きっかけはなんだっていいじゃない


「今日の練習はここまでー! お疲れ様でした!」
「お疲れ様でした!」

練習を終えて挨拶をした後は各々楽器の片付けに移る。

譜面台をたたみながら、律はため息をひとつ。どうやら本人は無意識だったようで、それに気付いた奏斗がどうかしたのかと尋ねると、きょとんとした顔をした後少し間を空けてなんでもないと返ってきた。

譜面台をたたみ終えると、今度はグロッケンの片付けに移る。グロッケンが終わったらシロフォン、それが終わったら今度はシンバルと手慣れた様子でいつものように片づけていく律だったが、どことなく様子がおかしかった。元気がないというか、疲れているというか。

「大丈夫だって、俺もできてないとこいっぱいあるしさ、気にすんな!」
「……うん、ありがとう」
「まだ時間もいっぱいあるしね!」

楽器庫まで楽器を運んでいる途中、後ろから奏斗の声が聞こえた。弱弱しく微笑んで律はお礼を言う。

今練習している曲で、律はどうしてもできないところがあった。きっとそのことで悩んでいるのだろう、と思っての奏斗の励ましの言葉だった。

どうしてもできないとはいうものの、楽譜が配られてまだ一ヶ月も経っていない。学生の時はほぼ毎日部活があったし、その分練習する時間もたくさんあった。しかし今では毎日練習しているわけではなく、一週間に一回か二回、時間もそれほど多くあるわけではない。
練習がある日は誰よりも早く来てそこを重点的に練習しているし、練習がない日でも時間があれば個人練習をしていた。それでも学生の時と比べると練習する時間は圧倒的に少ない。

高校生の時も、律ができなくて注意されたり落ち込んでいる時、奏斗はいつも「自分もできていないから」と励ましてくれる。それは嬉しいのだが、どこができていないのか律にはさっぱり分からなかった。最低限、奏斗は楽譜通りには叩けているから。どうこうと周りに言われる前に、まずは楽譜通りに叩けなくてはどうにもならない。

「りっちゃんりっちゃん! 送ってくよ!」
「あ、なるみん。いいの? じゃあお願いしようかな」

片づけも終わったし帰ろうかとバッグと楽器を持つとほぼ同時に名前を呼んだのは鳴海。

「おう! だってそれ持って帰るの歩きじゃ大変じゃん?」
「そんなことないよ。でもありがとう」

律が持って帰ろうとしているのはグロッケン。見た目こそそれほど大きなものではないが、音板は金属でできているため持ってみると思いのほか重い。
ほぼ毎日欠かさず筋トレをしているのと、重いものを運ぶのは今まで打楽器をやってきて慣れてはいるが、家までこれを歩いて持ち帰るのは本音を言えば少々辛い。いつもこうして声をかけてくれる鳴海には感謝している。
律も一応免許は持っているのだが、車を使うほどの距離ではないため基本は徒歩で通っていた。

「お願いします」
「いちいち言わなくてもいいのに……律儀だなぁりっちゃん」
「……だって、ねぇ?」

助手席に座った律はくすくすと笑う。

駐車場から道路に出るまでの間に、鳴海はCDを取り出してそれをプレーヤーに入れる。短い操作ののちに、車内に流れ出したのは聞き慣れた吹奏楽の曲だった。

「なるみんこれ好きだよね」
「金管すげーんだよなぁこれ……俺もこんくらい吹けるようになりてーなーって」

律の家までは車ならもともとあっという間に着くような距離だが、話をしていると本当にあっという間だ。別れるのが惜しくて、その辺に車を停めてもう少し話をしたりもする。
いつもならどちらからともなく話を始めて盛り上がるのに、今日は鳴海から話を振っても返事が短く、律から話を振ることはなかった。

「あのさ、りっちゃん……ひとつ聞いていい?」

信号が赤になり、車を止めると同時に曲もちょうど終わった。
次の曲が始まるまでのわずかな沈黙に堪え切れずに鳴海は切り出す。

「ん? なに?」
「りっちゃんさ、なんか悩んでる? 最近元気ないなって思ってて」
「え? そうかなぁ? いつも通りだよ?」

律が口を開いた瞬間に一瞬目を見開いたのを、鳴海は見逃さなかった。そう言って見せた笑顔も、どことなくいつもとは違う。

「言いたくないことなら無理に言わなくてもいいけど、俺でよければ話聞くからなんでも言って!」
「……ありがとう。なるみんはやっぱり優しいね」
「そっそんなことは……。いつもりっちゃんに話聞いてもらってばっかだし、どんなちっちゃいことでもりっちゃんの話なら俺聞きたいからさ! ほんと、なんでもいいから!」

