グリニッジの虹 グリニッジの虹 ある天気のいい日、ロムニーはアクアリウムの外へと出た。 さわやかな風が庭を横行して、時折ロムニーのふわふわな髪をくすぐった。この髪は大好きないとこに似ているから自慢の髪でもある。ロムニーは風が過ぎていくたび、彼を思い出していた。 今はどこを旅しているだろう。何をしているだろう。 いつ帰ってくるのかな。 ロムニーのいとこであるメリノは世界を旅している。日常や非日常、普通や不思議を追い求めて海や空を渡る。時には、まったく別の世界へ行くこともあると言っていたが、まったく別の世界には行ったことがないので、ロムニーは「へえ」と頷いただけだった。 さて、時刻は1時を過ぎたころである。もう少し日が傾いてきたら植物に水をやらねばならない。その時間がもっとも適していると、また別のいとこから聞いたので、これは最早ロムニーの日課となっていた。 それまでお茶でも飲もうと、アクアリウム内へ引き返そうとしてロムニーは足を止める。 目の端に光を見た気がした。 「虹……?」 そこにあったのは、確かに虹だった。 花が終わった植物の根元から、地面へかけてひざ下ほどの小さな虹が出ている。 雨が降ったわけでも、水をやったわけでもない。なのに、そこに虹があった。 なんで、と呟こうとして、メリノの言葉が脳裏をかすめる。 《庭に出る虹には近づいてはいけないよ》 ロムニーは息をのんだ。あの時は、庭に虹なんて出ないよ。虹は遠いお空にかかるものだよと笑っていたが、いとこが言っていた虹は本当にあったのだ。ロムニーはメリノの忠告など忘れてしまったかのようにそれに近づいた。 虹なんて間近で見たことがなかったし、この光に惹かれないものなどいないでしょう? そうして、ロムニーは虹に手を伸ばした。 風が吹く。さあっと、庭の土を巻き上げて。 そこにはもう、小さなロムニーの姿はなくなっていた。 次にロムニーが目を開けた時、そこは空も地面も曖昧な世界だった。 足元にも頭上にも、青空が広がっている。でも、それは地面に薄く張った水のせいだということはすぐに気が付いた。 「ロムニー」 ここはどこだろうと思うより早く、声を掛けられる。振り向けば、そこには焦がれてやまない、いとこが立っていた。 「メリノ」 「ふふ、きみはまったく……。庭に出る虹には近づくなって教えなかった?」呆れるような口調とは違って、穏やかに笑っている。近づいて、両手で手を握られた。ロムニーはどこか夢見心地で、今目の前にいるのは本当にメリノなのだろうかと疑った。けれど、額が近づいて、こつんと当たった頃には、彼が本物であるとロムニーは確信した。 「ごめん」 「悪いと思ってないね?」 言い当てられて、ロムニーもまた笑う。 「ひさしぶり」 どちらからともなく呟いて、ロムニーは足元に波紋が広がるのを見た。 この場所は静かだった。 メリノとロムニーの音以外は何も聞こえない。 そこで、二人は指を絡めて歩いていた。どこだかわからないこの場所で、ロムニーにはメリノから発せられる指先の熱だけが真実だ。 「きみ、もうあの虹には近づくなよ」 ひどいことを言うと思った。あの虹が、遠く離れたロムニーとメリノを繋げてくれたのに。 あれを見つけたら近づいて、また君へと会いに来たい。けれど、その願いは聞き遂げられることはなかった。 「まいごになるよ、ロムニー」 まいご、そういった時だけ確かに声色が変わった。それを恐れているとでもいう風に、ぐっと手に力が入る。 「ここはね、虹をすり抜けた先の何もない場所だよ。時間はバラバラに動くし、やがて自分の色も忘れてしまう。きみは、もうナナイロの光をすり抜けたんだ。ここへ長くカタチを留めていることは難しいんだよ」 「でも、きみと会えた」 「たまたまね。きみ、虹をすり抜ける前ぼくのことを考えていたろ。つまり、そういうことなんだ」 そういうことって?とは聞かなかった。もし、考えていた人とここで会えるのだとしたら、メリノもロムニーのことを考えていたのだろうか。それなら、嬉しいなと思った。偶然でも、不思議でも、君に会えるのなら。 「メリノ」 「んー?」 「帰り方がわからなくなっちゃうなら、ぼくらはここにずぅっとふたりきりってこと?」 メリノがきょとんとした顔で僕を見る。そして、おかしいとでもいうように大声で笑いだした。 「な、なに!」 「ロムニーはいつまでたっても子どもだね!」 