お前がそっと耳を塞ぐ


形振り構わず生きるって事は、周りの事までは構ってらんねぇって事だったんだと、此処に来て思った。

変人の巣窟とも呼ばれる調査兵団の中でも、俺はかなりの変人……というよりも、異質なんだろう。

人の目に曝される事も苦手だが、人を見てあれこれ判断しなきゃならねぇ兵士長なんてものは、厄介だ。だからこうして時折、ひとりになりたくて木の上に身を隠すなんて事もある。

此処は滅多に人の来ない絶好の場所なんだが、人の気配が近づいた……

こんな所まで探しに来やがったか?

そう思いながらも、見つかってやるつもりはない。気配を殺し、様子を窺う……が、現れたのはキョロキョロと辺りを見回し、挙動不審としか言えない状態のナマエだった。

アイツは何を……してるんだ?

曲がって来た建物の陰から、追手が来ないか見ている様にも思える。来ない事を確認したのか、胸に手を当てて安堵の表情で振り向いた。俺には気付いていない様だ。

一体、何事なのだろうか。班長を務め、人望もある。性格は温和で美人だ。
そんな奴のこの状態は何を意味するのか?

再度キョロキョロと周りを見たナマエは俺の真下にやって来て、木に片手を着いて俯いた。まだ気付かれてはいない。

その直後、有り得ない……訳では無いが、何とも間抜けな音が聞こえた。

へっ? ……いや、屁か?

危うく木から落ちそうになったが堪えた。俺は今、とんでもないものを見……いや、聞いちまった。

来た方へと走って戻って行くナマエの後ろ姿を、俺は呆然と見送った。

たかが屁くらいであそこまで警戒するなど……そう思ったが、音量がそうさせるのだろうと納得出来る程に、派手な音だった。
俺でも、人前でアレをかましたら……流石にどうしていいかわからねぇだろう。しかも、ナマエは女だ。そんな事になったら兵士を辞めてまで逃げそうだ。

「それは……困るな……」

最近やっと話すまでになったのだが、俺はナマエに惚れている。
惚れた女が目の前で屁をしたら、百年の恋も醒めると誰かが言っていたが、それはあれだろう……恥じらいも無く、という事だろう。あそこまで恥じらう姿に俺は、秘密を握った様な不思議な高揚感に胸が熱くなっていた。




それから、訓練の時など時々忽然と消えていた事を思い出した俺は、今まで以上にナマエを見ていた。

今日は訓練も無く、机で書類と格闘していたが、やる事はやるが好きでは無い。他に誰も居ない執務室でいくらサボろうが咎められる事も無い。

気分転換にコーヒーでも飲むか……と、部屋を出ると、書類を持って青い顔をしたナマエが目の前に居た。

「急ぎの書類を……」

持っている手が震えている。

「俺にか?」
「はい……」

腹の辺りに手をやったのを見て、俺は部屋に引き入れた。

「い、行かないと……あの……」
「我慢してるんだろう?」
「え、な、何を」

何をと言われて、言っていいもんかと俺も困った。

「我慢するな、俺がした事にすればいい」
「そんな……知って……?」

狼狽えるナマエの両手を掴んで俺の耳に当てた。

「さっさと楽になっちまえ」

なんの意味があるかはわからねぇが、ナマエに「やれ」と言って俺はナマエの耳を押さえた。
覚悟を決めたのか、限界だったのか、俺の耳に当てる手の力が強くなり、それでもどうしたって聞こえちまう音が響いた。

