鍵穴も何もなく、扉は木でできていたんだと思うが、興味もないから覚えちゃいない。 バスタブの中にお湯ははらず、シンとした空間で声を張り上げることもせずに僕らはただ身を寄せ合っていた。 彼が僕をジョバンニと呼ぶので、僕は彼をカムパネルラと呼んだ。 コンクリートの剥げ落ちた天井を眺めながら、呼吸を繰り返す。そして、僕らは時々言葉を交わす。
「ねえ、ジョバンニ。次に聞こえてくるのは女の悲鳴か、列車の汽笛か」
「列車の汽笛だよ、カムパネルラ。さっきから交互になっているもの」
僕らは耳を澄ます。 どこかで硝子を引っ掻いたような音が聞こえたが、それが女の悲鳴なのか列車の汽笛なのかはわからなかった。 くすくすと、微かにカムパネルラが笑った。
「何がおかしいんだい?」
僕が聞けば、カムパネルラの青い瞳が僕を捕らえて、またくすくすと笑う。 だから、僕もはにかんだように笑ってしまった。
「寒くなってきたから」
「寒いと君は笑うのかい?」
「ああ、そうだよ、ジョバンニ。だっておかしいじゃないか」
わけがわからなかったが、カムパネルラが今度は、あははと声を出して笑い始めた。 だから、僕も声を立てて笑った。
「ねえ、カムパネルラ。次は何の音が聞こえると思う?」
僕の問いにカムパネルラは答えなかった。 代わりに、ガチャリと近くで音が鳴る。
だから、僕らは身を寄せていたあの頃が好きだった。 もう戻れないと知っていたから、僕らは静かに呼吸をして、時々言葉を交わしたのだ。 名前を思い出せない。 彼の名を、そしてあの空間の名を。 扉は開いてしまった。 後戻りはできないのだ。 それでも、それでいいと君は笑うだろう。 閉じたふたりの世界は、永遠に閉ざされたまま。
僕らは、あの部屋を思い出すこともなく、お互いそれだと気付かないまま雑踏に佇んだ。
hired by ジューン <バスルームがすべてだったあの頃の僕らへ>
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