キライだ。
そなたのことなど大嫌いだ。
行きたければ何処へでも行くがいい。
そなたが何処で如何しようと、
俺には何の関係もないのだから。
たとえ、
そなたが俺の側から離れようとも
そなたが俺の目の届かぬ場所に居ようとも
そなたが俺の知らぬ者と一緒に居ようとも
むしろ、清々する。
常に俺の後ろをついて回っていた小煩いのが居なくなれば
静かで職務も進むというものだ。
まったく…
俺の言葉の裏くらい、いい加減読んだらどうだ?
「あのね、三成。
大事な話があるんだけど。」
それは、ある晴れた日のことだった。
そろそろ桜のつぼみも綻びだし、皆が春の訪れを心待ちにする雪解けの時節。
そんな誰も彼も浮かれ気分の陽気の中、時の関白・豊臣秀吉の寵臣である石田三成は剣の練習の最中に同郷の出の上女中に声を掛けられた。
「なんだ、いきなり改まって。」
「あたしね、実は…」
思いつめた表情で三成に向き合う上女中。
艶ややかな黒髪を高いところでひとつに結ったその美しい少女は、名を名前といった。
「どうした、里帰りか?」
なにやら思案顔で思い悩む少女を不思議そうに見ながら、三成は己の頭に浮かんだことを口にする。
「里帰りはもういいの。」
「ではなんだ?
俺は忙しいのだ、用がないならあっちへ行け。」
そう言うと、三成は木刀を握りなおす。
その冷たい対応に、名前は唇を尖らせた。
「用があるから来てるんじゃない!
もーちょっとくらい付き合ってよ!」
ぱんぱんに頬を膨らませる名前を見て、三成はふーっと大きな溜息を漏らした。
「聞いているのに話さないのは名前だろう。」
「じゃあ言うわよ!
ちゃんと聞いててよ!」
やれやれと肩を竦める三成を睨みつけながら名前は意を決して口を開いた。
「あたし、京に行くことにしたの。」
そう言うと、名前は満足げに破顔一笑してみせた。
いつもはすかさず言葉を挟む三成も、この発言は予想の範疇外だったらしく、目を点にしている。
「……は?」
「は、じゃなくて。大事な幼なじみに餞の言葉くらいちょうだいよ。」
三成からのそっけない反応に名前は再度唇を尖らせる。
普段ならその子供のような仕草をからかう三成なのだが、どうやら今はそれどころではないらしい。
「…物見遊山か?」
「ううん、京に住むの。
秀吉様の許可はいただいてあるわ。」
「何をしに行く?」
「京で料理を学ぶの。」
「料理なら、堺でもできよう?」
たっぷりの沈黙の後、三成は矢継ぎ早に質問を繰り返す。
その質問に名前はひとつずつ答えていった。
「堺でも料理はできるけど…でももっと上手くなりたい。
だから京で修行するの。
すごいでしょ?」
「別に…今のままでも十分だと思うがな。」
「褒めてくれてるの?
めずらしい〜」
「べっ、別に褒めてはおらん!」
名前からの茶化すような発言に、三成は頬を真っ赤にして否を返す。
幼いときから変わらない三成のひねくれた態度に名前は小さく笑みを漏らした。
「あたしね、秀吉様にもっとおいしい料理を食べていただきたいの。
三成だって、そうやって毎日剣の稽古をするのは秀吉様の為でしょ?」
「それはそうだが…」
どうにか引きとめようとあれこれと言葉を並べていた三成だったが、秀吉のことを引き合いに出されては否定することはできない。
一方、口を噤んだ三成の様子を納得したからだと解釈した名前は更に己の心中を言葉にした。
「それと同じよ。
あたしにできるのはそれくらいだから…
三成みたいに戦に出られればもっとお役に立てるんだろうけど。」
「お前は戦になど出ずともよい。
…足手纏いだ。」
「ひっど!
そのときは俺が守ってやる!とか言えないの!?
