オブシディアンの夜 外は雷が鳴っている。でも、雨はまだ降らない。 雲はあんなにも重たそうにどんよりしているのに。 こんな日はあの人を思い出した。 この世界でたったひとり、僕のことを雨くんと呼ぶ人がいた。 雨の日に知り合ったから雨くんだと、あの人はそう言った。安直だといつも思っていた。 僕は今、あの人の帰りを待っている。30年前忽然と姿を消したあの人を。消えてだいぶ経つというのに、あの人の気配が未だ残るこの家で。 彼女の名前は鈴乃と云って、年齢まではわからないけれどまだ年若い女性だった。いつも家にいるから何をしている人なのか問えば、小説家だと答えた。なるほど、変わってるとこがあるから似合いの職業だ。どこが変わってるかと云えば、枚挙にいとまがない。近所でも有名な変人。それが鈴乃さんという人。 僕は窓をしめた。しばらくしたら雨が降るだろうから。決してあの人の思い出から逃げるためじゃない。 ――そんなんじゃない。 すずのさん。すずのさん。あなたは、いまどこにいますか? 暗い家の中で、呼べば聞こえていた貴方の声はどこにも聞こえない。 星の音が聞こえる程、家の中は静かだ。夜、眠る前、僕はアカリの灯らない洋燈を見つめながら貴方の名前を呼んでみる。貴方の一等気に入っていた洋燈は僕に扱えそうもない。それを悔しいと思いながら、深く呼吸をする。畳のにおいが鼻をくすぐった。草原のにおいだよと鈴乃さんは言っていた。僕は、そのにおいをいっぱいに吸い込みながら、目をとじた。草原なんて微塵も感じないよ、鈴乃さん。本当、あの人ったら変わってるんだ。 「ん……」 自分の声で目を覚ます。いつの間にか寝ていたらしい。まだ辺りは暗い。夜は明けていないらしい。今、何時だ?枕元の時計を寄せようとした僕は、その手を思わず止めた。夜の向こうから、寝室の障子を超えて、鈴の音が聞こえたからだ。 まさか。 僕の頭に過る、彼女の顔。ただの鈴の音じゃないか。それに、姿を消して30年だ。 もうここへ帰る気はないだろう。 なのに、僕は何故急いで走っているのか。障子を開け放ち、一目散へ外へと駆ける。鈴の音は遠ざかる。だけど、すぐ近くにも聞こえた。ああ、あの人がいる。そんな予感めいたものが頭を過る。けれど、僕はもう何も知らなかった無垢な子供じゃない。知っているよ。期待なんてしたっていいことはないなんて。でも、それでも、足は止まらなかった。貴方が待っている予感がしたのだ。バカらしいことに。 いつの間にか空は晴れて、月が覗いている。満月に程近い丸い月。月が射す庭にはどんなに探しても、やはり彼女の姿はなかった。 (僕は何を期待していたんだ……) たかが鈴の音じゃないか。鈴乃さんなはずがないんだ。わかっていたのに。 落胆しながら僕は家の中を振り返る。また、寝よう。そう思った時だった。 ――ちりりん。 たしかに、鈴の音がした。庭へ目をやれば、そこには月に照らされた1匹の猫が四つ足で立ってこちらを見ていた。月に負けないくらい金色の美しい目で僕を見ている。まるでついて来いとでも言いた気な。 鈴乃さんの遣いだったりして。あの人なら、猫を遣いに寄越すことくらい簡単にやってのけそうだ。僕は縁側にある草履をはいて、庭に降り立つ。 猫は、にゃあと一声鳴いて歩き出した。やはり、ついてこいと言っている。僕には妙な確信があった。 猫はしっぽを残して、庭に植えてある銀木犀の向こうに消えていく。本当にあの猫は鈴乃さんへ導いてくれるかどうかわからないというのに、僕は猫のあとを追う。家と家の隙間を縫って、茂みを抜けて、落ち葉の覆う林の中を踏み分けて、やがて、着いた場所は見覚えがない所だった。長くこの町に住んでいるのに、知らない場所がまだ存在するなんて。 デイジーの茂る小高い丘の上。