呼びたくて、呼べなくて


此処は……静かで良い。

午後の書庫は、訪れる者も少ない。そして、少し入り組んだ作りになっている為に、窓際の一番奥は穴場だった。
棚に並んだ書物も、皆が興味を持つ様な物でもなく、もう何年開かれていないだろうかと……俺も眺めるだけだ。

カーテン越の柔らかな光の中で、今日やる事は済ませた……と、俺は目を閉じた。

執務室に居れば、大概何やら飛び込んで来る。たまにはこんな風にサボるのも悪くねぇだろう……

そして、楽しみもある。

パタンと遠くでドアの閉まる音がして、小さな足音が行き来する。暫くして、他に足音の無い時は……歌声が聞こえてくるのだ。

異動でハンジのところに来たばかりのナマエは、資料整理を担当している。兵士としての腕は何とも言い難いが、記憶力は群を抜いて良いとの噂で、この仕事はその才能を存分に活かせる場であると、ハンジが絶賛していた。

歌声が近付いて来て、俺は寝た振りをした。棚の端から覗いているのだろうか、歌声が止み、気配が暫く動かねぇなと思っていると、控えめな足音が去った。

バレちまったか……

次からは警戒されるだろうかと、少し残念な気分になったが、ドアの閉まる音と、無くなっちまった足音を確認して、俺はゆっくりと立ち上がり書庫を後にした。




み、見てしまった……

そっと書庫を出た私は、心臓が壊れるかと思うくらいにドキドキしている。

書庫の管理を任されて1ヶ月、普段行かない奥まで探検しようと思って進むと、一番奥に……兵長が居た。

柔らかな光の中で眠っている様で、とても綺麗な絵のようにも見えて、息をするのも忘れそうな程に見とれてしまった。

覗いていたとバレてしまうのはまずい……そう思って、足音を忍ばせて書庫から逃げ出した。

話をした事すらない、雲の上の人。皆が憧れたり恋をするのも、納得出来る。

「はあぁ……」

思わず、大きな溜め息を吐いてしまった。
同期の娘や先輩が、私じゃ相手にもされないだろうと言うのに、私はもっとダメだろう。きっと名前も知らない、いや、存在すら知らないかもしれない。

そ、それはないかな。この間分隊長の執務室で会ったし……

何故か、兵長はハンジ分隊長とよく話している。

ま、まあ、最低限存在くらいは知っている……そう思いたい。

そこで私は思い付いた。

何も無く、平凡な人生……手柄を立てるなんて事も出来そうに無い。それなら、ひとつくらい楽しい事を……巨人のお腹の中に持って行きたいなと思った。

きっといつか、どう頑張っても、食べられちゃうんだから……




書庫から、特に表立って用事もねぇが、ハンジの執務室へ行った。
ナマエはまだ戻ってねぇ様で、モブリットに茶を出して貰い……寛いでいた。

「何しに来たのさ……」
「……」
「此処は休憩所じゃないんだけどなぁ?」
「今日提出の予算案、出来てるのか?」
「げっ、何それ」
「書けるまで見張りに来た……とでも言っておこう」

バサバサと書類を引っ掻き回し、引き出しをまさぐり、「そんなの無いよ! 無いっ!」と叫んでいるのを横目で見ていた。

「只今戻りました」

半狂乱……といった状態のところへ戻って来たナマエは、入口で固まってしまった。

「ナマエっ、予算案の書類が無いのっ!」
「左の引き出しの一番下、上から5枚目……です」
「え? 下の5枚目? ……あ、あった!」

そこは探してなかったなぁ……と、頭をバリバリ掻きながら、机の上の書類を追いやり、ハンジは書き始めた。




戻ると何故か兵長が居て、実はバレていて叱られるのかと……私は固まった。

でも、分隊長の様子を見て、予算案の書類と言われて咄嗟に答えた。
これは無くしちゃいけないから、と、一緒に仕舞った筈なのだけど、そういう事は忘れてしまう人だと、モブリットさんが言っていたのを思い出した。

兵長……は……

この騒ぎにも、全く動じない。

「ヤバい、これ資料無いと書けないじゃん……」
「ど、どうぞ」
「えっ? これ、用意しといてくれたの?」
「はい、資料を戻した時に……締切なので必要かと思って」
「うん、必要! 助かった! ありがとう」
「いえ、良かったです」
「これが無かったら、リヴァイが居座る」

人聞きの悪い事を言うなと言いながら、兵長は紅茶を飲んでいた。
ソファーに座る後ろ姿を暫く見て、私は隣の部屋の資料の整理に向かった。

……兵長に名前を呼んで貰いたい。

仕事の事で構わない、私の名前なんてきっと覚えていないだろうから。恋なんておこがましい……そう思いつつ、でも、名前を覚えてもらうのだ! と、目標をたてた。




書類のありかに資料、先を読んで行動出来るのは良いなと思った。

そんな出来事もあってか、見掛けると時々資料を頼むようになったのだが……

「オイ、この資料が欲しいんだが、あるか?」
「はい、すぐ持って来ます」

またある時は……

「あぁ、お前今時間あるか? 馬に関する資料が欲しい、急ぎなんだ」
「お部屋までお持ちします」

そして今日も……

「なぁ、この資料の前のヤツあるか?」
「はい、すぐに……」

書庫に行く度、会う度に声を掛ける事は出来るのだが、何故だろうか……他の奴みたいに名前で呼べずにいた。




最近、兵長によく頼まれる。これは凄い事だと思ったけれど、兵長に名前を呼んで貰う……という、決して高望みではないと思っていた夢は叶っていない。

「オイ」「お前」「なぁ」「ちょっといいか」呼び掛けられる言葉は増えていくのに、あまり接点の無い兵士も名前で呼ぶ事が多いから、叶うと思ったのに……

そんな事を考えながら、最近兵長は書庫で寝ている事は無かったので、気にしないで歌いながら資料を整理した。

そうだ、少しサボっちゃお……

兵長が気持ち良さそうに寝ていた、あの場所に少し座ってみたいと思った私は奥へと進んだ。

……えっ?