バカにされている。メリノはロムニーのことをしょっちゅう子どもだとからかうけれど、同じくらいの年なのにと憤慨する。 「ロムニー、ぼくを誰だと思ってるの?」 帰る方法はあると暗に仄めかすメリノに、ロムニーはこっそり肩を落とした。せっかく久しぶりに会ったのにまた離れ離れになってしまうなんて。 「そうがっかりしないで。きみがそのカタチであるかぎり、ぼくときみはまた会える」 メリノに腕を引かれる。バランスを崩したロムニーの額に、メリノのそれが軽くぶつかって、別れを惜しむかのようにすり寄った。 どうして、もっと長くメリノといられないのだろう。次はいつ会える?きみは今どこにいるの? 聴きたいことは山ほどあった。けれど、どれも言葉にならなかった。言葉にしなくとも、メリノには伝わっているはずだ。虹彩がまたたいている。そのきらきらの中にずっといたくて、それでもお別れの時はいつだって突然訪れる。 メリノはどこからか取り出したメダルをロムニーの眼前に持ち上げた。 メダルはくすんだ金色の淵がついていて、中には深い青の硝子が張られている。 「これは?」 「きみが庭で触れた虹は、今きみの瞳の中にいる。かれらは、水を好むんだ」 メリノが言うが早いか、ぽちゃんと頭の奥で音がした。それは、ロムニーの中を泳いで、チカチカと光る。まるで色の洪水だ。ナナイロが瞬いて、ロムニーの視界が眩んでいく。ああ、これでお別れなんだなというのは、メリノの熱が薄れていく感覚でわかった。 悲しくないのに涙があふれる。まるで、目玉が溶け出してしまったようだ。 「ぼくらの庭に帰ったら、お茶を用意しておいて。約束だ、忘れないで、ロムニー」 最後はあまりに小さい音で聞き取れない。遠く、遠くへ流される。ロムニーの意識はそこで途絶えた。 でも、確かに聞き届けたよ。待ってる。 ぼくらの庭で。 水へと溶けるように消えたロムニーの痕跡を辿るように、メリノは地面へと手をついた。そこには何の温度もない。ただの水が広がっている。 どうやらうまくいったようだ。手の中で踊るメダルを空に透かす。 「いたずら者め。ぼくがたまたまここへ来たからよかったようなものの、あのままじゃロムニーがここへ閉じ込められてたんだぞ」 悪態をついても、メダルの中を悠々自適に泳いでいる彼にはどこ吹く風だ。 「ま、いいか。さて、僕も帰らなくちゃ。ロムニーにたくさんおみやげがあるんだ。早く届けないとお茶が冷めちゃう。君もお帰り。待っているものがいるだろう?」 本当に待っているものがあるのかどうかなんて知らないけれど、そうならいいなと思った。 メリノを待ち続けているロムニーには悪いけど、そういうものがあることは悪くない。帰るところは誰にだって必要だから。 「ほら、行きな。今度はこっちの世界へ迷い込まないようにね」 メダルを地面に広がる水へと浸す。中へ入っていた光は、最初戸惑うようにクルクルとメダル内を回っていたが、やがて飛び出すようにして水へと移る。そして、どういうわけか今度はメリノの足元を回り始めた。 「ああ、そうか。ごめんね」 最初はわけがわからず眺めていたメリノだったが、やがて合点がいったようにメダルを拾い上げる。それを自分の目玉に近づけた。 「きみの待つ人はここにいたんだね」 それってなんだか運命みたいだなと思ったけれど、それを口に出す暇はなかった。 耳の奥でぽちゃんと水音がして、光がさんざめく。あか、あお、きいろ……色は数を増して、意識が遠のく。 あとは、虹色のさかなが二匹、どこまでも広がる青空をなかよく泳ぎまわっているだけであった。 ロムニーはたったいま沸き上がったばかりのお湯をポットへそそいだ。 キンモクセイのいい香りがする。 あの不思議な空間から帰ったあと、ロムニーは庭へ横たわっていた。起き上がって周りを見ても、虹なんてどこにもいなかった。夢だったのかとも思ったが、ロムニーはメリノの温度を覚えていたし、頬を濡らしていた涙がそうではないと告げている。 虹は水を好むんだと言ったとおり、涙がたまるこの場所へ逃げ込んだんだろう。 「さて、そろそろかな」 ロムニーは携帯している銀の懐中時計を引っ張り出して時間を見る。 時計は正しい時間を刻んで、そろそろ3時を告げる。 やがて、いとこが帰ってくるだろう。 旅へゆけないロムニーのために、たくさんのおみやげを抱えて。 ← * → |