三成の薄情者!」
「だから足手纏いだと言ったのだ。お前に構っていては、俺が身動きとれんだろう。」
そう言ってやれやれ、と肩を竦める三成。
その愛想の欠片もない言い草にきっと名前からの反発があるだろうと思っていた三成だったが、なぜか名前は顔を真っ赤にして三成を見ていた。
「なぜ急に黙るのだ?」
「みっ、三成のせいでしょ!!」
「意味が分からん。」
「もー鈍感!!」
首を傾げる三成と、その三成の態度に頬を膨らませる名前。
そんな二人の毎度の小競り合いに、たまたま通りかかった秀吉が首をつっこんだ。
「相変わらず仲がいいのぅ!」
「「秀吉様!」」
突然の主の登場に、二人は慌てて地面に片膝をついた。
「あーやめぃ、やめぃ!
どうしてそうワシだけ仲間はずれにするんじゃ、お主らは…」
それを見た秀吉はパタパタと右手を振って制止する。
そしていじけたように二人を見た。
「「仲間はずれ??」」
「ワシだってお主らと一緒に騒ぎたいんさ。
だのに…嫌がらせか三成!」
「秀吉様は私の主です。
礼節を尽くすのは当然です。」
秀吉のなんとも子供染みた言い掛かりに、三成は表情を変えることなく返答する。
その返事が余程気に入らなかったのか、秀吉は恨みがましい目で三成を見た。
「そんな建前はいいんじゃ!
のう名前?」
「まじめすぎですよねー」
三成に言ってもムダだと悟った秀吉は、その隣の名前に話を振る。
そして話を振られた名前は秀吉の期待通りの返答をしてみせた。
「そうじゃ、三成は真面目すぎるんさ!」
「秀吉様は不真面目すぎます。
こんなところで油を売っている場合ではないと思いますが。」
「お、おみゃあはいつからそんな可愛げのないことを言うようになったんじゃ三成―!」
「すべて秀吉様のお陰です。」
名前を味方につけて意気揚々と三成に文句をつけた秀吉だったが、見事三成からやり込められがっくりと肩を落とすのだった。
「あーぁ、秀吉様可哀想…」
トボトボと廊下を歩いてゆく秀吉の背中を見送りながら、名前は誰に言うでもなく呟く。
そしてそんな言葉など耳に届いていないといった表情で、三成は1番気に掛かっていたことを名前に問うた。
「いつ、帰る?」
「んーまだわかんないよ。」
「わからんことはないだろう。」
「なに、三成ってば、淋しいんだ?」
そう言うと名前はにやりと口角を上げた。
「ばっ、馬鹿を言うな!
なぜ俺が淋しがったりなど…」
「じゃあ別にいいじゃない。」
「一応聞いただけだ。」
そう言ってむすっとした表情をする三成を可笑しそうに眺め、名前はふと庭先の桜へ視線を移した。
「来年の…そうだな、あの桜の花が散るまでには帰ってくるよ。」
「随分と大まかだな。」
今を盛りと咲き誇る早咲きの桜を指さす名前。
その指を辿った三成は、来年、という単語に眉根を寄せる。
「ちょうど一年くらい。
一年で料理を覚えてくるから。
だから…」
そこで言葉を切って、名前は桜から再度三成へ視線を戻した。
それに気づいた三成もまた、名前を見つめる。
「だから、なんだ?」
言いかけて止めた先が気になるのか、三成は早く言え、と目で名前を促す。
しかし名前は軽く頭を振って言葉を濁した。
「ううん、なんでもない。
元気でね、三成。」
そう言った名前の表情は、三成にはどこか淋しげに見えた。
これから名前は京へ旅立つ。
それは名前自身が決めたことであり、たっての望みでもあった。
故に他人には、新天地への思いを胸に晴れ晴れとして見えるはずである。
だが、長年共に過ごしてきた三成には名前の小さな表情の変化もわかるのだ。
「…何?三成。」
三成は自分でも無意識に、擦れ違う名前の白くか細い腕を掴んでいた。
その突然の行動に不思議そうに振り返った名前の問いかけで、三成はやっと自身の突発的な行動を知る。
「あ、いや…」
「そーんなにあたしと離れがたい?」
狼狽して口籠る三成に、名前が軽口を叩く。
いつもは顔を真っ赤にして反論する三成だったが、この日は違った。
「本当に、京へ行くのは名前の意思か?」
「え?」
「お前は、喜んでいるときはそんな顔はしない。」
真剣な眼差しで名前を見据える三成。
三成からのその問い掛けに名前は返事に困った。
「それは…」
本音を言えば、見知らぬ土地へ行くことは不安だ。
京へ行ったからといって京料理の全てを習得できるとは限らない。
しかしそれでも京へ行く確たる理由が、名前にはあった。
「もちろん、不安はあるよ?
