tenuto,tenuto,sostenuto


※斉藤と朔楽が同じ学校で同じ吹奏楽部





「あーもう、時間ないから次まで練習しといて」

イライラした様子で時計を確認すると、先生は吐き捨てるようにあからさまに不機嫌に呟いた。視線はスコアに向けたまま。途中からちらりとも彼の方に視線をやったりはしなかった。

「……はい」

後ろから聞こえた返事はしっかりはしているけれど、元気はなかった。それもそのはず、今日も彼は部活の合奏の時間を二十分ほど潰してしまったのだから仕方ない。今日も、というのは今日が初めてではなく、昨日も、一昨日も――ここ数日、彼は合奏中必ず先生に注意されては合奏を止めていた。なぜ止めているかというと、先日先生が注意したところが直っていないからだ。楽譜通りには吹けているのだけれど、先生が欲しい音ではない。

合奏の時、名指しで先生に指摘されるということは恥ずかしくもあるし、合奏を止めてしまうということは、みんなの練習を妨げることにもなる。合奏をしているのに、自分の練習に付き合わせるなんて。
コンクールに向けていつも以上に厳しい練習をしている時に言われた「合奏は全体練習であって個人練習の場ではない」という先生の言葉を思い出し、胸の奥が痛んだ。

「最後にもう一回頭から通して終わりにするよー」
「はい」

そろった返事の中に、彼の声が混じっているのが聞こえた。相変わらず元気はない。すぐに始まった合奏の中で聞こえた彼の音も、疲れているのかどこか彼の調子ではなかった。

「あ、あのさ! 今日の帰りなんだけど」
「ごめん。疲れてるから、今日は真っ直ぐ帰るね」
「……うん」
「じゃ」

誘いを断る時も俯いたままで、力なく右手を振るとさっさと行ってしまった。その背中を見つめる朔楽の表情は、弱弱しいハの字の眉毛がいつにもまして下がっていた。

(僕にできることって、なんだろう)

とぼとぼと真っ暗な道を一人で帰りながら、朔楽は考えてみる。しかしいくら考えてもなにも浮かばなかった。足を止めて、大きなため息を一つ。

いつも彼には元気をもらってばかりなのに。逆に自分が弱っていたら、誰よりも先に気付いて励ましてくれるだろう。なかなか立ち直れない自分に、根気よく何度でも言葉を、元気を、勇気をくれるだろう。
それなのに、自分ときたら、こうしていつものようにうじうじすることしかできなくて。ぐしゃぐしゃ頭をかくと、ただでさえ寝癖でぼさぼさの頭がさらにひどいことになった。

自分とは正反対で、いつもポジティブだから、落ち込んでいる様子は尚更見ているのがつらかった。こんな時、彼だったらなんて言葉をかけるだろう。どうするだろう。いつもされてもらってばかりなのに、よく思い出せない。ごちん、とぶつかった電柱は、冷たかった。


   * * * * *


「やっほー、斉藤くん」
「……朔楽くん」

翌日、土曜日の部活の昼休み。不意にドアが開く音がして斉藤は楽器を下ろした。振り返れば笑顔の朔楽。

「ホルンの音が聞こえたから、気になって」

どうしてここに、と斉藤が聞くより先に朔楽は答える。
斉藤が練習していた場所は二年一組の教室。音楽室からも、朔楽――フルートの今日の練習場所である視聴覚室からも遠い。

とは言ったものの、ここに来る数分前に思いついた適当な口実だ。もちろん理由は斉藤を励ましたかったから。しかし斉藤にしてもらっているように元気づけられる自信などないから、ばればれの嘘をついた。きっと気付かれている。

「昼休みも練習してるなんて熱心だね。でも、練習のし過ぎはよくないよ?」
「うん。……でも」
「焦ってもいいことないよ」

斉藤の言葉をさえぎって朔楽は言う。続きは朔楽でも容易に想像できた。
そんな言葉を欲しているわけではないのは分かっているけれど、朔楽には斉藤が欲しい言葉なんてまったく想像がつかなかった。それが歯がゆくて仕方ない。

「……そうだけど、みんなはこうしてって言われたら、すぐにできちゃうから。せっかくまとまってきてるのに、俺が足引っ張ってるし……」
「そんなことないよ。僕も言われてすぐはできないし、時間がかかることもいっぱいあるよ。それに、斉藤くんだってできてるじゃん!」
「先生だってイライラしてるし、パートの人たちも、朔楽くんだってこうして優しい言葉をかけてくれるけど、それにいつまでも甘えてもいられないしさ。時間がかかるって言うけど、俺と比べたら全然早いじゃない」

楽器を持つ斉藤の手に力が入る。俯けていた顔をさらに俯けて、やや早口で語尾は震えていた。そんな斉藤を見て、朔楽は頭が真っ白になる。自分の言葉なんてなんの慰めにも、励ましにもならないだろうけれど、もしかしたら逆にプレッシャーになってしまうかもしれないけれど、少しでも元気になってもらいたくて、ここに来る途中必死にかける言葉を考えていたのに。

「言われてすぐ直せる人間なんていないよ。音楽じゃなくてもさ」

というのはたまに斉藤と同じホルンのパートリーダー、倉鹿野がよく言っている台詞。先生には言えないけれど、先生の代わりに千鳥が指揮を振る時に、なかなか思い通りにいかなくてイライラしている千鳥に対してよく言っている。それを聞いて朔楽は一気に気持ちが楽になったのを覚えている。おそらく、朔楽だけではなくみんな同じだっただろう。

朔楽も斉藤のように言われてすぐに直せないことは多々あるし、分かってはいても繰り返してしまうことはよくある。むしろ、すぐにできる人間の方が少ないと思う。
斉藤だって何度言われても、練習してもまったく直らないというわけではない。日を重ねるごとに少しずつではあるが直っているし、時間はかかるが最終的にはクリアしている。

「でも、俺がいない方がいいよねって時々思うんだ。その方が、合奏だってすんなり進むだろうし……全体練習なのに、俺の個人的なことにみんなを付き合わせることもなくなる」
「そんなことないよ。……そんなこと、言わないでよ。誰もそんなこと、言ってないじゃん……」

斉藤が合奏を止めるのは、今回が初めてではない。前に演奏した曲でも同じことがあった。それが積もりに積もって今回爆発したのだろう。

「だったら僕だっていない方がいいよね。僕だって何度も合奏を止めてみんなに迷惑かけてるもん」

合奏中に注意されて止めてしまうのは、斉藤に限ったことではない。朔楽だって何度も経験はあるし、他の人だって回数の差はあれど全員経験していることだ。指摘されて何度か試しても上手くいかず、今度の合奏までに練習してきてと言われることだって珍しいことではない。

「……そう言うけど、朔楽くんは俺よりずっと飲み込みが早いし、直すのだってこんなに時間かからないじゃん。それに、メロディがなくなったら大変だよ?」
「……じゃあ伴奏だから、目立たないから、いなくなってもいいの?」

突然言葉を荒げた朔楽に斉藤は顔を上げて目を見開く。ブレザーの下からのぞいているカーディガンの裾をぎゅっと握りしめ、眉は相変わらずハの字のままだが、真っ直ぐ自分を見つめる瞳は、いつもの弱弱しい朔楽のそれではなくて。

「あのね、斉藤くん。伴奏があるから、誰かに支えてもらうから、はじめて主旋律は目立てるんだよ。それに、伴奏と主旋律以外にも、いろんな役割があるよね。目立たないとしても、地味だとしても、必要だからそのパートがあるんじゃないかな。合奏の中では目立たないかもしれないけど、ホルンってやってることは地味かもしれないけど、斉藤くんの音が必要なんだよ。斉藤くんが必要なんだよ。いらない音も、いらない人もいないよ」

ホルンは中音域を受け持っているが、音色も相まって目立つことはあまりない。激しく主張することはない穏やかな音色、金管と木管をつなぐ役割、背景で演奏を支える――ホルンは斉藤にとても合っている楽器だと、朔楽は常々思っている。朔楽が言うようにホルンは地味な役割の多い楽器だ。そして斉藤も地味か目立つかでいえば朔楽と同じく地味に分類されるタイプだ。朔楽が落ち込んでいたりすると決まって支えてくれるし、誰にでも気兼ねなく接して誰とでも仲良くすることができる。

「って、突然変なこと言ってごめんね。なんか、勢いに任せて恥ずかしいこと言っちゃった気がする……」
「ううん。――ありが、と……っ」
「さっ、斉藤くん!?」

やっと顔を上げてくれたと思ったらまた俯いて、今度は肩まで震わせ始めたものだから、裏返った声で名前を呼んで慌てて斉藤の元へ駆け寄り、床に膝をついて顔を覗き込む。斉藤のホルンの管を握る手にぽたりと透明な滴が落ちた。

「ごめん……ごめん、朔楽く……」
「えっと、あの、僕の方こそごめんね? えっと、えっと」
「違う、朔楽くんのせいじゃない、そうじゃなくて、嬉しかったから」

おろおろとする朔楽に嗚咽交じりに途切れ途切れで斉藤は言葉を紡ぐ。ありがとう、ありがとうと何度も嗚咽の間の必死に言う斉藤をなだめながら、朔楽は胸のあたりがじんわり熱くなるのを感じた。


気が付けば昼休みが終わる頃、落ち着いた斉藤に今度は子どものように声を上げてしゃくりあげながら泣く朔楽がなだめられていた。





・tenuto(テヌート)=音の長さを保って
・sostenuto(ソステヌート)=同上/イタリア語では下から支えられた、助けられた、人を精神的に支える

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