黄色い花がぽんぽんとそこかしこで咲いている。お月様の光が茎先に宿っているみたいに鮮やかな黄色。その中ほどには、人影があった。 「鈴乃さん!」 僕は思わず名前を叫ぶ、人影は猫をねぎらっているようだ。月明りに照らされた人影、それをよく見ようと近づいて、僕は戸惑う。そこにいたのは、鈴乃さんではなく、少年だった。知らない顔だ。猫は、彼に擦り寄っている。 「雨くんだね?」 ひとしきり撫でたあと、少年はこちらを向くことなく僕へと声をかける。その呼び名に、僕は反応せずにいられない。雨というあだ名を知っている彼を凝視する。僕と親しい者しかその名で呼ばない。でも、僕は彼の顔に見覚えがない。 「誰?」 「ははは。そんなに警戒しないで。僕はキミをよく知ってる。キミがキミを知る以上にね」 謎賭けみたいな話し方。それは、なぜだか鈴乃さんと重なった。きっと、彼は鈴乃さんの知り合いだ。これは、予感じゃなくて確信。 「いつも、冷やしぜんざいをありがとう」 少年は月明かりを背負って微笑んだようだった。 冷やしぜんざいと聞いて、(ああ、なるほど)と、僕の中にひらめくものがある。彼の正体がようやくわかった。 鈴乃さんが消えてからも、僕が毎年恒例にしていること。初夏の庭に一羽の鳥がやってくる。珍しい青い鳥だ。その鳥は、封筒を携えてくる。中には一枚の羽。リラの花のにおいがするやつだ。その羽と一緒に珍しい、見たこともないような鉱石や植物が入っている。僕はそれを受け取る代わりに、鳥に冷やしぜんざいを持たせる。鈴乃さんがやっていたことを僕がそのまま引き継いだだけ。彼女の言葉を借りれば、鳥は誰かのおつかいらしい。どうやら、その誰かがこの目の前の少年らしい。 「こちらこそ、ありがとう。毎年楽しみにしてるよ」 鈴乃さんではなかったことへの落胆を隠しつつ、僕は鳥の羽へのお礼を述べた。 すると、彼は静かに、でもおかしそうに笑って言った。 「鈴乃じゃなくて、ごめんね」 言い当てられて、僕は顔を赤くする。 鈴乃さんに良く言われていた。「雨くんは、すぐ表情に出るね」と。大人になって、隠すのがうまくなった気でいたのは、どうやら自分だけらしい。だとしたら、今までいろんな隠し事が他へバレていたというのか。これは、相当恥ずかしい。 「安心して、雨くん。鈴乃は元気だよ」 僕は思わず少年の顔を見る。そうだ、それが聞きたかったのだ。食いつくように、祈るように、鈴乃さんのことをもっと話してくれとねだる。すると、彼は何から話そうか迷うように視線を動かし、口を開いた。 「残念ながら、鈴乃がいる場所は知らないんだ。でも、鈴乃から気まぐれのように時折手紙が届く。僕が知っているのは、それくらい」 僕は少し悔しくなった。鈴乃さんが僕に手紙をくれたことなんかこの30年一度もない。なのに、僕には手紙をやっているのか。なんとなくおもしろくないが、それはそれ、これはこれだ。僕だって大人なのだ。そんなことでへそを曲げたりしない。 さて、ここで問題なのは、この少年がここへ来た目的だ。 彼との接点は、羽とぜんざいだけ。今まで、手紙だって来なかったし、顔だって見せたことはないのに。 「君に一度会っておこうと思ったんだ。いつも、冷やしぜんざいをくれるしね」 そして、黙る。デイジーの花がざわざわと、風で揺れた。気持ちのいい風だ。 少年はそれを味わうように、呼吸をしている。 「……もうすぐ夏が来るね」 そうだ、もうすぐ夏。彼の鳥が庭に遊びに来る季節。さわやかな風を頬に感じながら、あのリラの匂いが鼻をくすぐった気がして、風上に目を向ける。実をいうと、冷やしぜんざいはもう作ってある。彼がいつ取りにきてもいいよう。どうせ会えるならば、持って来ればよかった。僕がそう思った頃、先ほどの猫が向こうから何かをくわえて尻尾を揺らしながら近づいてきた。