でも京へ行くことを決めたのは誰でもないあたし。
だから弱音は吐かないよ。」
そう言って儚げに微笑む名前に、三成はまだ得心がいかないでいた。
「心配してくれてありがとう。
まさか三成がこんなに心配してくれるなんて思ってなかったから、嬉しかった。」
じーっと、心底までも見透かすような三成の視線から逃れるように名前は話題を変えた。
「あ!そうだ荷造り途中だったんだ!」
わざとらしく手をぱちんと打つと、まだ何か言いたそうな三成に背を向け名前は足早に廊下を駆ける。
呆然とその後姿を見送る三成からだいぶ離れた頃、名前は不意に三成を振り返った。
「今までありがとう、三成!
あたし京でがんばってくるから!」
そう言って名前は大きく手を振る。
そしてその日の夕刻、名前は三成に別れを告げることなく大阪城を後にしたのだった。
名前が京へ旅立ってから、三成は誰の目にも明らかなほどに元気がなかった。
一切の隙を見せない彼には珍しく、日中もぼんやりすることが多かった。
その日も、縁側で物思いに耽っていた三成の隣には腹心の左近が心配そうに付き従っていた。
「殿、少し風が出てきました。
そろそろお部屋に戻られては?」
「…俺のことは構わなくてもいい。」
「そういうわけにはいきませんよ。
殿が風邪でも召されては、俺がねね様から怒られちまいますからね。」
左近の忠告にも知らん顔で縁側に腰掛け続ける三成に、左近は自身が着ていた羽織をかける。
「風邪など引かん。
名前じゃあるまいし。」
そう口では悪態を吐きながら、無意識に三成から出た幼馴染の名前に左近は主の心中を察してか苦笑を漏らした。
「そういえば、名前殿はお元気なんですかね。」
「知らん。
文のひとつも寄越してこんからな。」
つい口をついて出た名前の名前に、三成自身も心中ではかなり狼狽していた。
しかしそれを左近に気取られるのは癪なのか、そっけなくそう言うと左近に羽織を返し立ち上がる。
「部屋に戻る。
そういえば、越後の直江から文が来ていた。」
「お疲れでしたら左近が処理しておきますよ。」
「別に疲れてなどおらん。
それに、そういうことは俺の仕事だ。」
「しかし…」
「お前にはお前の仕事があろう。
さっさと部屋へ戻れ。」
後ろをついてくる左近を私室の前で追い返すと、三成はひとり部屋に篭った。
結局その日三成は、食事も取らずに部屋に引っ込んでいた。
左近が声を掛けても、ねねが握り飯を持って行っても、三成は顔を出さなかった。
そのいつも以上に熱心な仕事ぶりに、城の者たちは皆、三成が淋しさを紛らわせようと執務に没頭しているのだと口々に噂していた。
「三成ったら、ご飯も食べずに大丈夫なのかしら…
ねぇ、お前さま?」
夕方食事を運んでいって門前払いを喰ったねねは、寝所に戻ってもまだ三成を心配していた。
しかしその心配をよそに、秀吉は既に夢の中にいた。
「もう!三成のこと心配じゃないの!」
隣でグースカと高いびきをかく秀吉の鼻をむぎゅっと掴むと、ねねは厠へ行こうと立ち上がる。
そしてちょうど庭へと続く廊下に差し掛かったとき、縁側の柱に寄りかかる黒い人影を見つけた。
「まぁ三成!
もーこんなところで寝て!」
庭から吹く風を真正面から受けて眠る三成を起こそうと、ねねは何度もその肩を揺する。
しかし三成が起きる気配はない。
「こーらっ!
