ずぶ濡れで去っていく背中を見送った私は、急いで中に入った。 「お、お父さん……あのね……」 昨日の出来事と今の事、そして、お詫びにと明日来て貰う事になったのだと、父に話した。 「イイ男だったか?」 「え? うん、凄く良い人だと思うよ?」 「そうじゃねぇ……」 「ん?」 「お前に男のひとりも居ねぇのは、その歳で問題があるだろうと思うんだが」 「だ、だからってね……昨日会ったばかりだし、迷惑ばかりで……って、私の話ちゃんと聞いてた?」 「聞いてたぞ? だから、イイ話なんじゃねぇかと思ったんだが」 どこがだと呆れて見れば、父は笑っている。 「考えてもみろ、普通そんな事が有れば関わらねぇ様にと考えるもんだろう? 詫びに行くなら未だしも、来てくれって何だそりゃ」 「あー、ほんとだ。何やってるんだろう……」 「でも、お前はそうしてでも、また会いたかったんだろう? そうでなけりゃ気まずいなんてもんじゃねぇと思うぞ」 「た、確かに……」 普通に考えれば、怒って私の顔を見るのも嫌だと思うに違いない。でも、怒りもしないで来てくれると約束をした。それはとても嬉しかった。 「明日のメニューでも考えておけ」 「うん。でも……何でお父さんが嬉しそうなの?」 「わからねぇか? そろそろ子守も疲れたんでな、親離れのいい機会だろう?」 「子守……って、小さい子じゃあるまいし……」 「親から見りゃ、幾つになろうが子供は子供だ。母さんも、心配してると思うぞ」 幼い頃に、病気で母は亡くなった。丁度その頃、足を痛めた父は兵士を辞めて私を育ててくれた。 親離れ……かぁ。 お父さんをひとりにしてしまうのは、きっと寂しいだろうと思っていたけれど、それは恋人すら居ない私が寂しかっただけなのかも知れない。 何故か、明日は頑張るぞ……という、よくわからない気合いが入った。 ……終わらねぇ。 時計と書類を往復する目は、そんな事をしているから余計に捗らねぇんだと思ったところで、その動きは変わらなかった。 終業間際に飛び込んできた兵士は、今日が期限の書類を持っていた。 何故、こんな日に限って…… そう思ったところで、書かなくて良いという事にはならねぇ。仕方無く書いてはいるが、なかなか終わらなかった。 時間も何も決めちゃいねぇし、店は深夜までやっているだろう酒場だったが、待ってるんじゃねぇかと思うと、気ばかりが焦った。 よし、これで終わりだ。 終業から3時間、やっとの事で終えた俺は書類を出すと、着替えて街へ出た。途中、閉めようとしていた店に飛び込んで買い物を済ませた俺は、走った。 店の前に立ったが、ドアが開けられない。詫びてもらいに来たと言えば良いのか、どの面下げてと思うと……どうして良いかわからなくなっちまった。 「あ……良かった。来て下さらないかと思いました」 ドアからひょっこりと顔を出したナマエは、そう言って微笑んでくれた。 「約束したが、仕事が遅くなっちまって」 何故、言い訳してるのかと思ったが、「どうぞ」と言われて付いて入った。 思ったよりも人が多い店の奥の、"予約席"と書かれた場所に案内された。 「お酒は何がお好きですか?」 「何でも飲むが、任せる」 「はい、少々お待ち下さい」 そう言っている間にも、客や親父から呼ばれ、そう広くはないが店の中をナマエは走り回っていた。 「お待たせしました!」 酒と少し大きな皿を持って来たが、「頑張ったんですよ」と出された料理に、俺は一瞬顔をひきつらせた。 「お嫌い……でしたか?」 「いや、立派な魚だと思っただけだ」 「ありがとうございます」 にこやかに離れたナマエを見てホッとしたが……目の前に置かれた魚に困った。身を崩さずに煮てある、それは悪くない。姿煮というやつだが…… っ、こっち見んな…… 魚に、食えるのか? と、笑われている気がした。そう……俺は魚が苦手だ。だが、良い歳でそんな事を言ってられねぇ。先ずは……と、酒を一口飲んだ。 かなり……上等な酒じゃねぇか。 気持ちが上向いた俺は、そのまま魚にも手を付けたが、苦手な魚臭さが無く美味いと思った。 「少し落ち着け」 「でも……」 「時間も決めてねぇんだろう?」 「……うん」 「仕事が何かも聞いてねぇんだろう?」 「うん、何も知らない」 店を開けてから、何度も外を覗いていた私に、父が呆れて声を掛けた。 