猫はくわえていたものを少年の足元に置く。そして、一声、二声鳴いたかと思うと少年が悪戯っぽく笑った。その笑顔に視線が釘付けになった。なぜかはわからないが、彼はどこか人たらしなところがある。 「ふふ、間に合ってよかった。ありがとう、デイジー」 少年が猫を撫でれば、応えるように尻尾が動く。そして、足元に置かれたビンを拾い上げ、蓋を開けた。(あれ?あのビン……)思うが早いか、少年はためらいなくビンの中の小豆を口に含む。 「それ……」 「今年もごちそうさま。鈴乃の冷やしぜんざいもなかなかだったが、君も良い味を出すね」 「ありがとう」 鈴乃さんのやつを参考に作ったものだが、良いように言われれば悪い気はしない。 お口に合ったようで、なによりだ。 「今回は羽や鉱石じゃなくていいかい?」 「え?あ、ああ」 いつもは羽払いだったのに。楽しみにしていただけに、拍子抜けしまった。誰かが昔ガラクタだと言ったそれらは、今の僕にとっては特別なものになっていた。鈴乃さんがそうしていたように。 「ふふ、本当に君は顔に出やすいね。鈴乃が言ったとおりだ」 また顔に出てしまっていたらしい。なんて恥ずかしいんだ。それに、鈴乃さんも彼になんてこと言うんだ! 僕は鈴乃さんに対して腹を立てながら、なんだか懐かしい気持ちになった。こうやって、鈴乃さんを思い出して、さらに話題に出すなんて何年振りだろう。 「僕が君に会いに来たのはね、それを伝えたかったんだ。今年は、ルリイロバード……リラの香りのする羽を持つ鳥なんだけどね、彼らが羽を分けてくれなかったんだ。でも、冷やしぜんざいがないと、色々と困るし、そこで今回は特別なお礼をデイジーに探させたんだ。見つかってよかったよ。こう見えて、とても頭がいいんだよ。君も困ったら、デイジーを呼ぶといい」 呼ぶってどうやって? 聞こうとしたが、そのまま少年が言葉をつづけたので、雨は黙ってしまう。 「代金はもう君の家に置いてある。早く行ったほうがいい。月が沈む前にね」 少年は声を弾ませてくるりと体を反転させた。そのまま丘を駆けていくのか思いきや、宙を浮いている。見えない階段を駆け上るように、彼の体が上へと昇っていく。 「デイジーが君を家まで送り届けてくれる。じゃあね、雨。また会おう」 呆気にとられて見ていると、少年が空から手を振っている。僕ははっと我に返った。まだ聞いていないことがある。 「君の名前をまだ聞いてない!」 少年はかなり高いところまで上がってしまっていた。けれど、声は届いたようで足を止める。そして、 「メリノだよ」 まだ大人にもなっていないし、子供のままでもない、中間の声で、そう言った。 「ありがとう、デイジー」 僕は家まで案内してくれたデイジーの頭をなでる。 彼女――彼かもしれないが――がいてくれて助かった。あそこからここまでの道なんてわからなかったから。この辺のことは、長年住んで良く知っているつもりだったのに不思議なこともあるものだ。 僕は軒先から家に上がる。せっかくだから、デイジーにお礼でもあげよう。にぼしがいいか、ミルクがいいか。両方にすればいいだろうか。台所に行って、戸棚から出汁用の煮干しとミルクを皿に入れて戻ると、デイジーの姿はなかった。でも、まだその辺にいるかもしれない。僕は縁側にミルクとにぼしを置いて、庭先に下りる。 「おーい、デイジー」 「久しぶりに会ったのに、ミルクと煮干しだなんて風流じゃないね」 突然聞こえた声に、僕は飛び上がる。こんな真夜中、自分以外の誰が声をかけてきたのか。まさか、デイジーが人間になってしまったのか。そんなこと、常識で考えてあるはずもない。恐る恐る後ろを振り返る。 すると、そこには、デイジーが人間になってしまったよりも信じられない光景があった。