優等生と仮面優等生


 テスト期間になると、さすがの吹奏楽部も部活は禁止になる。

 テストの素点で赤点を取って追試もしくは補習になるのは嫌だし、留年なんてもっと嫌だから、テスト期間は真面目に勉強していた。

 真面目だね、ってよく言われるけど、周りからの信頼を失うのが嫌で、失望されるのが怖いだけだ。やった課題をうっかり家に忘れたり、提出する日を間違えて居残りしてなんとか終わらせたことも何度かあったけど、堂々と破る勇気は僕にはない。僕はただ、言われたことを、与えられたことを、先生や親に怒られるのが嫌で、黙々とこなしているだけだ。

 ……とはいえ、そのおかげで今まで素点で赤点を取ったことはないから(自慢じゃないけど平均点を下回ったこともない)、少しくらい勉強をさぼっても、最悪赤点は取らないだろう、という根拠のない自信が、勉強中たまに心の中に芽生えたりもして。僕の中の悪魔が、少しくらいなら遊んだって大丈夫だよと囁く。
 いつもなら、順位を落とせば先生に失望され、点数が下がれば親に叱られるけどそれでもいいのか、と自問自答してなんとか抑え付けるんだけど、今回ばかりは欲に負けた。

 準備室に忘れ物をしたという理由で観田先生から鍵を借り、急いで準備室に向かって鍵を開ける。たった一日来なかっただけなのに、準備室独特のなんとなくかび臭いようなにおいが懐かしく感じた。

 準備室に入ってすぐ、端っこがはがれてくるくるになったフルートと書いてあるラベルの貼ってある棚から、定位置に置いてあるケースへ手を伸ばす。少しひんやりしてざらざらした感触は確かに僕がいつも使っているフルートで、これすら懐かしく感じる僕はいろいろと重症なのかもしれない。
 そのまま無意識にケースを開こうとしていたのに気付いて、慌てて鞄の中に突っ込む。金管からよく羨ましがられるけど、鞄に入るサイズなのはいろいろと便利だよね。

「忘れ物あったー?」
「あ、はい。ありました。鍵、ありがとうございました」
「それならよかった。テスト頑張ってねー」

 鍵を返す時、こっそりフルートを持ち出したのがばれそうでひやひやした。観田先生はお気楽そうに見えて時々鋭かったりするし、僕は僕で嘘をつくのが苦手ですぐ顔に出てしまうから。

 職員室を出て、先生に分からないところを尋ねながら真面目にテスト勉強をしている人たちの後ろを速足で通り過ぎて、ひと気のないところまで来てほっと一息。

 さて。無事に楽器をこっそり持ち出せたのはいいけど、持ち出したところでどこで吹こう。

 フルートはあんまりうるさくないから家で吹いても近所迷惑にはならないんだけど、家は妹がいてうるさいって言われるから無理なんだよね。妹、今年受験生だから。
 練習し足りない時に帰りに寄る公園も、時々同じ学校の生徒が通るからテスト期間中にフルートを吹いてるところを見られる可能性がある。
 集中して勉強したいからって先生に言って適当な教室を借りる――なんてこと、僕にできるはずがない。
 他に人のいなさそうな場所……校舎裏はゴミ置き場があって臭うし、焼却炉もあるから楽器がすすけるし、それ以前に誰か廊下を通ったら窓から丸見えだ。

 どこなら安心して吹けるのか、ああでもないこうでもないとテスト勉強以上に頭を回転させてうろうろしていたら、いつの間にか屋上へ続く扉の前に立っていた。

 屋上なら、と一瞬考えたけど、そもそも立ち入り禁止だし、いつも鍵がかかっているから入ることはできない。でも、時々屋上に入ってる生徒がいるのは知ってる。いつかドラマか何かで見たように、ピンか何かでピッキングしたりするのかなぁ。まさか合鍵を持ってる人なんかもいたりするんだろうか。

「あれ? 鳩村くん? こないなとこで何してん?」

 とりあえず引き返そう、そう思ったのと同時だった。後ろから名前を呼ばれたのは。

「なんか考え事でもしてたんか? 足音忍ばせてたつもりないんやけど」

 言葉にならない叫び声を上げて腰を抜かした僕を見て、くすくすと笑うのは――鴨部先輩だった。

「すっ、す、すみません……。ぼーっとしてたので、気付かなくて」
「今回のテスト難しいんか? まー学年トップの鳩村くんなら大丈夫やろうけど」
「学年トップではないです……」

 ほい、と差し出された鴨部先輩の手に、少し悩んで僕も手を伸ばす。僕が先輩の手を掴むより先に伸びてきて僕の手を掴んだ先輩の手は、少し冷たかった。

「ありがとうございます……。すみません」
「で、こないなとこで何してたん? ここは鳩村くんみたいな優等生が来るような場所じゃないで?」

 僕のような優等生。そう言って先輩はからかうように笑った。

 優等生だって言われるにこしたことはないんだろうけど、優等生優等生言われるのもプレッシャーを感じるというか、あんまり嬉しくなかったりする。みんなが思っているほど、僕は真面目な生徒じゃないから。
 優等生といえば、鴨部先輩も先生や先輩たちの間では、優等生って評判だったような。よく表彰もされてるし。