起きなさい!」
日中は暖かくなったとはいえ、夜に浴衣1枚ではさすがに寒さを感じる時節だ、風邪でも引いては大変だ、とねねは三成を揺すり続けた。
それでも余程眠りが深いのか、三成は身動ぎひとつしない。
「まったく、しょうがない子だねぇ。」
「…くな…」
「え?」
腰に手を当て、大仰に溜息を漏らすねねの耳に小さな声が届いた。
どうやら三成の寝言らしい。
「かわいいトコあるじゃないの。」
寝言の内容は聞こえなかったが、普段大人ぶって強がっている三成の子供らしい仕草に、ねねは口元を緩めた。
しかしはっきりと耳にした三成の言葉で、その微笑も悲しげに歪む。
「名前…行くな…」
「三成…アンタって子は…」
俯いて眠る三成の表情はねねには見えなかったが、その悲しげな声音だけで三成の心中を知るには充分だった。
気がつけば、名前が京へ旅立ってから早1ヶ月が経とうとしていた。
「はくしゅん!」
次の日、案の定風邪を引いた三成は左近の小言付きの看病の下、仏頂面で布団の中に居た。
「殿、だから言ったでしょう?縁側で寝ては寒いですよ、と。」
「俺はそんなところでは寝て居ない。」
鼻詰まり声で左近にそう返すと、三成はぷいっとそっぽを向く。
その様子を見て、左近は三成に知られないように嘆息した。
「ならば部屋で寝て、どうして風邪を引くんですか…」
「知らん。」
額を押さえ頭を振る左近を視界の端に認めながらも、三成は左近から顔を背け続ける。
そんな三成の態度に左近が何事か言いかけたとき、ちょうと左近の後ろの襖が開いた。
「三成!お粥だよ!」
「…おねね様。」
お盆を持って部屋に現れたのは、昨晩散々三成を起こそうとしていたねねだった。
「ほー粥ですか。まさかねね様がお作りに?」
「なによ左近。
何か問題でもあるの?」
「いえいえ!
殿はお幸せですね。」
ねねに凄まれた左近は空笑いを浮かべると、そそくさと座を譲る。
そして左近がどいた枕元に土鍋の乗った盆が置かれた。
「さ、三成、いっぱい食べて早く元気になるんだよ?」
そう言うと、ねねは匙で掬った粥を三成に向ける。
「あの…おねね様?」
「ほら、早くあーんしなさい。」
問答無用で三成の口元に匙を運ぶねねに、三成は思いっきり顔を顰めた。
「こんなときに名前が居てくれたらねぇ…
三成も早く良くなるんだろうけど。」
結局ねねの手から粥を取り上げ、黙ってそれを口に運ぶ三成を見ながらねねがぽつりと言った。
その一言に、三成も左近も一瞬動きを止める。
「でも三成、アンタは幸せ者だよ?」
「…何がですか。」
名前の名前が出たことで、三成はわざと眉間に皺を寄せた。
そうでもしないと、置いてけぼりをくらった幼子のような心細さが露見してしまいそうだったからだ。
「名前は三成の為に、京まで修行に出たんだから。」
「俺のため?」
「三成は好き嫌いが多いでしょう?