最近はいつ見ても居なかったのに……何度も見た光景がそこにはあった。

ゆ、油断した……

何度も見ているけれど、何も言われた事が無い。それはきっと寝ていたわからないからだと思って、近付いた。

「王子様みたい……睫毛長いなぁ……」

思わず声に出してしまう程、綺麗な顔だと思った。

「笑った顔……見てみたいな」

ふふっと笑うと、パチリと目が開いた。

一瞬、何が起こったかわからなかった。けれども、綺麗な瞳に私が映っているのを見て、理解した。

「すすすす、すみません!」
「俺が笑うとな、皆が笑うなと言うが……それでも見たいか?」
「へ?」

慌てて逃げようとして、足がもつれて床に転がっていた私に兵長が言った。
思わず、変な声が出てしまって……私は固まった。




寝た振りをしていれば、すぐに居なくなる……いつもならそうだが、気配が近寄った。

……?

「王子様みたい……睫毛長いなぁ……」

あ?

「笑った顔……見てみたいな」

……見せたくねぇよ。

ここで目を開けたら、どんな反応をするのだろうかと……興味が勝った。
酷く驚いた様だが、派手な音を立てて転んじまった。

「起きられるか?」
「……腰抜けちゃいました。すみません、起こしてしまって。私の事は良いですから……」

あたふたと話すナマエを、俺は拾って膝に乗せた。

「痛むところはねぇか?」
「……」
「どこか打ってねぇか?」
「……」
「ナマエ……大丈夫なのか?」

膝の上で丸まって震えている……まるでウサギか何かだなと思いながら声を掛けたが、返事がねぇ……

「オイ……」

覗き込んで顔を見ると、真っ赤になって目には涙を溜め、歯を食いしばる様な面だった。

「痛む……のか?」

そんなに辛いのかと、下になっていた肩や尻の辺りを擦ってやったが、それでも何も言わねぇ。

救護室に連れて行くぞと言うと、慌てて暴れて……顔から落ちた。

「だ、大丈夫……です」

だが、今度は明らかに鈍い音がした。

「何してるんだ……」

額を押さえたまま、顔を上げないナマエの横に膝を着くと、後退り、追えばまた、後退った。

「見せてみろ……」

イヤイヤと首を振るが、手を掴んで額から離せば、見事に腫れていた。

「暴れたりするからだ」

そのまま押さえてろと言って抱き上げ、問答無用で救護室に連れて行った。




救護室で診て貰ったけれど、冷やしておくくらいしかないと言われた。そこで解放されるかと思ったのだけれど……何故か兵長に抱えられたまま、兵長の執務室に連れて行かれた。

ソファーに置かれ、紅茶を出され……兵長は黙って隣に座っている。

「俺が……怖いのか?」

……?

「だから、逃げようとして転んだか?」
「……」
「嫌で……暴れたのか?」

段々と声が小さくなっていく様で、私は顔を上げた。

「違います……」
「なら……」
「寝てるのを邪魔してしまって、申し訳ないのと恥ずかしくて逃げようと……」

そこから、勝手に名前を呼んで貰いたいと思っていた事も話し、自分の名前なんて覚えていないのだろうと思っていたのに、名前を呼ばれて動転していたのだと説明した。

「勝手に……すみません。へ、変な意味では無いです。他の人は名前で呼ぶので、私も覚えてもらえたらと思っただけですから」
「悪かった……」
「そ、そんな……」
「名前は、異動になった時には知っていた。覚えている。だが、何故か呼べなかった」
「……?」
「それが何故だかわかった」

少し俯いてしまった兵長を見ていて、申し訳なくて、私もまた下を向いた。




俺は、呼ぶのが恥ずかしかっただけだったのだ。

「他の奴等の様に、気軽に呼べなかったのは、意識し過ぎていたんだ」
「えっ?」
「書庫では、いつも寝た振りをしていた。何を話せば良いかわからなかった」

驚いた顔のナマエから目を逸らし、俺は続けた。

「歌が……聞こえていた。それをいつも聞いていた。だが、俺を見つけると逃げちまう。ハンジのところへ行っても、声を掛けられる様になっても、用件だけでいなくなっちまう……」

だから、呼びたくても呼べなくなっちまったんだと話すと、困った様に笑っていた。

「私は、ダメな兵士だから、こんな風にお話する事も出来ないと思ってました」
「そんな事ねぇ……」

それから、互いに思っていた事などを話した。
俺の気持ちが何なのか、まだわからねぇ。
ナマエは、叶っちまったら食われるつもりかと訊けば、その先はまだ考えてないと言った。




「ナマエ……こんな所で寝てると、襲われるぞ」

俺に……な。

夕暮れの書庫で資料に囲まれて寝ているのを見て、俺は答えを見つけた。

目を覚ましたら何と言おう……

俺は自分が笑っているとも知らず、ナマエが寝た振りをしているとも知らずに、ナマエの髪を撫でていた。

End



[ *前 ]|[ 次# ]

[ request ]|[ main ]|[ TOP ]


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -