春に溺れる夢を見る


「もうすぐ春がくるよ、ゆずちゃん。季節は前に進むばっかりで待ってくれないね」
 放課後の部活。空き教室に移動してのパート練習、その休憩時間だった。うっかり音楽室に飲み物を忘れてしまったので、真柚子はひとり取りに戻った。
 扉を開けて廊下に出たところで、ばったりと鉢合わせた人物は歌うように話しかけてくる。伴野先輩、と呼びかけた名前を飲み込んだ。
 言葉に形なんてないのに、渇いた喉を傷つけながら落ちていく気がする。背後の音楽室からは打楽器の軽快な拍打ちが聞こえているが、誰も出てくる気配はないし、廊下に人影はない。
「時間は前に進んでいく。この学校、一緒に通えるのあと何日かな。一緒にいられる時間は、あと何時間だろ」
 はにかむように指を折って数える仕草をする、その微笑みは砂糖菓子のように柔らかで、無害に見えた。
 もういいのではないか、とも真柚子は思う。
 躊躇う心は自分を苛みもするが、同じくらい、目の前の彼女だって追い詰めているのではないだろうか。
 目の前にいて、触れ合える距離にいるのに。伸ばされた手の分だけこちらが下がり、空いた距離はいつまでも埋まらない。
 いつかは、と思う。だけど、いつかって、いつだろう?
「ゆずちゃんの声が聴きたいな」
 そんな思いに囚われていたせいか。はっと気づけば、あり紗はすぐ目の前に居た。取られた手首は痛んだりしないが、ちょっとやそっとでは振り払えない決然をもって引っ張られる。
 小さく息を呑んで、引かれるまま歩き出した。少し先、夕暮れの光が斜めに落ちる多目的室へ引きずり込まれる。教室の床は残光で赤く染まっていて、ああ、血の海みたいだ。
 きっと苦しくて流す涙は、赤い色をしているんだ。
 手が離れたので真柚子はよろめくように距離を取った。けれど本来、向かうべきは部屋の出口だったはずなのに、ぼんやりとした足は部屋の中央へ勝手にまろぶ。当然だ、だって扉の前にはあり紗がいるのだ。
 神経質なまでにきっちりと、音を立てずに戸を閉めた先輩は、やっぱり変わらぬ笑顔で後輩に向き直る。
「ねえ、なにか言って。私の名前を呼んでよ、ゆずちゃん」
「先輩……そろそろ、戻らないと……休憩時間が」
「先輩って私の名前じゃないよね?」
 怖い。真柚子は無意識の内に、身を守るような思いで胸の前で手を重ねた。怖い、怖い。――なにが? 冷静な声が乱れる思考を刺した。自分はいったい、何が怖いっていうんだろう。
 わからない。わからないまま、伸ばされた両腕を拒めない。まるで真綿で絞められるような安らかな抱擁が全身を包んだ。男の人に抱きしめられるより、やっぱり同性からそうされる方が柔らかいのだろう。そんな安易な感触だけで、ふと肩に入った力が抜ける。
「三文字。たった、三文字じゃない」
 耳元に寄せられたあり紗の囁きは、まるで熱に浮かされている。夢でも見ているのだろうか、ほんのりと温かくて、どこまでも穏やかだった。
 口唇が耳朶に触れ合うほどの距離に、真柚子の背筋はぞくりと粟立つ。そう、たったの三文字だ。ありさ、と呼べばいいのだ。そもそも、こんな事をしている時点で先輩や後輩の関係ではなくなっている。
 とっくに。
 あれだけ逡巡していたけれど、自分だってとうの昔に、もう足を踏み入れていたのではないか。胸の前で固く握っていた手は知らず解けて、縋るようにあり紗の肩に滑り落ち着いている。
 きっと、嫌われてしまうのが怖かった。定められた距離を挟んで、いつまでも出ない議論を堂々巡りしている。そんな自分に、あり紗が愛想を尽かしてしまうのではないかと。
 あるいは、彼女の逆鱗に触れて思いもよらぬ方法で境界を越えてくるのではないかと。
 怖かった。今でも、怖いのだ。踏み越えてしまったらもう、戻る事ができない確信があるからこそ。
 真柚子もまた、似たような熱度を湛えた瞳で虚空を見る。紡がれる声に侵されて、蕩けた思考は言うべき台詞を思い出せない。それでも、彼女は結局いつも通りを選んだ。

「……伴野、先輩」
「――」
「……私。学校を卒業したら、先輩と同じ高校に……入ります。大学も……その先も。大人になったら、きっと、先輩の事を……自然と名前で、呼べるんじゃないかって思うんです」
「ゆずちゃんは、いつになったら大人になるの?」
 なんだか泣きそうな声だった。
 そんな震えを初めて聞いたから、少し惑って、肩に置いた手をそっと首に回す。幼子にするように、けれど胸に秘めた想いが少しでも伝わればいい。
「きっと、こんな夕暮れの日に。だから先輩、それまで待っててください。それまで……一緒に、いてください」
 桜は散って、また花を結ぶものだから。巡る季節は同じ顔をしているようで、それでも時間が前に前に進む以上、なにも変わらないなんてありえない。
 きっと変わっていける。どんな結果を齎すかはわからないが、隣にいる未来だけは揺らがないままでいられたらと願ってしまう。
 あり紗から返答はない。それで、いいと思った。真柚子はそっと瞼を閉じる。私達にはまだ、迷う時間が許されているのだから。

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