「おかえりなさ……」


言葉の終いを聞き終える前に、腕を引いて名前を抱き寄せた。
幾日も戦場に身を晒していた名残だろう、力加減を誤ったかもしれない。
痛みに名前の眉間に軽く皺が寄った気もするが、今の俺にそんなことを斟酌してやれる余裕などない。
やはり加減の利かない指先で名前の顎を強引にすくいあげ、半ば噛みつくように唇を吸い上げた。

舌を捩込む。
たいした抵抗もせずそれを受け入れるのは、名前に恥じらいがないからなどではなくて、戦を終えて戻るたびに繰り返す俺と名前の儀式のようなものだからだ。
吐息まで喰らいつくすような荒い口づけを交わしながら、いつだったか酔った幸村が照れ臭そうに告白した言葉を思い浮かべる。


−−命を奪ったあとはいつも血が高ぶります。己が人ではない一頭の獣にでもなったような錯覚を覚えるのです。いくつも戦を重ねておいて情けない話ではありますが。血を鎮める方法? それこそ情けないかぎりですが、女子を−−


情けない。果たしてそうだろうか。
人が人を殺めることは原始的な禁忌に違いない。
その禁忌に触れる罪悪感をだれのせいにもせず自分の中で処理するとすれば、行為自体を快楽に変えるか、己を人ではないなにかだとごまかす以外に方法はない気がする。

呼吸もままならないのだろう、名前の瞳に涙が滲む。
いくらか頭が冷静になってきた。
苦しみながらも俺の背中に腕を回し、子供をあやすようにぽんぽんと宥めてくれる名前がたまらなく愛おしいと認識できるほどには。
幸村流に言えば「血が鎮まって」きた。

だが幸村。俺はおまえと違う。
俺は獣ですらないのだ。
俺が獣であったなら、このまま名前を思うさま抱いていつしか疲れて眠りに落ち、人間としての俺に戻れたことだろう。
しかし戦場で敵という名の命を奪うほかに、俺にはやらねばならぬことがある。
戦奉行として、軍規を乱した者や敵に通じた者を裁かねばならぬ。
死罪を命じなければならない者もいるだろう。
俺は獣にもなれない。
味方の命まで奪う俺は、獣などという崇高な生き物ではない。
戦が終れば逆さまに味方を手にかける俺は、獣なのか鳥なのか曖昧な蝙蝠。


背中を繰り返し柔らかく叩いていた手は、いつの間にか俺の髪を撫でていた。
さきほど滲んでいた涙が伏せられた瞳から零れ落ちている。
俺の心の高ぶりはほとんど凪いでいて、執拗に絡めていた舌もすでに互いのあるべき場所に収まっていた。
それでも名前は俺から離れようとはしない。
息もできぬ苦しさの中、こいつはこいつで戦っているに違いない。
俺に俺を取り戻させる戦いを。

名前の頬を両の掌でくるむ。
今日はじめて、おまえに優しく触れることができた。
瞼は下ろされているし唇は俺が覆っているから表情は判別できるはずもないのに、名前が微笑んだことはわかった。
ようやく蝙蝠が人に戻ったことを名前は感じたのだろう。

名前。もう少しだけこうしていさせてくれ。
人として名前に触れていたいから。
どうせまた俺は蝙蝠に変わるだろうが、おまえはちゃんと俺を人に戻してくれるのだろう?

指先にこびりついた乾いた血が、名前の涙で溶けて流れた。


(end)



菊に盃の菊様より

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