橘清澄といふ人ありて




 あるところに、橘清澄という若者がいた。この男、宮廷一の笛の名手であった。清く澄むという名の通り、奏でる音色はまこと清廉だ。小鬼がその音色を聞けば気がふれて、たちまち遠くへ逃げ出す程である。
 さて、あくる日の晩。清澄がいつものように笛を取り出し、一節奏でようと口をつける。
 ヒュルヒュルヒュル。ヒュリュリュ。
 しかし、どうにも調子がおかしい。笛が悪いのかと思いなおし、他の物も試してみたがどれも似たような音が出るばかりだ。清澄は、今日は体調が悪いのかとその日はそれで笛をしまうことにした。

「もし、橘様。橘様」

 笛を箱へと納めたその時、庭のほうから声がする。こんな時間に誰だろうと、清澄が庭へと降り立てば、どうも塀の向こうから声がする。

「誰か?」
「橘様、私は通りすがりの僧でございます。先程から笛の音を聞いておりますれば、今日はどうにも調子が悪いようで。私が思うに、門のところに植えた木がいけないと思うのです。どうでしょうか、少しだけ木を切られてみては」

 確かに、僧が言うように門の脇には木が植えてある。先日、宮廷で催された観月会のあと、陰陽師に植えるよう言われたものだ。花も実もならぬ木で、風流とはかけ離れたその姿に清澄もいいようには思っていなかった。しかも、僧の言うには、その木が笛の音の妨害をしているのだという。
 これは、思い切って切ってしまおうか。そう思ったときである。清澄の横で一陣の風が巻き上がった。驚いた清澄がそちらを見れば、いつのまにやら安倍の陰陽師が立っていた。

「橘様、木を切ってはなりませぬ」
「しかし、表にいる僧が言うには、あの木が笛の音を妨害しているというのだ。私は宮廷一の笛の名手故、このまま笛の音が鳴り響かぬでは恥になりかねん」
「僧というのは、あれでございますか?」

 陰陽師が塀へ何やら描けば、不思議なことに石でできているはずの塀が透けた。すると、そこには僧の姿など微塵もなく、姿醜い餓鬼がいる。清澄が説明を求めるように陰陽師に視線を向ければ、彼は簡単なことだと話を始めた。

「これは、以前あなたが殺した餓鬼の仲間でございましょう。先日の観月会で笛の演奏中に、一匹の餓鬼が消滅するところを見ました。それで、木を植えるようにご注進申し上げたのです。あの木は鬼縛りという名にございます。橘様のお命を頂戴するためには、あの鬼縛りが邪魔をしております故、あの小鬼めは言葉巧みに橘様をだまそうとしたのでございましょう」

 餓鬼が悔しそうに歯噛みする。そして、こちらに尻を向けてあっかんべえをしたかと思うと、あっという間に姿を消してしまった。

「バレちまっちゃ、しょうがねえ。命拾いしたな、笛吹きの兄さんよ!」

 鬼が消えたあと、笛は元の通りに鳴り響くようになったとさ。






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