そんなんじゃ長生きできないから、って名前は料理の勉強に出たんだよ。」
ねねの口から明かされた思いがけない真実に三成は目を見開く。
それは隣の左近も同じだったようで、絶句して三成の横顔を見つめていた。
「そんなことに気を遣わずとも…」
「あたしも心配だったからね、名前が京に行くって言ったときは思わず賛成しちゃったんだよ。
三成の好き嫌いは名前が1番よく知ってるからね。」
そう言うとねねは、三成が土鍋の蓋に出した梅干を茶碗の中に無理矢理戻した。
「でも、淋しいでしょ、三成。やっぱり止めればよかったかしら…」
嫌いなものを茶碗に戻された三成はぶすっとした表情でねねを見る。
しかし見慣れた三成の悪たれ顔など気にならないのか、ねねは頬に手を当てるとふーっと溜息を漏らした。
「たとえおねね様が止めても、名前は京に行きますよ。
名前は一度自分でこうと決めたら、誰の言うことも聞きませんから。」
「そうかしら?」
「それに、来年の桜が散るまでには戻ると言っていました。」
「それであんなところで寝てたの?」
「やっぱり…」
呆れたようにそう言ったねねの言葉に、後ろに控えた左近が溜息を漏らす。
それに気づいた三成が左近を睨むも、既に後の祭り。
名前を京へやったことを後悔しているねねを慰めるために発した言葉だったか、どうやら三成は墓穴を掘ったらしい。
「いいかい、三成。
名前が京から戻ったら、今度こそ名前を放しちゃだめだよ?」「考えておきます。」
「ほんと、素直じゃないんだから…」
ねねの作ったお粥を完食した三成は、左近の小言から逃れるためにもぞもぞと布団にもぐりこんだ。
「殿、こちらにいらしたんですか。」
季節の巡りとは早いもので、名前が京へ修行に出てから早1度目の冬が来た。
そしてその冬も既に雪が融け始め、春の息吹が感じられるほどになっていた。
「何か用か。」
「何か用かじゃないですよ。
先程から秀吉公がお呼びだってのに、部屋にも居られないし道場にもいらっしゃらないし…左近がどれだけ探し回ったと思ってんです?」
欄干に腰掛け呑気に茶を啜る三成を見て、がっくりと肩を落とす左近。
だが当の本人はそんな左近の労苦などまったく意に介さない様子で腹心を見ていた。
「そんなことで軍師が務まるのか?
まだまだだな、左近。」
城中を走り回った挙句、諌めた主から帰ってきたのは嫌味。
さすがの左近も疲労と心労でその場にへたり込んだ。
「まったく、殿ってお人は…」
「見ろ、城下の梅が咲いた。」
蹲って頭を抱える左近に、見ろとばかりに窓から見える城下を指す三成。
近頃では珍しい機嫌の良い声音に、左近は三成の言わんとした意味を悟る。
「殿が梅を愛でるとは…余程庭の桜が待ち遠しいんですね。」
「べっ別に待ってなど!!」
先程の仕返しとばかりにニヤつく左近に、頬を朱にして三成が怒る。
「いいんですよ、殿。左近はちゃーんとわかってますから。」
「まだ言うか!!」
にやける左近がよっぽど気に障ったのか、三成は懐から扇を取り出すと、それを左近目掛けて投げつける。
「いてぇ!
何するんですか殿!」
「自業自得だ!!」
恨みがましい目で自分を見る左近に一瞥を残し、三成は秀吉の下へと向かった。
「お呼びですか、秀吉様。」痛い痛いと喚く左近を放置して、三成は秀吉のところを訪ねた。
普通ならば襖を開ける前に一言断りを入れるものなのだが、秀吉と三成の間には必要ないらしく、三成はそのまま襖を引く。
「おぉ!遅いぞ三成!」
「すいません。」
なにやら巻紙を手にした秀吉は、こっちへ来いと三成を手招く。
それに従い、三成は秀吉の御前に腰を下ろした。
「実はさっき名前から文が届いてな。」
「名前から?」
「三成は元気か?と、随分心配しておるぞ。」
そう言って渡されたのは、よく見知った名前の筆跡だった。
僅か1年にも満たないというのに、三成はその文字を見るのが何年ぶりにも思えた。
「名前のくせに無用の気遣いを…」
「おみゃあは捻くれておるから、正則や清正と喧嘩しておらんか心配なんじゃと。
吉継と左近に、三成をくれぐれも頼むと付け足してあったわい。」
「…そうですか。」
そう付け足された秀吉の言葉に、あからさまに眉間に皺が寄る三成。
どちらかといえばあまり感情を表に出さない三成の分かりやすいまでの表情の変化に、秀吉は思わず噴出した。
「…なんですか。」
腹を抱えて笑い転げる主に冷めた視線を投げ、三成は声を低くして問い掛ける。
それさえも可笑しくて仕方ないのか、秀吉は更に転げまわった。
「三成も、まだまだじゃのう。」
先程自分が左近に放ったのと同じ言葉を返され、三成の眉間の皺はより深さを増す。
だがこれ以上秀吉に何か言っても糠に釘だと思ったらしい三成はまだ笑いの収まらない秀吉をそのままに手紙に目を落とした。
「…秀吉様、この文途中で切れてませんか?」
「ん?あぁ…」
さらさらっと目を通していた三成はその手紙が不自然なところで途切れていることに気づく。
しかも1番重要な、いつ帰るかについて言及したところだ。
「流石は三成、気づいてしまったか〜」
「誰でも気づきます。
そういえば、で終わる文など、あるはずがありません。」
「そうか、それもそうじゃな!でも名前ならばやりかねんけどな!」
「いくら名前でも、秀吉様にそんなふざけた文は寄越さんでしょう。
一体何を隠してるんですか。」
はっはっは!と笑って誤魔化そうとする秀吉に詰め寄る三成。
じーっと自分を見つめる三成のやや鋭い双眼に諦めたのか、秀吉は急に真面目な表情を作った。
「実はな、名前の帰りが少し遅くなるそうなんさ。」
「…そうですか。しかしなぜそれを私に隠すんですか。」
気まずそうにそう言った秀吉を三成は間髪入れずに問い質す。
しばし間を空けてから、秀吉は労わるような視線を三成に向けた。
「三成が知ったら悲しむじゃろう?