律は聞き上手で、ついつい自分ばかり話してしまう。愚痴をこぼしたり、相談にのってもらうこともよくある。
もともとあまり自分からは話を振らないタイプというのもあるが、律から悩みや愚痴を聞いたことは今までに数回しかなかった。きっと片手があれば数えられるだろう。

「……じゃあ、少しだけ。いい……かな」
「うん! いいよいいよ! あーでも俺、りっちゃんみたいに上手い答えとか返せないと思うけど……」
「ううん、聞いてくれるだけで嬉しいから」

既に律の家のすぐ近くまで来ていた。長くなる可能性を考えて、コインパーキングに車をいれる。
無事車を停めて、エンジンを切る。免許を取ってそれなりに経つが、駐車はまだ苦手だ。

外灯でほんのり照らされた律の輪郭を見つめながら、律が口を開くのを待つ。

「僕、できてないところあるでしょ?」
「……うん」
「中学生の時もパーカスで鍵盤任されることが多くて。それで、今みたいに何回練習してもなかなかできないところがあったんだよね。しかもそこ、すごく目立つところだったからプレッシャーもあって本番直前までできなくてね」

管楽器であれば、できないところがあれば他の楽器で代用したり、音圧でごまかすこともできるが、打楽器の場合は基本的に代用がきかない。

「本番でも結局できなくて、なんとかごまかしたけど、終わった後にみんなにいろいろ言われて……その時のこと急に思い出しちゃって」
「嫌なことって突然思い出すよな……しかもなかなか忘れられないし」
「そうなんだよね。できなかった僕が悪いけど、それでも少しへこんじゃって」

人間、幸せな記憶よりも不幸な記憶の方がよりとどまりやすい気がする。嫌なことを思い出してしまうとそう簡単には忘れられず、数日引きずってしまう。考えるだけ無駄なのは分かっていても、なかなか頭から離れてくれない。

「吹奏楽は楽しいし、好きでやってるのはもちろんなんだけど……時々失敗したくないから、怖いから、必死に練習してるなって思っちゃって、それってどうなの? って」
「それは俺もあるなぁ。やっぱ失敗すんのって怖いし、恥ずかしいし……それって仕方ないことだと思うよ? みんなそうじゃね?」
「……そう、なのかな」

自分たちのやっていることは仕事や義務ではない。趣味だ。つまりは好きだからやっていること。
上手くなりたいとは常に思っているが、楽しいからこそそう思うのだし、続けられるのだ。

「でもさ、失敗したくないから必死に練習するのも、結局頑張ってるってことだから悪いことじゃなくね? っつか、いいことじゃん。頑張れば自分のためになるしさ!」
「……そっか……」
「きっかけはどうであれ、それで自分が頑張れるんだったらそれでいんじゃねーの? そんなん人それぞれだし。例えばテストで百点取ったらゲーム買ってくれる約束したから勉強を頑張る、ってのも悪いことじゃないじゃん。それで勉強頑張れるんならさ」
「……うん」
「それに、りっちゃんが頑張ってるのは知ってるつもりだしさ。頑張りすぎ、っていうか、トラウマ思い出して焦ってるんだろうし、少し休んでもいいと思うよ? 肩の力抜いてもう少し楽にいこうよ」

ぽんぽん、と優しく肩を叩かれて律は頷く。なにか言ったら泣いてしまいそうだった。

鳴海の言う通り、最近の自分は自分でも分かるくらいに焦っていた。焦りから余計にできることまでできなくなっていたし、失敗を恐れすぎて純粋に吹奏楽を楽しむ気持ちも忘れていた。
今までの自分はできないことや難しいことがあると悔しくて、俄然やる気が出た。好きだから上手くなりたいと思った。けれど今の自分は失敗が怖くて、誰かに笑われたり後ろ指を指されるのが怖くて、昔のようにそうはなりたくないと思って、そのために頑張っていた。それが嫌だったから、鳴海に悪いことではないと言われてすっと肩が軽くなった。

「ありがとう、なるみん。すごく楽になった。なるみんはやっぱりすごいなぁ」
「え? え? 俺なんもすごくないよ!? 楽になったんだったらよかったけど」
「うん。ありがとね、なるみん」

暗闇の中で、律の手がこちらに伸びてきたのが見えた。頬に触れた律の指は少し体温が低かった。律の手と自分の顔の温度差に驚いているほんの一瞬の隙に、身を乗り出してそっと鳴海の唇に自分のそれを重ねる。

「じゃあまた来週ね。送ってくれてありがと、なるみん」
「……あ、お、おう!」

キスをされたと鳴海が理解したのは、律が車から降りてドアを閉める頃だった。

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