月の当たる明るい縁側で、見紛う筈もない、30年前に消えた人間がにぼしをかじっている。 「それ、デイジーのなんだけど……」 驚きと嬉しさと怒りと悲しみ、全部ごちゃ混ぜにした感情で呟けば、なんとも格好の悪い響きが口をついて出た。色々と言いたいことがあったはずなのに。目を丸く見開いて、これは夢でないか、見間違いでないかと目の前の光景を疑っている。 「ただいま」 会ったらどうしよう。文句を言おうか、それともただ優しく迎えようか、何事もなかったかのようにしたほうがいいのかな、色々考えた30年が今一瞬にして消えた。僕は、子供の時のようにぐずぐずに泣き崩れて、目の前で腕を広げる人物――鈴乃さんに飛びついた。 「私の代わりにメリノへ冷やしぜんざいを送ってくれてたんだってね」 「うん……」 「この家も守ってくれてたんだね。庭がきちんと手入れされてる」 「うん……」 「まあ、雨くんなら何も言わないでもやってくれるって思ってたけど」 「なに、それ」 「雨くんは、ほんと変わらないね。子供の時のままだ」 僕だって、もう大人だ。そう言おうとして、やめた。そんなこと言う方が子供っぽい気がしたし、何より鈴乃さんの腕の中へ飛び込んだ瞬間から、僕はなんだかあの頃に戻ったような心地になっていたからだ。心なしか、腕の長さも身長もあの時くらい縮んでしまったような気がする。 どれくらいそうしていただろう。虫の声が聞こえる程には、僕の心は落ち着いてきた。 改めて鈴乃さんの顔を見る。記憶の中の顔と同じだ。僕ばかり老けてしまったように思えた。年齢不詳だと思っていたが、実は不老不死なんじゃないだろうか。 「どうして、帰って来たの?」 「おや、帰ってきたら悪かったかな?」 「そうじゃなくて!」 わかってるくせに、なぜそんな意地悪を言うのか。本当に、この人は変わらない。僕がほっぺを膨らませると、鈴乃さんは笑って「ごめん」と謝る。 「懐かしくて、ついね」 「もう……!」 「小説家になったんだって?」 どこでその話を聞いたのか。僕は途端に照れくさくなった。まさか、鈴乃さんに近づきたくてなっただなんて口が裂けても言えない。そんなこと言ったら、きっと、この人はからかうに決まってる。 「だったら、なに?」 ついぶっきらぼうになってしまった。気を悪くしてないかと鈴乃さんを見るが、特にそんな様子もない。僕がぶっきらぼうに返すのなんて今更だと言わんばかりだ。 「ルリイロバードの羽を使っている?」 ルリイロバード、さっき名前を知ったばかりの鳥の名に首を傾げれば、鈴乃さんはもったいないと呆れている。そんなこと言われても、あれはただのいい匂いのする羽ではないのか。 「小説を書くのに使うんだよ。あれをペン軸にしてね。そうすると……」 「そうすると?」 「旅にね、出たくなるんだ」 「はあ……」 どういうことだ。言わんとすることがわからなくて、僕は間抜けな声を出した。鈴乃さんも羽を使って書いた小説にふさわしい表現は持ち合わせていないようで、困ったように眉を下げながら「まあ、使ってみて」と曖昧に笑った。この人でも、こんなことあるんだなと、僕は妙な感心をしてしまう。 二人でしばらく黙って虫の声を聞いた。僕がお茶でも入れようかと提案すれば、鈴乃さんは鞄から水筒を出した。コップは二つ。並々と注がれた液体は薄い琥珀色で、とてもいい香りがする。何かのお茶だろうことは想像できたが、匂いだけでは判別できない。口に含めば、馥郁とした香りが鼻腔をくすぐり、体を包んだ。 月下美人のお茶だと言われたが、あの花からこんなにおいしいお茶ができるなんて思いもよらなかった。 「これはね、貴重なんだよ」 といって、一度で飲み干してしまった僕のコップに、鈴乃さんはためらいなく並々とお茶を注ぐ。