僕とフルートの話3


そして迎えた日曜日。この日の空は僕の心をうつしているみたいに、はっきりしない天気だった。時折太陽が雲の間から顔をのぞかせては、すぐに姿を隠してしまう。

オーディションが行われたのは午後、昼休みが終わってすぐ。お昼を食べて、いつもなら友達と駄弁って過ごしている数十分を、今日はパートごと練習に割り当てられた教室に引っ込んで最後の調整をしていた。彼女もすでにどこかで練習しているらしく、彼女のフルートと楽譜はなく、どこからかフルートの音が聞こえてきた。

オーディションは音楽室でやるって朝に言われたから、昼休みが終わる五分前には音楽室に戻ってきた。
みんながいつもと変わらず雑談をしている中、隅っこで指だけ動かして最後の確認をしていたら、彼女も帰ってきてその後すぐ先生も来た。

部員に簡単な説明と指示をして、先生は僕と彼女を連れて音楽準備室に入った。

「これから予定通り、1stのオーディションをはじめます」

落ち着いた先生の声に、緊張が最大になる。
狭く静かな室内に響く壊れた時計の秒針の音が、自分の心臓の音でかき消されていた。

僕は二番目に吹くことになった。一緒に準備室から出て、隅の方でみんなの丸めた背中を見ながら、さっきからずっとドキドキいってる胸をさする。

みんなの前に立った彼女は、すごく堂々としていて眩しかった。こちらに背中を向けて、頭を腕に埋めているみんなからはその姿は見えないけれど。隅っこでフルートを握りしめて眉をハの字にして、まるでおやつをとりあげられた犬のような僕とは大違いだった。

静寂の中に聞こえた、かすかなブレスの音。そしてゆったりとした旋律が広がっていく。彼女らしい真っ直ぐな、それでいて澄んでいる音に、緊張が少しだけ和らいだ気がした。

「じゃ、次」

彼女の演奏にすっかり聞き入ってしまって、先生の言葉に反応するのに数秒かかってしまった。とっさに返事をしそうになって、慌てて口をつぐむ。返事をしたら、最初が彼女だってことが分かってしまう。……でも、彼女をよく知っている人なら、きっと音で分かったんじゃないかな。上手く説明できないけど、その人の癖とかあるし。

僕がいたのとは反対側に引っ込んだ彼女に入れ代わるように、今度は僕がひとつだけ立てられた譜面台の前に立つ。
いくらみんながこちらに背中を向けている状態だとしても、人の前に立つというのはやっぱり緊張する。

ひとつ、大きく深呼吸をしてフルートを構える。そうでもしないと力が入りそうになかったからだ。楽器を支えるどころか、自分の体すら支えられなくなりそうなくらい、体が震えていた。昔からあがり症なんだよね。

好きなタイミングで吹き始めていい、と事前に先生から言われていたので、楽譜と数秒にらめっこをした後、目を閉じて大きく息を吸い込んだ。



「最初の演奏がいいと思った人」

紙にでも書いて先生がそれを集計するのかと思っていたら、その場で結果発表が始まった。驚いたなんてものじゃない。
こちらに背を向けたみんなが手を上げるのを、隣の彼女は泣きそうな目で見つめていた。手を上げた人数を先生が小さな声で数える。何人かは聞き取れなかった。

「じゃあ、二番目の演奏がいいと思った人」

数え終わるとすぐに先生が聞いたものだから、結果を知るのが怖くて僕は目をぎゅっとつぶってしまった。
怖い。緊張して出だしが、とか、あそこを失敗してしまった、とか。先生が数えてる間にそんなことばかり頭に浮かんだ。

「確認のため、もう一度聞きます。最初の演奏がいいと思った人」

二度目の同じ質問にも、どうしても怖くて目が開けられなかった。淡々とした先生の声が余計に緊張を煽る。フルートを握る手に力がこもっていく。

「それじゃあ、1stは鳩村くんに吹いてもらいます」

は、はとむら……? って言った? 先生、今僕の名前を……? っていうか、僕の名前、鳩村、だよね……?

ぱちぱちとまばらにわく拍手の中で、そんな馬鹿なことを考えていた。少し遅れて口から間抜けな声のような、空気の抜けるような音が漏れる。

足元がふわふわして、夢でも見ているのかと思った。

緊張してミスばっかりだったとか、そもそも手を抜いていたとか、そういうわけではない。迷いは捨てて、自分なりに今までの練習成果を全て発揮したつもりだった。

あの後もずっと悩んだ。僕でいいのかと。彼女の方がいいんじゃないかと。
でも、彼女がそれでいいと言った。僕も同じ返事を返した。だから、精一杯やらないと彼女に失礼だと思ったし、もし手を抜いて僕が負けたとしたら、きっと彼女なら納得しないと思ったから。

「……本番で失敗したら許さないから」

普段の僕だったら、この言葉を真に受けてプレッシャーに感じていただろう。でもその時ばかりは、彼女なりの遠回しな「頑張れ」のメッセージなんだなとすぐに気付いて、僕は柄にもなく笑顔を浮かべていた。

その後、僕が1st、彼女が2ndで本格的にコンクールに向けて練習が始まったんだけど。パートリーダーでもある彼女の練習は厳しかった。特に、僕には。でも知識とキャリアがあるだけあって、言っていることは全て的を射たものだったから、注意されるたびに彼女のOKが出るまで何度も何度も同じ箇所を練習した。言葉はきつくても、できるようになるまで付き合ってくれてたから、なんだかんだで優しい子だよね。上手くなるのが自分でも分かって嬉しかった。


その年のコンクールの結果は地区大会ゴールド金賞、県大会銅賞という結果だった。田舎の小さな学校ながらにそこそこ強いところで、去年は県大会ダメ金(金賞を取ったけど代表には食い込まなかったってこと、つまり次の大会には行けない)だったから、二年続けて残念な結果になった。

もしあの時、1stが僕じゃなくて彼女に決まっていたら。そしたら今年は支部大会に行けてたのかなとか。そうじゃなくても銀賞か金賞を取れてたのかなとか。考えても無駄なことだけど、帰りのバスの中でぼんやりと考えていた。

「鳩村さ、あんたステージに立つと人変わるよね」

県大会が終わって学校に帰ってきて、楽器を片づけている最中に彼女に突然話しかけられた。

「……え? そ、そう?」
「いつもはうじうじしててはっきりしないのに、ステージで吹く時のあんたの音は、なんていうか迷いがなくて、あんたらしくない」
「あ、分かる〜。話しかけるといっつもおどおどしてるけど、合奏になるとめっちゃ変わるよね」

言い方はいつもみたいにちょっときつかったけど、顔は少し笑ってた。近くにいたクラリネットの子にも言われて、嬉しいような、恥ずかしいような。

「鳩村くんさー、どこの高校行くか分かんないけど、吹奏楽やめちゃダメだよ? 一年であれだけ上手くなったってことは才能あったんだと思うしね」

部長の女の子にまで言われて、こんな空気の中ひとりだけ嬉しくて泣きそうになった。

高校でも吹奏楽部に入りなよ、は笑いながら、冗談っぽく言われたけど最初からそのつもりだった。高校だともっと上手い人がたくさんいるだろうし、不安に思ってたから何人かにそう言われて自信がついた。お世辞だったかもしれないけど、好きなことで褒められるのは素直に嬉しかったから。



そんなわけで、僕は今もフルート吹いてます。
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