「それなら、待つしかねぇだろうが」 「来なかったら……」 「その時はその時だろう? 来る方も来づらいかも知れねぇしなぁ。ほら、上がったぞ、客が待ってる……」 「はい」 出来上がった料理や酒を運びながら、それでも時々ドアの開く音に即反応したり、外を覗いたりしていた。 何度そうしてがっかりしたか……それでも、諦めきれない私はまたドアを開けてみた。 リヴァイさん…… ドアからは少し離れた所に、リヴァイさんが立っていた。父が言う通り、来づらかったのかも知れない。 入って貰い、お酒と料理を出した。とても協力的な父が用意してくれた、大きな魚を丁寧に慎重に煮た物を出すと、少し嫌な顔をした様にも見えたけれど、気のせいだったみたいで、接客をしながら見ていると、食べてくれていた。 一緒に食べたかったなぁ…… 休みの日にすれば良かったと思ったけれど、咄嗟にそんな事は思い付かなかった。それでも、グラスが空になると新しい物を持って行き、料理も出した。 よく動くな…… 親父と二人らしいが、それにしては客も多い。だが、不満そうにする客は居ない。それどころか、頼んでもねぇのに俺のグラスまで見ていて、空にしちまうと新しいものを出された。 どこまで甘えて良いものか、わからない。なるべくゆっくりと飲んではいたが、旨い酒は飲みたくなるというものだ。 「まだ、お代わり沢山ありますから、飲んで下さいね」 「あ、あぁ……」 だが、たかが水をぶっ掛けられただけの事で、そこまでして貰うのも気が引ける。 金は要らねぇと言われたら、最初の1杯と魚だけで、後は払うか…… そうでも思わねぇと居心地が悪いと思うくらいに酒も料理も上等なものだ。 来たのも遅かったが、ゆっくりと飲んでいると、客も疎らになって来た。俺は最後まで残って……少しでも話がしたいと思って待っていた。 あと、二組か…… そう思って見ていると、酒と料理を持ったナマエが出て来た。俺の方へ来るのだろうと見ていたのだが、客の居るテーブルの横を通った時、酔った女が急に立ち上がった。 ナマエの持ったトレーが跳ね上げられ、俺の方に乗っていた物が飛んで来るのが見えたが、咄嗟に立ち上がり、グラスと器を取ろうという頭しか無かった。 「リヴァイさん! 避けてっ!」 その声が届いた時には、俺は確りとグラスと器を掴んでいたが……まさか、器の中味がスープだとは思わなかった。 ……熱いじゃねぇか! 頭から被ったのは酒だけで済んだが、スープは肩から胸にかけてたっぷりと服か飲んだ。 「リヴァイさんっ!」 駆け寄ってきたナマエが持っていた物を取り上げると、「2階に行け!」と、声が聞こえた。呆然としていた俺の手を引いて、ナマエが2階へと向かった。 「何処に……」 「取り敢えず、流さないと……」 どうやら、2階は部屋になっているらしく、浴室に押し込まれた。タオルはそこにあるのを使えと言われ、洗って冷やしてくれと言ってナマエは何処かへ行った様だった。 ああぁ……最悪だ…… リヴァイさんを浴室に押し込んで1階に降りると、さっき立ち上がった女性が心配そうに私を見た。 「大丈夫ですよ」 本当はどうかなんてわからないけれど、私はそう言って父を見た。動揺しているのがわかるのか、怒りも呆れもしないで父は優しい声で言った。 「服は新しいのを出してやれ、火傷の薬は薬箱にある。今日はもう店仕舞いだから、付いていてやると良い」 「ありがとう……」 酔っ払って泊まる人も居るから、着替え用に服も安物だけど売ったりする。その中から、サイズの近そうな物を選び、薬箱を持ってまた2階に戻った。 「どうしよう……」 お詫びのつもりが、また……今度はお酒とスープをかけてしまった。最悪なんてものじゃないだろうなと思ったら、涙が出て来た。 今まで、こんな失敗をした事は無かった。それが3日続けてなんて……もう、次も失敗するとしか思えない。 なんて、謝れば良いんだろう…… 流石に優しそうなリヴァイさんでも、これは怒って当たり前だろう。態々来てもらってこんな事になるなんて、リヴァイさんにも、父にも申し訳なく思った。 火傷にはなってない様だが、肩の辺りは赤くなっていた。 「また、謝られちまうんだろうな……」 避けようと思えば、簡単だった筈だ。