だからねねが三成には見せるなと言って切ってしまったんさ。」
「おねね様が…」
そう言って眉を下げる秀吉を見て、三成は要らぬ心労をかけてしまったと申し訳なく思った。
本当はその手紙を見せろと詰め寄りたいところなのだろうが、秀吉にそんな顔をされてはさすがの三成も気が引ける。
それに加えて自分に向けられた秀吉とねねの気遣いが伝わったのか、三成はそれ以上秀吉に手紙について問うことはしなかった。
それから秀吉と世間話などして、三成は秀吉の下を辞した。
だがその間も、名前の帰りが遅くなるという事実が三成の心に重く圧し掛かっていた。
「殿、どうかなさったんですか?」
その後部屋に戻った三成は、先に部屋に居た左近に一言も声を掛けることなく座布団を枕に寝転がった。
「さっきまではあんなに上機嫌で梅が咲いたとおっしゃってたのに…
秀吉公にお叱りでも受けましたか。」
「…なぜ俺が秀吉様から怒られねばならん。」
「殿がしょげるのは、大概秀吉公に叱られたときですからね。もう随分長いこと殿の側に居るんです、そのくらいわからん左近じゃありません。」
相変わらず背中を向けたままの三成だったが、返事が返ってきたことに左近は一安心した。
機嫌の悪いときの三成は返事など一切返さないし、何よりそんなときの三成には近づかないのが1番の得策だと左近はよく学んでいる。
故に面倒臭げではあっても返答があったことで、左近は三成の機嫌が悪いわけではないと悟ったのだった。
「で、一体どうなさったんです?
左近でお力になれることなら、いくらでもお手伝いしますよ。」
「左近に言っても、どうにもならん。」
「おっと、これは手厳しい。
しかし左近の軍略に死角はありませんよ?」
三成に邪険に扱われても左近は引き下がらない。
どうしても諦める気のない左近に降参したのか、三成はぼそりと呟いた。
「…名前の帰りが遅くなるのだ。」
その落ち込んだ三成の声音に左近は返す言葉を見つけられなかった。
あれだけ梅だなんだとはしゃいでいただけに、その落胆は顔を見ずとも容易に想像できた。
「そうだったんですか…」
「だからどうにもならんと言ったのだ。」
左近が気遣わしげに自分を見ていることを背中で感じた三成は、そっけなくそう言うとおもむろに立ち上がる。
「どちらに?」
「厠だ。
そんなことまでお前に言わねばならんのか?」
「では左近もお供を…」
「…ついてくるな、鬱陶しい。」厠にまでついてこようとする左近を一蹴して、三成は襖を開けた。
左近には厠へ行くと言った三成だったが、足は自然と庭の桜に向かっていた。
名前の帰りが予定より遅くなるとは聞いてもまだ希望を持っていたかったのかもしれない。
「桜よ、お前はまだ咲かんのか?」
庭の中ほどにある立派な古木の前に立ち、三成は小さな声で問い掛ける。
もちろん返事がないことなど承知しているが、三成はあえて桜に話しかけ続けた。
「咲かんのならば、もう少し待て。
名前の帰りが遅くなるのだ。」
その姿は、傍から見れば滑稽なことこの上なかった。
なにせ寡黙で知られる三成が桜の幹を撫でながら何やら独り言を呟いているのだ、もし誰かがその姿を見止めたら、三成は気が触れたのだと城中に広まることであろう。
それだけ、この時の三成の行動は常の彼からは想像もできなかったのである。
「名前はお前を愛でることが好きだった。
毎年、桜が咲いたと問答無用で此処まで引き摺られたものだ。」
そう言うと、三成は懐かしそうに目を細める。
