雨が降り出しそうな午後
「あら帰ったの、ただいまも言わないで」
「……母さん」
玄関で鴨部がローファーを脱いでそろえていると、背後から不意に聞こえた声。
「……ただいま」
言われてそう言ってみるが、案の定返事はなかった。台所が近づくにつれてむっとたち込めているにおいに、鴨部は思わず顔をしかめる。
「じゃ、もう出るから」
「行ってらっしゃい」
肩にかけていたスクールバッグをその辺にとさりと置くと、すれ違うように母親は慌ただしく出ていった。ドアが閉まり、ヒールの音が階段を下りていって遠ざかったのを確認して、鴨部は窓を開ける。外の空気は湿っていたが、部屋の中にたち込めている母親の化粧品やら香水のにおいと比べたらましだった。
冷蔵庫からペットボトルを取り出し、コップにミネラルウォーターを注ぐ。それを一気に飲み干して、濡れた口を拭う。
はぁ、とため息にも似た息を吐いて、壁にもたれかかる。
母親は鴨部のことが今でも好きになれないらしい。今さら好きになってほしいとも思わないし、好かれる努力もする気はないが、これだから女は好きじゃない。
鴨部の両親は、鴨部が中学生になる直前に離婚している。もともと夫婦仲はあまりよくなかったから、鴨部はそれほどショックを受けたりはしなかったが、その頃からだ、母親が自分を毛嫌いしているのは。しかし、それは致し方ない、と鴨部は思う。母親の嫌いな父親譲りの外見に、父親譲りの訛り。おまけに鴨部が中学生になって吹奏楽部に入ったことを知った父親は、誕生日に鴨部に楽器を贈っている。その楽器を、今も鴨部は大切にしている。
だから母親が自分を嫌うのは仕方がない、と鴨部は思っている。それに、今さら好かれようと思わないから、母親の望む"いい子"にもなりたいとは思わない。母親の望む"いい子"は、部活なんてやらずに放課後には塾に通い、真面目に勉学に取り組み、常に優秀な成績を収める、そんな子のことらしい。
「……飯でも買いに行こか」
なんとなく家にいたくなくて、スクールバッグから財布だけひっつかんで家を出る。
外へ出ると、灰色の淀んだ雲と湿気を含んだ重たい空気が鴨部を待っていた。雨が降りそうなのにも関わらず、傘は持たずにあてもなく歩き出す。
鴨部が中学生になって、興味もない吹奏楽部に入ったのは、逃げ場を求めてだった。拘束時間が長いから、家に早く帰らずに済む。休日だって、部活があるからという理由で家にいなくてもいいから。母親と一緒にいる時間が、少しでも減るから。そもそも女手ひとつで鴨部を育てることになってからは、母親は仕事を入れに入れて家に帰ることすら、少なくなってしまったのだが。
「おー鴨部じゃん?」
コンビニから出ると聞き覚えのある声が聞こえて、鴨部は足を止める。
「なんでこんなところにいるの?」
「それはこっちの台詞や」
「オレは塾帰りだけど?」
「そういえばそうやったな」
同じクラスの吉見だった。正直、鴨部はこいつが嫌いだった。
「お前はまた部活サボりか?」
「優等生には休息が必要やねん」
「そう言って昨日もサボってたじゃん」
「なんや、見張られてるみたいで気色悪いわぁ」
しかし、今ではこうして軽口を叩くような仲になってしまった。こいつが馴れ馴れしくしてくるせい、と人のせいにしてはいるものの、なんだかんだで鴨部も多少は心を開いているのは確かだった。それが自分で気に食わない。
「今週末模試なんだよなー。勉強だっる」
「お前さんなら楽勝やろ?」
「まあなー?」
そして、鴨部の母親の望む"いい子"を満たしていること。結局のところ、母親に好かれたいのか、そのために母親の望む"いい子"になりたいのか、曖昧な自分がやっぱり嫌いで。
「ところで今日は楽器持ってないん?」
「なんや急に」
「勉強の合間に優等生鴨部くんの演奏が聞きたくなってー、みたいな? オレも優等生だから常に癒しを求めてるんだよ」
「はぁ? 誰がお前にただで聞かせるねん。金とるで」
吉見も中学時代は吹奏楽部だったらしい。でも、高校に入って、迷わずその道をあきらめた。いい大学に進みたいから、その台詞は吉見自身の考えなのか、それとも親の意見を尊重してなのかは分からないし、聞くに聞けないでいる。
「じゃあさ、プロになってよ」
「簡単に言うわ。プロになりたい思ってなれたら誰も苦労しないわ」
「まあそうだけどー。でもそしたら、金払って聞きに行けるし」
「せやったら特別席用意したるわ。そんでぼったくる」
「えー? そこは友達価格でなんとかしてよー」
「正規価格で買えや」
ここまで嫌いな要素が集まった奴と今でも続いているのは、腐れ縁だから。誰に言うわけでもなく鴨部は心の中で言い訳した。