好きじゃなきゃ、続けてないよ


 今日のトロンボーンの個人練習及びパート練習に割り当てられた場所は視聴覚室だった。視聴覚室は普通教室から離れており、周りには普段先生も生徒もあまり出入りしない特別教室しかないため、辺りは静かだった。

 トロンボーンの音が止むと、カチカチと規則的にテンポを刻むメトロノームの音だけが室内に響く。

「毎日ぶらさがってるのに、毎日お風呂上がりに引っ張ってもらってるのに、全然7ポジに届かない……」
「大丈夫だよ、きっとそのうち届くようになるから」

 成子の少しずれた努力には突っ込まず、しょげる成子を有牛は適当に慰める。そんな二人のやりとりを見ながら、窓際で大げさにため息を吐いたのは凜。

「わたしも『7ポジ届かな〜い』って言ってみたかったなー」
「そんなこと隣で言われたら遠慮なくぶっ飛ばすけどね」

 凜のいう7ポジとは、正式名称は「第7ポジション」といい、トロンボーンの一番遠いポジションのことをいう。トロンボーンはトランペットなどとは違ってピストンなどはなく、スライドをポジションに移動させることで音を変える、少し特殊な楽器だ。一番手前が第1ポジションで、一番遠いのが先ほど説明した第7ポジションになる。

 7ポジは腕を目いっぱい伸ばして、人によってはさらに人差し指と中指にスライドを持ち替えてようやく届く位置にある。身長の低い人だとそれでも届かず、その場合は紐を結んでスライドを投げる。男子にしては小柄な成子は届かないので紐を使っているのだが、それが悔しいらしい。

「かわいくなくてわるうございましたね」
「顔面偏差値は関係ないけど?」

 女子の世代平均よりも身長の大きい凜は、紐を使わずとも7ポジまで届く。中学時代、彼女がトロンボーンに選ばれた理由はそれで、以来彼女のコンプレックスは腕が長いことだった。といってもぱっと見て長いと誰しも驚くような長さではなく、凜がそう思い込んでいるだけだ。

「なんか、トロンボーン吹き始めてからよけいに腕が長くなった気がする」
「いいことじゃん」
「よくない。中一の頃は7ポジに届くけどぎりぎりって感じだったはず」
「じゃあトロンボーンを吹いてたら腕が長くなるってことですね!?」
「あー……うん。そうなんじゃない?」

 適当に答えたにも関わらず、やったあ、と喜びの声を上げて早速ロングトーンに取り掛かり始めた成子を尻目に、凜は再びため息を吐く。

「この調子だと、そのうち成子くんに抜かされるんじゃない?」

 有牛に言われ、凜は顔をしかめた。

 成子がトロンボーンを始めたのは今年の春からで、小学校、中学校での吹奏楽の経験はなく、まったくの初心者。凜がトロンボーンを始めたのは中学一年生の時、春に吹奏楽部に入ると同時だった。

 あちらは一ヶ月と少し、こちらは五年と少し。凜が希望してトロンボーンになったわけではなく、五年経った今でも当時のことを思い出すと悔しくなるほどだが、それでも今まで続けてきたプライドがある。始めて数ヶ月の後輩に抜かされるなんて、そんなの悔しい。

 成子はまだ音域も広がっていないし、コントロールも甘いなど課題はたくさんあるが、トロンボーンに一目惚れして自ら希望したゆえに、練習は人一倍頑張っていた。今日も飽きることなく、基礎練習が終わるとひたすらロングトーンをしていた。

 与えられた課題や練習を、文句ひとつ言わずに黙々とこなしている成子を見ると、真面目だなと感心する反面、凜は焦っていた。少しずつできるようになっていくにつれて、基礎練習はだんだん面倒になってきてなあなあになっていったりするものだ。毎日の基礎練習、日々の積み重ねが大事だということは分かっていても、毎日同じことをやっているから飽きてしまってついサボったり、適当にやってしまう。

「その時はバストロに転向しよう」
「そこはもっと頑張ろうってなるところじゃないの?」
「わたし成子くんみたいにいい子じゃないんで」

 成子は一年で、凜は三年。凜が引退、もしくは卒業するまでに、成子が凜を抜かすことはきっとないだろう――と思いたいところだが、未来のことは分からない。成子が入部してまだ一ヶ月と少し。彼の才能はまだ未知数だ。

「ていうか、結局ボーンなんだね。ペットじゃないの?」

 凜が吹奏楽部に入部した時の第一希望の楽器は、トランペットだった。希望人数が多く、オーディションで落とされ、その後他の楽器で落とされた新入部員を含めてなぜか前ならえをさせられたかと思えば、その中で一番腕が長かったらしい凜がトロンボーンに半ば強制的に決められた。トロンボーンは第三希望までのどこにも入れていなかった。

 ちなみに、高校生になって今度こそはトランペットになるぞと意気揚々と吹奏楽部に入部したのだが、連の圧倒的才能には勝てず、そして負けを認めざるを得ず、経験者ということで結局またトロンボーンに落ち着いた。

「だって運指知らないし。あとほら、ベースってかっこいーじゃん?」

 通称バストロことバストロンボーンはトロンボーンの一種で、テナートロンボーンよりもベルが大きく、テナーバストロンボーンよりも低い音が出しやすい構造になっている。

 有牛にトランペットにしないのかと突っ込まれて、はっとしたのは内緒だ。今でもトランペットに未練はあるのに、冗談で言ったとはいえ、トランペットという選択肢は頭の中にまったくなかった。

「やっぱり羽柴、ボントロ大好きなんじゃん」
「……そりゃー、まあ、嫌いだったら五年も吹いてないよ」

 今でもトランペットを吹きたいという未練はあるが、それならトロンボーンなんてやめれば、と言われたら、じゃあそうする、とはなれなかった。本当はトランペットが吹きたかったのに、腕が長いからというだけの理由で選ばれたトロンボーンなんて、と時々心の中で文句を垂れることはあっても、気が付けばトロンボーンが大好きになっていた。あまのじゃくな性格ゆえに、大好きだと胸を張って言えないだけ。

「素直になりなよ。だから上手くならないんだよ、羽柴は」
「それ関係ある?」
「あるよ。好きこそものの上手なれ、って熊谷もよく言ってるでしょ」

 上手いことつなげられて凜は言葉に詰まる。下手だ下手だと言っていると本当に下手になるともいうし、その通りかもしれない。そう考えると、好きだから上手くなりたいと胸を張って言える成子は、今後めきめきと上達するかもしれない。

「とりあえずリップスラーやっとこ。最近サボってたし」
「やっとやる気出した?」
「わたしはもともとやる気満々だけど? 能ある鷹は爪を隠すって言うでしょ?」
「……羽柴は鷹というより鶏じゃ」
「わたしは三歩歩いても忘れないから! そこまで頭悪くないから! ……まー、あんたと比べたら頭は悪いけど……」

 有牛が凜を鶏と言ったのは、いつもリボンのついたヘアクリップで毛先が上を向くように留めている髪型が、鶏のとさかのように見えなくもないから。馬鹿にしたわけではない。

 もう少しからかってやろうか、と有牛は思ったが、せっかく凜がやる気を出したようなので今日はこの辺にしておいた。
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