だが、食器を壊せばナマエが叱られるんじゃねぇかと思うと、頭に煮魚が乗る程度なら良いかと思ったんだが、まさかスープだとは思わなかった俺の落ち度だろう。 あまり長く入っていても心配するだけだろうと、手早く洗って出ると、新しい服も用意されていたのだが…… 「すまねぇが、下着は置いてねぇか?」 顔だけ出してそう言えば、「あります!」と、ナマエはまた走って行った。 ……あるのか。 ドアを開けてよく見れば、宿になっているのかと納得した。 「すみません、お待たせしました」 「あぁ、助かった」 今度は片手だけ出して受け取り、急いで着替えた。 「火傷は……」 「少し赤くなった程度で、何ともねぇ。そんな顔をしないでくれ」 「でも、こんな……お詫びだったのに、また……」 「今度は、俺が勝手に浴びただけだ」 「そんな事……」 「お前が悪いわけじゃねぇ、どれも事故だろう?」 俯いて顔を手で覆っちまったのを見て、俺は胸が痛んだ。 来れば少しはナマエの気も晴れるかと、笑ってくれるんじゃねぇかと思っていたが、俺には人を笑わせる事なんて出来ねぇ様だ。 「かえって、悪い事をしちまったな……」 少し包みが汚れちまったが、俺は来る前に買った物をそっとナマエの膝に置いた。 汚れた服を持って部屋を出て、下に降りると親父が立っていた。 「かえって、すまねぇ事をした……酒と食事と着替えの分で、幾らになる?」 「事情は聞いている、金は貰えねぇ」 「だが……」 「どうしてもと言うなら、泊まっていってくれ」 ……何故、そうなる? 言葉も出ずにポカンと口を開けていた俺を見て、親父は頭を掻いた。 「男っ気のねぇ娘が、 悪い事をしちまったと言いながらも、嬉しそうにしていたんだ。このまま返しちまったら、アイツに恨まれちまう」 「得体の知れねぇ男に、娘を任せるのか?」 「娘はわからねぇだろうが、リヴァイという名は他に聞いた事がねぇ。調査兵団の兵士長……だろう? 俺も昔は兵士だったから、未だにその辺りの情報は入って来るんだ……」 親父は少し足を引きずって見せ、これが無きゃ……と、悲しそうな顔をした。 「俺を知っていて言うのも、不思議だがな」 「過去は、誰にでもあるだろう?」 娘に少しでも興味があるなら、残ってくれと言われた俺は、「多分、惚れちまった」そう言って階段を数段昇ったが、振り返って親父を見た。 「止めねぇのか?」 「もう、ガキじゃねぇだろう? だが、泣かせるつもりなら止めてやる」 「もう、泣かしちまったが……」 「そりゃ、アイツが勝手に泣いたんだろう? カウントにゃ入らねぇよ」 クッと笑った親父に、「俺は笑顔が見てぇだけだ」と言えば、「朝食を用意しといてやる」と言われ、そのまま階段を昇った。 登りきる前に、ナマエの頭が見えた。 「盗み聞きか?」 「ちが……っ、出て……行けなかった」 「部屋に……入るか?」 涙はまだ、止まってねぇ様だが、ナマエは笑って見せようとした。 「泣くか笑うか、どっちかにしてくれ」 手を出せば、掴んで立ち上がると俺に抱き着いた。 「一目惚れ……しちゃったんです」 「俺も、そうみたいだ」 少しまた飲みながら話をしたが、その後は……ガキじゃねぇ二人だ。互いに想う相手ならば、当然の様に服は脱ぎ捨てた。 恥ずかしがるナマエを可愛がってやっていると……今度は顔に浴びせられた。 「あ、やぁ……なんで……?」 「まぁ、悪くない」 「そんな……ご、ごめんなさい」 「それだけ、善かったって事だろう?」 顔を背けちまったが、ナマエは頷いた。ならば、反撃だと俺も調子に乗って腰を振り、ナマエにぶっかけた。 こりゃ……癖になりそうだ…… 「これで一緒だな……」 「ん……」 困った顔で笑ったナマエとシャワーを浴びて、二人で眠った。 二度あることは三度ある……それを越えたらきっともう、それは偶然なんかじゃねぇよな……と、目覚めて笑い合った。 「他の奴にはやるなよ?」 「り、リヴァイも……ね?」 やれって言われても、出来ねぇよ。 運命なんてもんにゃ、縁がねぇと思っていたが、運命ってやつにゃ逆らえねぇんだろう。 その日俺は、初めての無断外泊で罰を食らったが、気分は良かった。 「リヴァイがおかしいんだが……」 「きっと春が来たんだよ」 「5月には早いと思うが?」 「エルヴィン……意味が違うから……」 End [ *前 ]|[ 次# ] [ main ]|[ TOP ] |