聞けば、月の光に照らされた月下美人の中へ、雨が入った時だけにしかできないらしい。つまり、天気雨の降る夜にしかできない、特別なお茶だという。ほのかに甘くて、こんなにいい香りのするお茶を雨は他に知らなかった。そんな貴重なものを飲んでいいのか問えば、雨くんにピッタリだとまた注いでくれた。 「ねえ、雨くん」 「うん?」 コップの縁を指でなぞりながら、鈴乃さんが月を見ながら僕を呼ぶ。月光の当たるその顔を見ながら、僕は最後の一滴を口に流して返事をした。 「もう、私を待たないでいいよ」 「え?……ごほっ、ごほっ」 お茶が変なほうへ入って、むせた。鈴乃さんが変なことを言うからだ。それじゃまたどこかへ行ってしまうみたいじゃないか。せっかく、帰ってきたのに。また、しばらくここで暮らすんじゃないのか? 涙目で鈴乃さんを見れば、真剣な目をしてこちらを見ていた。 「ここは、もう私の家じゃない。君の家だ」 「違うよ!僕は、借りていただけで、ここは……」 鈴乃さんが僕の言葉を遮るように指を口に当てる。僕は思わず口を噤んだ。 そんな顔はずるい。 泣きそうに眉を寄せて、そんな顔をしないでほしい。 「本当は帰ってくるつもりはなかったんだ。でも、誘惑に負けた」 「誘惑?」 鈴乃さんは言うのを少しためらって、それでも小声でここへ来た理由を話してくれた。 「……大人になった君を見たかったんだ」 僕は、胸の奥からじわりと温かさが広がるのを感じた。 僕もアナタに見てもらいたかった。ちゃんと、この家を手入れして、一人前に仕事をして、子供の僕じゃわからなかったことも今ではわかるようになって。アナタに話したいことがたくさんあったんだ。 「さっき、変わらないって言ったけど訂正ね。かっこいいよ、―――くん」 鈴乃さんは、僕のもう一つの名前で呼んで、手を握りこむ。 手の甲に、雫が落ちた。 30年間、我慢した、とても温かな涙だった。 遠くで不思議な音がする。雨は規則的になるその音の正体へ手を伸ばす。 目覚まし時計だ。これで、雨の眠りを邪魔するものはなくなった。また寝ようと意識を手放しかけたその時、今度は別の機械音が規則正しく大音量で鳴り響く。これは、手を伸ばして届く距離に停止ボタンはない。なぜならば、玄関チャイムの音だからだ。押している相手が諦めるのを待つか、玄関へ向かうか二択だ。 前者はダメだ。雨はこんな時間に家へ訪ねてくる人間が執念深いのを知っている。仕方なく、まだ重い体を持ち上げるように起こして玄関扉を開けに向かった。 「おはようございます、先生!」 「……君は朝早いね、雛菊ちゃん」 雨が玄関の鍵を開けるなり、飛び込むように体を割り込ませてくる女性は、雨の担当編集者だ。彼女は、手をばっと差し出し、目をキラキラさせている。……いや、ギラギラといったほうがいいだろうか。 「はい!私、できる子なんで!さあ、原稿をください!」 「……まだ、できてない」 「今日が、締切だと、あれほど」 顔は笑っているが目が笑っていない。歯ぎしりが聞こえてきそうな程、怒りを我慢した声に押されて、雨の欠伸が引っ込む。 「これから、書くよ」 「10:00がリミットですから」 「はいはい……痛っ!」 「先生、大丈夫ですか?!」 雨の足裏に何か刺さった。まさか、こんなところに危険物なんて置いているはずはないが。恐る恐る足元を見れば、ルリイロの羽が見えた。 「わあ、キレイですね!」 「……うん、そうだね」 「なんて、鳥の羽ですか?」 「ルリイロバード。旅に出たくなる羽なんだよ」 「や、やめてください!原稿を書き終えてからでお願いします!」 彼女の焦った顔に、雨はくすりと笑って、上機嫌に羽をくるりと回す。 今日は、これで原稿を仕上げよう。 きっと、旅をしたくなる。 あの人のように。 終 ← * → |