帰りの電車で


「お疲れのところ申し訳ないんだけど、猫柳くん、隣いいかね?」

今日一日の疲れと、電車の心地よい揺れが相まって鞄を抱き枕についうとうとと舟をこいでいた時。不意に上から声が降ってきて奏斗ははっとする。呼ばれた自分の名前に驚いて顔を上げると、見慣れたクマの頭が目に入った。

「あっはい! どうぞどうぞ!」
「ありがとう。悪いね」
「いえいえ!」

慌てて腰を浮かせて少しだけ横に移動する奏斗。お礼を言って熊谷は隣に腰を下ろす。

頭はクマ、体は奏斗と同じ制服を着たこの不思議な人は、西高吹奏楽部の部長だったりする。

首から下は至って普通の男子高校生なのだが、その奇妙な頭に視線が集まることも少なくない。しかし慣れというものは恐ろしいもので、数日もすればすっかり慣れてその姿に疑問を抱く人はいなくなる。その証拠に、毎日ほとんど決まって同じ時間の電車に乗っているおかげで、ちらほらといる同じ電車内の乗客は誰もこちらに目を向けていない。

もうじきコンクールということで、今日も吹奏楽部はどの部活よりも遅くまで練習していた。そんなわけでこの時期はいつもより遅い電車に乗っている。ピークを過ぎた電車内には人の姿はまばらで、列車の車輪がレールの継ぎ目を通過するがたんごとんという音以外に、時折不意に息苦しそうにどこからか鳴る仕事帰りのサラリーマンのいびきくらいしか聞こえない。窓の外はほぼ真っ暗で何も見えず、電車内には一日の終わり特有の気怠さが漂っていた。

「ホームで見かけて、そういえば猫柳くんも同じ電車だったなぁって思ったものだから」
「そういえばそうでしたね」
「時間的にほとんど毎日同じ電車に乗ってるんだろうけど、こうして話をしたことってなかったなーなんて思ってね」
「そうですね。同じ部活だし、本数も少ないから同じ電車に乗ってるはずなんですけどね」

熊谷に言われてそういえば、と奏斗も思い出す。学校も部活も同じなのだし毎日同じ電車に乗っているはずだ。それなのに、ホームや電車の中で熊谷を見かけたことはほとんどなかった気がする。何度か寝過ごしそうになった時に熊谷が起こしてくれたことがたびたびあり、同じ電車に乗っていることは知っていた。

「私が見かけた時は大体熱心に音楽を聞いてたり、さっきみたいに寝てたりするからね。多分、私には気付いてないことがほとんどだと思うけど」
「す、すみません……」

図星を刺されて奏斗は俯いて肩をすくめる。

熊谷の言う通りだった。自分が相手の存在に気付いていないことがほとんどだったのだろう。吹奏楽部は基本的に朝も早ければ帰りも遅いので、仲のいい同級生と駅で顔を合わせることはほとんどない。話し相手もいないので、奏斗は電車に乗ったらさっさと自分の世界に入ってしまうのだ。

「いいんだよ。そもそも同じ部活というだけで、それ以上の接点はないわけだから、話しかけられても困るだろうしね」
「そんなことないですよ! ……でも、先輩と話すのは、ちょっと緊張しますけど」
「素直でよろしい」

はっはっは、と熊谷は特徴のある笑い方で笑った。

同じ部活といえど、学年も違うしパートも違うしでほとんど話したことはなかった。同じ吹奏楽部でもパートが違えば顔を合わせるのも久しぶりということもたまにある。基本的にパートごとに練習する教室が割り当てられるので、違うパートとは顔を合わさないことの方が多い。
今まで話したことといえば、熊谷は部長として、奏斗はパートリーダーとして、業務的なやりとりを数回した程度だ。お互いのことはほとんど何も知らない。

それから熊谷が他愛のない質問を投げかけて、奏斗がそれに答えるというのをしばらく繰り返していた。たまに奏斗が質問をする側に回ったり、脱線して全然違う話になったりと、気怠さの漂う電車内で、一角だけは盛り上がっていた。

「あ、えっと、俺ここで降りるので……。一足先に失礼します」
「お、もうそんなに時間が過ぎてたかね」

車内のアナウンスが奏斗の降りる駅名を告げ、電車がゆるやかに減速し始めて少しして奏斗は腰を上げた。
奏斗が降りるのは熊谷が降りるひとつ前の駅。朝、奏斗が電車に乗ってくる時には既に熊谷は電車に乗っていることを、きっと奏斗は知らないのだろう。朝練がある日は今のように人もまばらなので、挨拶ぐらいは、と思って声をかけようと思ったことは何度かあった。しかし乗った途端に鞄を抱え、動き出すとすぐに奏斗は寝てしまう。朝も早いし眠いだろうから起こすのは気が引けるので、諦めて離れた席に腰を下ろしていた。

「じゃあまた、明日部活で。話ができて楽しかったよ、ありがとう、猫柳くん」
「はい。俺もいろいろお話できて楽しかったです! さようなら」

電車が止まってドアが開くと、降りる前に一度こちらに振り返って軽く頭を下げて奏斗は降りていった。

ドアが閉まって再び電車が走り出した時に、ホームに奏斗の姿があったので軽く手を振ってみる。すると奏斗も笑顔で振り返してくれた。
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