物言わぬ桜が相手だからか、三成は普段よりも饒舌になっていた。
「だから、もうしばし待って。
名前の帰りを、その満開の花弁で迎えてやってくれ。」
“頼む…”
最後は小さな声でそう請うと、三成は桜の幹に額を当てた。
しかしいくら三成が願おうとも、桜は桜の頃合を見計らって咲くものだ。
名前が城に戻ろうが戻るまいが、桜には桜の都合があろう。
「ふっ、俺は何を馬鹿げたことを…
桜に話し掛けるなど、重症だな。」
どうやらそのことに気づいたらしい三成は、ひとり自嘲を漏らす。
「これではまるで、俺が名前を恋しがっているようではないか。」
強がってそう声にしてみるも、あまりにも的を射た言葉に三成は余計にげんなりした。
左近に言われようともねねに言われようとも頑なにそれを否定してきたというのに、自身の口から出て初めて、三成は名前の存在の大きさに気づく。
「…早く帰って来い、馬鹿者が。」
空に向かってそう悪態を吐くと、三成は部屋へ戻るべく踵を返した。
庭にある桜の木から沓脱石までは少し距離がある。その間を三成は足元に視線を落としたまま歩を進めた。
「三成!」
足を進める間も、三成の頭の中は名前のことでいっぱいだった。
それは自分を呼ぶ名前の声が聞こえるほどに。
しかしやけに現実味のある声量に、三成は無駄だとわかっていながらも辺りを見回す。
「…名前?」
庭には誰もいないはずだった。
少なくとも、三成がやって来たときには誰もいなかったのである。
だが視線を上げた沓脱石の上には、よく見知った姿があった。
「いや、まさかな。」
しかし名前は今は京のはず。
遂に幻覚を見るとは、いよいよ己も気が弱ってきたのかと三成は痛む頭を押さえる。
「えへへ、ただいま三成。」
だがその幻覚は口を利いた。
それも、三成が1番待ち望んでいた言葉を。
「…本当に、名前なのか?」
「え?三成大丈夫?
ほら、手も足もちゃんとあるよ?
あたし幽霊じゃないからね?」
これでもかと目を見開いて固まる三成の前で、名前は手と足をぶらぶらと揺らしてみせる。
その気の抜けるような仕草は間違いなく名前ではあったが、三成はまだ信じられない。
「しかし帰りが遅れるのではなかったのか?」
「え?」
「秀吉様がそうおっしゃっていた。」
「秀吉様が?
おっかしいな、あたしは早めに帰るって書いたはずなんだけど…」
そう言って首を傾げる名前の様子に、三成は状況を悟る。
脳裏に、してやったり顔で笑う己の主の顔を思い浮かべながら。
「…そうか、秀吉様に謀られたか。」
「なになに?どういうこと?」
先程見せられた手紙は、筆跡からして名前のものであることは間違いなかろう。
しかし名前の帰りが遅れるという下りは三成は直接目にしてはいない。
「あんな手に引っかかるとは…」
「もーだから何!!」
状況がわからずジタバタする名前を放置して、三成は沓脱石へ上がった。
そして何も言わずにただただ名前を見つめる。
「あの〜三成?
なんで急に黙るの?」
その視線に居心地の悪さを感じた名前は窺うように三成の顔を見る。
「…もう、京へは戻らんのか。」
「うん、修行はもう終わったの。
かーなり上手くなったんだから!」
そう言って幼子のように胸を張る名前。
その様子に三成は柔らかく笑んだ。
「そうか。」
「三成の好きなものもいっぱい習ってきたから、今度作ってあげるよ。」
「俺の為にわざわざ悪かったな。」
「そうそう、三成の為に…って違うよ!
