不思議の国のアリア
「ねえ有亜くん。そろそろパート練習しよっか」
「そうだね」
芹沢有亜というこの男子は、中学ではクラリネットを吹いていたらしい。高校でサックスにした理由は、サックスがかっこよくてやってみたかったから、とのこと。吹奏楽部に入る人、楽器を始める人の理由の大半は、かっこいいから、もしくはおもしろそうだから、だろう。弾だって、吹奏楽を始めた小学生の時はそうだった。楽器ができる人が、幼い弾の目にはかっこよく映った。
しかし、どこで何をどう間違ったのか、数年でいろいろこじらせて自尊心ばかりが肥大してひねくれた性格に育った弾にとって、そんな単純な動機でサックスを始める人間は気にくわなかった。そんな理由で、芹沢のことを本人がコンプレックスだと言っていた下の名前であえて呼んでいた。しかし、本人はどちらで呼ばれようと大して気にしていない様子だった。
弾の目の前にある楽譜の右上にはA.Sax1、芹沢の目の前にあるそれにはA.Sax2とかすれた文字で印刷してあった。弾の目の前に1以外の数字が書かれた楽譜が置かれることは滅多にないだろうし、芹沢の目の前に1がくることもきっとない。
「とりあえず、最初からCまで」
「おっけ」
「……いち、に」
体をやや向かい合うようにして、間にメトロノームを置く。静かな教室に響く規則的なテンポに合わせて、弾が合図を出す。四分の四拍子なのに二拍までしかカウントしなかったのは、この曲はアウフタクトで始まるから。
サックスパートは、源内先生が指揮を振る時も、個人でもパートでも他のパートに比べてつかまる回数が少ない。今日もきっちり縦の線もピッチも合っていて、なおかつアップテンポなポップスに合わせた尖った音の見事なコンビネーションを見れば納得できる。ダイナミックレンジも、アクセントも完璧だ。しかし決して楽譜通りのつまらない演奏ではなく、ところどころ好き勝手に遊んでいて、息ぴったりの遊び心は聞いていて楽しくなる。
「あのさ、有亜くん。ピッチがおかしいのくらい指摘してほしいんだけど」
「あー……うん。ごめん。変なところなんてあったっけ」
本当は分かっているくせに、と弾は心の中で毒づく。同じ学年で同じクラスで同じ部活で同じパートなのだから、言いにくいはずはない。
芹沢有亜というこの男は人に合わせることが得意で、だからこそ弾と上手く付き合えているともいえるのだが、今のように弾のピッチが悪い時にも合わせてきたりするところはどうなのだろう、とさすがの弾でも思う。そのくらいはプライドの高い弾でも言い方次第ではあるが怒りはしないから、ちゃんと指摘してほしい。
「だから君は永遠に2ndなんだよ」
「おれ2nd好きだからいーよ別に。ずっと2ndで」
芹沢は中学生の時、クラリネットでもずっと3rdか2ndだったらしい。木管高音は弾のように自己主張の激しいタイプが多く、サックスでも特にアルトサックスは目立ちたがりが多いパートの中で、芹沢のようなタイプは珍しい。かっこいいからサックスが吹きたいと言っていたくせに、ソロはあまり好きではないのだそうだ。だから弾とも上手くやっていけている。もしも芹沢もソロは絶対に譲らないという頑固な性格だったら、どうなっていたことやら。
「本当、君って向上心がないよね」
単純な動機でサックスを始める人間も嫌いだが、向上心がなく今の状態で満足している人間も嫌いだった。しかし向上心があってめきめき上達する人間も妬ましく思うし、結局のところ、自分が一番でなければ気が済まないのだ。この茅ヶ崎弾という人間は。
芹沢が何も言い返さないのをいいことに、生き生きと弾が嫌味を飛ばす。
「……おれの名前、漢字でどう書くか知ってる?」
「植物の『芹』に沢蟹の『沢』に、有機物の『有』に亜細亜の『亜』でしょ」
単純に最初に浮かんだのが「有機物」だったのかもしれないが、「有名」を挙げなかったあたり、弾らしいと芹沢は思った。
「そう。弾くんなら知ってると思うけど、ありあの最後の『亜』って字は、亜熱帯とか亜流とか、二番目って意味があるからそれでいいの、おれは2ndで」
「……ハモるのが好きとかそういう理由じゃなくて?」
支えるのが好きだから、伴奏のほうがおもしろいから。そんな理由で1stより2ndや3rdをやりたがる人もいる。ホルンの響介がそのタイプだ。てっきり弾は芹沢をそういうタイプの人間だと思い込んでいた。
「あ、なるほど。そういう理由もあったか。んじゃそういうことにしといて」
ぽんと手を打つ芹沢に、弾は思わず体の力が抜ける。突っ込む気も起きなかった。
「今度からそう言おう。ありがとう、弾くん」
「どういたしまして」
ありがとうと言われて反射的にどういたしましてなどと返してしまった後で、弾はため息をひとつ。
芹沢とは一年生の時から同じクラスで、同じサックスになったからという理由でなんとなく一緒にいるようになったのだが、未だに彼のことはよくつかめていないし、これからもつかめない存在なのだろう。思えば一年以上も一緒にいるのに、お互いのことはまだまだ知らないことが多いし、なぜこうして上手く友人として付き合えているのかも、本人たちもよく分からない。