「もう、お嫁に行けない……」

その場に座り込んだナマエはそう言って、ポロポロと涙を溢して泣き出した。

「大丈夫だ、誰にも言わねぇ。だが、もしそうなったら責任取って俺が貰ってやる。だから、泣くな」

驚いた顔で見上げられたが、「もしもの話だ」そう言って頭を撫でてやった。




世界で一番したくないと思っていた相手の前で……「やれ」と言われてオナラをするなんて、もう、世界が滅んで欲しいと願ってしまった。

『俺が貰ってやる』

兵長はとんでもない事を言った。でも、それは「もしもの話」で……きっと慰めてくれたのだろうと思うと、余計に悲しくなった。

これじゃもう、告白すら出来ない。

差し出されたハンカチを借りて、色んな感情がごちゃ混ぜの涙を拭いた。
兵長はそれ以上何も言わず、私が持って来た書類を書いてくれていた。

「落ち着いたか?」

ぐるぐると回る思考に振り回されていた私は、兵長が席を立ったのはわかったけれど、テーブルにカップを置く音でお茶を淹れてくれたのがわかった。

「いつまでもそんなとこに座ってねぇで、これでも飲め」
「す、すみません……」
「いや、俺も悪かった……」
「いえ、た、助かりました」

会話はそれだけで、ソファーに向かい合い、黙って紅茶を飲んだ。




「悪いが、これもついでに持って行ってくれ」

書き上がった書類と一緒に他の書類も頼んだ。行き先は同じだ、問題は無いだろう。

「この近くで困ったら、此処に来い」
「そ、そんな事……」

出来ません! と、キッパリと言われたのはまぁ、当たり前だろうと思ったが、逃げ場があってもいいんじゃないかとも思った。

「事情がわかってるんだ、我慢するよりはいいだろう?」
「そ……れは、そうですが……」
「本当に嫁に行けなくなるぞ?」
「わ、わかりました。その時はお願いします」

取り敢えずそう言っておけば解放されると思ったのだろう、酷く困った顔でそう言って、ナマエはあたふたと去って行った。
まぁ、当然なのかも知れねぇが、それから1ヶ月経ってもナマエが此処へ飛び込んで来る様な事は無かった。




訓練は俺の班は人数が少ないため、他の班と合同でやる事も多い。今日は久し振りにナマエの班と対人格闘をやっていた。そんな時は俺とナマエが組む事が多く、俺は密かに楽しみでもある。

「始めるか」
「はい、お願いします」

他の奴等からは少し離れているが、なるべく小さな声で悪いところを指摘しながら訓練していたが、急に動きの悪くなったナマエに『まさか 』と思ったが、どうやらその様で、端から見ればやってはいる様に見えるだろうが、軽く流していた。

「おい……」

目を潤ませて頷いた。
こんな場面じゃ無ければと思っちまう表情だが、此処でやらかしたら……そう思いながらナマエを見た。

「仕方ねぇ、俺がお前を投げる。持ち上げる瞬間にぶっ放せ」
「……?!」
「それが一番誤魔化しが利く、行くぞ」

顔面蒼白、目が泳いでしまっている……が、迷っている場合じゃねぇ。

「ほら、今だ」

グッと力を入れて背負い投げる体勢でナマエの足が地面から離れた瞬間、豪快に音が響いた。

班員達が皆……揃って此方を見ている。
俺は皆の方を向き、頬を指で掻きながら……「すまねぇ」そう言えば、大爆笑だったが、誰もナマエがやったとは思わねぇだろう。

「へ、兵長……」

あぁ、この世の終わりみてぇな顔してやがる……

「大丈夫だったろう?」

手を伸ばして立たせてやったが、よろけて胸に倒れ込んで来た。

「どうした……?」
「すみません、足が……」

あの状態では受身も上手く取れなかったか。

「時間になったら上がれ!」

俺はナマエを抱き上げ、救護室へと向かった。

「あ、歩きます……」
「悪化したら面倒だろう?」
「さっきは……あ、ありがとうございました」

両手で顔を覆って恥じらう姿に、俺はナマエを抱え直した。

「気にするな、相手が俺で良かったな」
「でも、兵長が」
「俺は男だからな、別に気にもならねぇし、他の噂の方が酷ぇよ……」

だろう? と、軽く言えば、そっと手をずらして俺を見た。

「気に病むな。だが、その顔は悪くねぇな……」

するとまた、顔を覆った手にクッと笑いを溢せば驚いた顔を見せた。

「何だ? 俺だって笑う事くらいあるぞ……」

意外と変わる表情に、少しは気を許してくれたのかと嬉しくなった。
調査前の凛とした表情や、訓練の時の必死な顔……俺には見せない仲間との笑顔。今のナマエはそのどれとも違う、見た事の無いものばかりだ。

救護室で診て貰ったが、片足を捻挫していた。次の調査には影響は無いだろうと言われたのだが、数日は痛むだろうとの事だった。

「すまねぇな……手加減はしたんだが」
「私が悪いので、兵長は気にしないでください。もっと……大変な事になっていたかも知れないので……」

部屋まで送ると、コーヒーを淹れてくれた。
真っ赤な顔をして困っているナマエは悪くない。見つめていると、更に困った顔になったのを、また、見ていた。

「お前と居ると楽しいな……」
「えっ?」
「いや、気にするな」

コーヒーを飲み干し、いつまでも居ても悪いだろうと立ち上がろうとすると、ナマエが何か言いたそうに俺を見た。

「どうかしたか?」
「兵長は……こんな女はどう思いますか?」
「こんな……?」
「いえ……あの、やっぱりいいです」
「俺は……好きだぞ、お前が……」

寂しそうに笑ったナマエに俺は言った。

「だから、何としてでも助けてやろうと思った。こんな男はどうなんだろうな?」
「凄く素敵です……私は大好きです」

今までで一番恥ずかしそうにしているナマエに俺も何だか恥ずかしくなって、誤魔化す様に抱き締めた。




それから、付き合う様になった。

色々と調べて、ナマエの困った顔を見る回数は減ったが、時折、急に俺の耳を塞いで困った顔をする。
そんな事をしても、聞こえてしまうのだが、それでもそうやって恥じらう姿は悪くない。

ずっと……そうやって可愛く居てくれ……と、俺は願った。

End


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