らす。

「朝食作りを禁止したのは天使さんに怪我をして欲しくないからで…」

少女が出ていくと言い出したのは(少年からしてみればとても可愛い)拗ねた気持ちから来る物だった。
少女を宥めようと口を開いて言葉を発する少年を少女が遮る。

「それだけやなか!!あんたが使っとったベッドばあたしが使って、あんたが床に毛布ば引いて寝とるのもあたしは納得がいかんとよ!あたしはあんたに迷惑ば掛けたいんじゃなかとーっ!」

半ば叫ぶ形で少女は溜まりに溜まった不満を爆発させた。
ぜーっはーっと荒い息を吐く少女とは正反対に少年はきょとんとした顔でぱちぱちと両目を瞬かせている。
目まぐるしく回る展開に脳の処理が追いついた頃、少年は呟いた。

「つまり、ボクと一緒に寝たい、と」

「違か!!」

全力で否定され、少年は傷付いた。
そんなに全否定しなくても。
少女の赤い顔が怒りに染まった顔でなく、照れや羞恥心であると願って止まない。
もしもそうであるのなら救われる気がする。

「もう話にならん!とにかくあたしは出ていくけ。お世話になりましたっ!」

「ちょっと待ってよ!天使さん!」

少年を振り払い、箒を手にして玄関の扉を開いて外へと飛び出した少女は柔らかい何かにぶつかった。

「っぶ!」

「…っと。いきなり何だい?」

顔を上げると艶のある黒髪を短く切り揃えた女性が立っていた。

綺麗な人ったい…。

見惚れていると少女の後ろから少年の驚いた声が響いた。

「カガリさん!?」

その声で我に返り、少女は慌ててカガリから離れる。
自分が飛び込んだのがカガリの胸である事に気付いて顔を真っ赤にさせると勢いよく頭を下げた。

「す、すす、すまんち!」

「ん?ああ、気にしなくて良いよ。それよりも顔を上げな」

カガリはたいして気にした様子もなく少女に笑い掛けた。
綺麗だけでなく、快活さが垣間見える笑みはどこか妖しげで妖艶だ。
見る人が見れば魅力的なその笑みを直視した少女もカガリの笑みに魅了された。
自分の魅力を十二分に理解しているカガリは自分に見惚れている少女の頭をくしゃりと撫で、少女の後ろで不機嫌そうに眉を顰める少年に顔を向けた。

「ー…ところで何だって二人は外にまで聞こえる大喧嘩を繰り広げていたんだい?」




「ー…つまり、そこの小娘がルビーに対して不満があってそれを聞き入れないから出ていく事になった、と」

お客であるカガリをリビングに通し、紅茶を煎れて最低限のもてなしをして、喧嘩の内容を話す。
二人の話を聞いたカガリが話の内容を纏めて確認すると少年と少女は大きく頷いた。

どうって事はない。
ただの痴話喧嘩だ。

カガリはそう思ったが、当人達は否定するだろうし、彼等にとっては重要問題なのだろうからと息をついて、このすれ違いを何とかしてやろうと一肌脱ぐ事を決意した。

「小娘はルビーに迷惑を掛けたくない。ルビーは小娘に危ない目に遭って欲しくない。そうだろう?」

「そうったい」

「はい」

「なら、話は簡単だ。まず小娘から聞いておくが、どうして自分が迷惑を掛けていると思うんだ?」

カガリが聞くと少女は真剣な表情で話し出した。

「あたしはこん人の家に住まわせて貰っとる居候やけ。せやから家事ば手伝うのも当たり前やと思うと」

そこで一端区切ると少女は少年を恨めしげに睨みつける。

「ばってん、こん人はあたしに何もさせんで「天使さんは座っててね、大丈夫だから」っち言いよるし、それだけやなくて、ベッドばあたしに譲って自分は床に寝るし、ご飯作りも洗い物も全部自分一人でやって…っ、あたしは一体何の為におると!?こげな迷惑ば掛けるぐらいならこん家ば出てった方がマシったい!!」

努めて冷静でいようとした少女の努力は虚しく、説明していく内に今まであった事を思い出したのか、ふつふつと怒りが込み上げてきた声は震えていた。
一気にまくし立て、少女は肩を怒らせる。
ふーっふーっと鼻息が荒くなる少女をカガリはじっと見つめてから少年に視線を移した。
少年の表情は複雑で、様々な感情が入り乱れている。

こんな表情をするようになるとはな。

出会った頃の少年の能面な表情を思い浮かべたカガリは少年の変化に心の中でほくそ笑む。

「自分がルビーの負担にしかなっていないと思うから、負担になるくらいなら家を出て行きたい訳か」

「そうと!」

興奮状態で頷く少女に苦笑を零す。
まぁ、確かにそうなる気持ちも分かる。
過保護過ぎる少年は少女の事を大切にしたいだけで、自分よりも少女を優先しているのだろうが、それが少女にとって大きな負担なのだろう。
何もしないで自分の為に動いているのを見るのも、自分ばかりを優先する姿を見るのもどちらも快いとは言えない。
もう少し自分に頼って欲しいとも、あまり無理をしないで欲しいとも思う少女の心も痛い程良く分かる。
それでいて、少年が少女を誰よりも優先させる気持ちも分かるのだ。
何せ、少年にとってこの少女は世界そのものと言っても申し分のない存在なのだから。

「それでルビーは?あんたはどうして小娘に危ない目に遭って欲しくないんだ?」

「……ボクは、」

今まで黙ってカガリと少女のやり取りを見ていた少年はカガリに問われ、ゆっくりと口を開いた。

「天使さんに、怪我をして欲しくないんだ。女の子に傷の一つも付けたくない。付けて欲しくない」

強い眼差しでカガリを見据える少年にうっすらと微笑み、カガリは頬杖をついた。

「百歩譲って洗い物と料理は良しとしよう。だが、床に毛布を引いて寝るのが怪我をする事に繋がるとは到底思えないね」

「………ボクは、大切にしたいんですよ。どんな事よりも、誰よりも天使さんを一番大切にしたいんです。水仕事は手が荒れてしまうし、料理は刃物や火を扱うから危険だ。布団や洗濯物を干すのだって重いし、ベランダから落ちたら大変だ。床は固いから床で寝たら体を痛める。けど、ベッドだったら柔らかいから体を痛める事もない」

すらすらと自分の意見を主張して少年は苦笑する。

分かっている。
天使さんの事を優先すればする程に彼女が悩んでいた事を。
けれど、それでも彼女に苦労も怪我もさせたくない。
自分のこの気持ちがエゴイズムである事を知っている。

それでも少年は自分の主張を貫いた。

「…そうかい…」

少年が語らない部分まで正確に見抜いたカガリは双眸を細めると妖しく微笑った。
一方、少年の想いの丈を知った少女は絶句して口をぱくぱくさせながら少年を見つめている。
大きな藍色の瞳は丸くなり、柔らかそうな頬にはうっすらと赤みが差していた。
その少女の様子を盗み見たカガリは笑みを深めて立ち上がった。

「これでお互いの気持ちは分かっただろう。後はどう折り合いをつけるか、だ」

ちょっと待ってな。
カガリはそう言うと少年と少女が引き留めるよりも早く、家から出て行った。


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