秀吉様の為だってば!」
三成に釣られた名前だったが、大慌てで訂正する。
そのおろおろとうろたえる名前の姿に、三成は久しぶりに大声を上げて笑った。
「…何笑ってるのよ。」
「今更何を隠す?」
「隠してないもん!
本当にあたしは秀吉様の為に!」
これでもかと顔を赤くして否を唱える名前。
仕舞いには頬まで膨らませ始めた名前を、三成は思い切り強く抱き締めた。
「みっ、三成!?」
突然の三成の行動に名前は固まる。
急に大人しくなった名前にくすりと笑みを零すと、その名前より頭ひとつ分背の高い三成はちょうど顎の辺りにある彼女の旋毛に軽く顔を寄せた。
「全部おねね様から聞いた。」
「お、おねね様〜!
言わないって約束したのに!」
三成の言葉に名前がポカスカと三成の背中を叩く。
しかし力が入っていないのでまったく痛くない三成は、照れて暴れる名前の頬を両手で挟むと、無理矢理顔を上げさせた。
「だからなぜ隠すのだ。」
「だって…なんだか押し付けみたいで嫌だったんだもん。」
否応無しに三成と視線を交えた名前だったが、小さな声でそう答えると気まずそうに目を泳がせる。
そして名前の言っている意味がわらかない三成は、再度名前に問い掛けた。
「押し付け?」
「三成の為に、なんて言ったら、恩着せがましいでしょ!」
相変わらず三成から視線を逸らしたまま、名前は答えた。
その返答に、三成は大仰に溜息を吐く。
「まったくお前は…」
「ほら!やっぱり呆れた!!」
三成の溜息に、名前は傷ついたように目を見開く。
そして挟まれて膨らませにくい頬を目一杯膨らませた。
「今更俺に気を遣う必要がどこにある?そういうことは、先に言っていけ。」
リスのような名前の表情に噴出しそうな三成だったが、なんとか真剣な顔を取り繕う。
しかし三成の眉間に寄る皺を見て、名前はぷいっと三成から視線だけを逸らした。
「先に言ったってどうせ『俺に構わずどこへでもさっさと行け!』とか言うくせに!」
「先に聞いていれば、何が何でも引き止めたものを。」
「…え??」
「鈍感は、名前の方だ。」
聞き間違えたのかとぽかんとして三成を見上げる名前に、三成はそっと口付けた。
まさかのことに名前は大きな瞳を零れんばかりに見開いて絶句している。
「急にいなくなりおって、馬鹿者め。」
金魚のように口をパクパクさせていた名前は、“バカ”の一言に唇を尖らせる。
「…バカは三成でしょ。
ずっと気づいてなかったくせに!」
そう言ってお互いに睨み合う三成と名前。
しかしどちらからともなく噴出すと、大声で笑い出した。
「もう、何処にも行くな。」
「しょうがないなー三成は甘えん坊なんだから。」
「誰が甘えん坊だ。」
真摯な表情で乞う三成に、軽口を返す名前。そんな名前の額をぺちりと叩く三成。
これまでと同じじゃれ合いではあったが、二人の表情はこれまで以上に楽しげだった。
「よかったわね、左近。」
「本当ですね、ねね様。
あんな殿、いつぶりに見たことか…」
童のように無邪気にはしゃぐ二人の姿を、ねねと左近、そして庭の桜が暖かく見守っていた。
スキだ。
この世の誰よりもたまらなく好きだ。
何処にも行くな。
俺の側から離れるな。
もし仮に
名前が居なくなったら
名前の姿が見えなくなったら
名前の声が聞こえなくなったら
俺はきっと、生きてはいけない。
常に名前が側に居ることが当たり前で
その笑みが俺に向けられることが当然だと思っていた。
そして名前が居なくなって初めて
それが特別なことだったのだと知った。
口にせずとも伝わるなどと
そんなことあろうはずがないのにな。
だから俺はこれから
出来得る限りの言葉を紡ぐ。
名前にこの想いを伝える為の言葉を。
☆END☆
tesoroの橙波様より
20090418