「えーっと……。実は、テスト期間中にも関わらず、フルートが吹きたくなって……」

 答えに困って、鴨部先輩こそ屋上に何をしに来たのか聞こうと思ったけど、質問に質問で返すのは失礼だし嘘を突き通せる自信もなかったから素直に答える。

「でも、家だとうるさいって言われるから、どこで吹こうかなって悩んでうろうろしてたら、なぜかここに辿り着いてたというか……」
「鳩村くんの家族だか近所の人だか知らんけど、神経質すぎるんとちゃう? フルートの音ってそこまでうるさくないやん。ラッパと比べたらマシやろ」
「受験生の妹がいるので、仕方ないかなと……」
「ああ、それやったらしゃーないな」

 腕を組んでうーんと唸ってすぐ、あ、と何かひらめいたように鴨部先輩はこちらを見た。

「せやったら、屋上で吹いたらええやん」
「えっ? おっ、屋上で?」
「屋上は本来立ち入り禁止やぞ? 分かっとるんかこいつって顔しとるな」

 やっぱり僕はすぐ顔に出てしまうタイプのようだ。あ、分かってるのか、までは思ってないよ。
先生の目を盗んで出入りしている生徒がいるのは知ってるけど、先生に見つかったら、なんて言いたくなるところが周りからすれば優等生なんだろうな。でも、怒られるのって誰だって嫌じゃない?

「律儀に校則守っとる奴なんておらんて。それに、鳩村くん優等生だから、ちょっとくらいはな」
「で、でも、鍵かかってますし……」
「そんなん、ちょいちょいって開ければええやん」

 ちょいちょいって、まさかピッキングっていうやつだろうか。
 ブレザーの胸ポケットからヘアピンを取り出して、それを南京錠に差し込む。……これってやっぱり、俗に言うピッキングだよね? 

「合鍵持ってる奴もおるけど、今日はそいつおらんからな。こういう時に限って上手くいかへん」

 合鍵持ってる人もいるんだ。そんな人が本当にいるのも驚きだし、鴨部先輩が屋上に来ていることも驚きだし、目の前で堂々とピッキングを始めたのもびっくりだ。

 上手くいかないと言っていた割に、その後すぐにかちりと鍵が外れた音がした。

「お、開いたで。先生に見つからんうちにはよ入ろうや」

 やっぱり僕、帰ります。そう言う勇気を出すより早く、鴨部先輩に背中を押される。とっさに出した右足は、敷居を越えて屋上のアスファルトをしっかり踏んでいた。
 入っちゃった、どうしようと焦る僕の背中をまた先輩が押して、今度こそ僕の両足は屋上のアスファルトを踏みしめていた。

「どや? 初めての屋上は。気持ちええやろ」
「は、はい……」

 気持ちいいというより、怖かった。高いところがじゃなくて、先生に見つかるかどうかが。

 ……でも、いつもより近くで見る空は、なんだか新鮮だった。

「先生に見つかったら、俺が勉強教えたる言うて俺に無理矢理ここに連れ込まれたとでも言うとき」
「で、でも……」
「フルートも好きに吹いたらええ。これも見つかったら俺が吹いてたことにするさかい、なんも気にせんで吹いとき」
「でも、それは」
「まー鳩村くんは優等生やから、そんなこと絶対言えへんやろ? 先生が来ないことを祈るしかないな」

 先輩の言う通り、いくら先輩がそうしろって言っても、人に罪を着せるなんて僕にはできない。いい子ぶってるって言われても、絶対に無理だ。そういう嘘って、だんだん苦しくなってくるから。

「でも、ここで吹いたら音でばれませんか?」
「フルートはそんなうるさくないから大丈夫やで。思ってるほど中にも外にも聞こえへん。安心せえ。俺もここでたまに吹いとるから嘘やない」
「そうなんですか?」

 言ってから、先輩はしまったと慌てた風な顔をした。

 茅ヶ崎くんと茅ヶ崎先輩以上に部活に来ないのにどうしてあんなに吹けるんだろうと思ってたけど、やっぱり誰も知らないところでこっそり練習してたんだ。

「いいからはよフルート吹きや。せっかく鍵開けてやったっちゅーのに、気ィ変わって勉強する言い出したらさすがの俺でも許さへんからな」
「すっすみません! フルート吹きます! 気は変わってません!」

 まだ心の中では先生に見つかったらどうしようとか、怒られるの嫌だなとか優等生の自分が思ってたりするけど、入ってしまったからにはもう開き直ろう。校則を破るのなんて、これが初めてじゃないんだから。校則をきっちり守ってる人なんているもんか。屋上に一度でも入ったことのある人なんて、僕が知らないだけできっと大勢いるんだから。

 フルートを組み立てて、音を出す前に小さく深呼吸。大きくブレスして、息を吹き込む。

 秋晴れの空の下で吹くフルートは、一日ぶりだからか、気分のせいか、とっても気持ちがよかった。
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