正気を保つことに精一杯で、呼吸することすら忘れてしまいそうだ。“それ”を目の前にしてしまった刹那は全身に襲う恐怖になす術なく、ただただ立ち尽くす他はなかった。







──しだいに鮮明に見えてきたのは見慣れた天井だった。


(…夢、か……)


正確には、夢を見ていたという確信があるだけ。肝心なその内容に関する記憶は曖昧で、全身に滲む汗と妙な焦燥感がその根拠だと言うには十分に思えた。
息をひとつついて、ゆっくりと身体を起こす。それに従ってベッドクロースは脚の上に収束した。その時ある異変に気付いた、怪しいほどにベッドクロースが軽かったのだ。隣に目を向けると、ナマエの姿が無い。昨夜は確かにともにベッドに入ったはずだ。ここ最近任務が連続し、お互い疲れがたまっているからと男女のあれには発展しなかったが、確かにいっしょだった。シーツに触れると、それはひんやりとしていた。どっと滲む汗が増え、焦燥感も不安感を伴うものへと変わる。すると、扉のスライド音と、その直後に短い声が飛んでくる。


「あ…」


起きたんだ、と続けるナマエはドリンクを片手に部屋に入ってくるところだ。十分に分かってはいても、やはり安堵せずにいられなかった。


「……どうしたの?」


ナマエは飲んでいたドリンクを傍らのデスクに置くと、なぜかそんな言葉を吐きながら此方に歩み寄る。神妙な面持ちでベッドにのぼり座り込むのだから、なにか深刻なことのようだ。


「刹那…?」


凛とした声に対して、刹那は反射的に振り向く。ナマエの手が頬に伸び、それの温かさを実感する。刹那はどうしたと尋ねるナマエの意図を理解できず返答に困っているだけだと、彼女は気付いているだろうか。それは定かではないか、彼女はそれ以上を口にすることなく、そのまま静かに刹那の頭を自らの肩に引き寄せ、空いている手は背中に回す。刹那も抗いなどしなかった。焦燥感と不安感とで揺れていたこころが徐々に落ち着きを取り戻していく。そういうことか、とようやく理解した。


「夢を見た」


刹那は両手をナマエの腰に回して引き寄せる。より近づきたいという感情の現れだ。


「…嫌な、夢だった」

「刹那をこんなに弱らせるなんて余程の夢ね」


ナマエは癖毛を構わず刹那の頭に頬を寄せる。皮肉を言ったのはもちろん安心させるため。夢の内容へと話は続けられず、腰に回された腕の力がより一層強くなったのが分かる。


「彼岸花がたくさん咲いていた。きっと、あそこだ」







──そうだ、ここは以前ナマエが見つけた穴場。その所在を知るのは見つけた本人と、彼女に教えてもらった自分だけだ。彼岸花が幾百幾千と咲き乱れ、風に靡かれて絶え間なく波を生ずる緋色の世界。
生来、彼岸花は言うまでもなく緋色だ。人が傷付くことの象徴とも言える紅いあの液体にも似た色をしている、と感じる人もいるかもしれない。しかし、刹那にとって緋は彼女を連想させる色でしかない。緋色はナマエの駆るガンダムのメインカラーであり、ナマエのパイロットスーツの色、制服の色だ。


(ここは…)


初めてナマエとともに此処へ訪れた時のことに思いを馳せながら、一歩一歩ゆっくりと歩みを進める。
ふと、足元で一輪の彼岸花が茎から折れていることに気が付いた。それを拾い上げて、思う。誰がこの花を折ったのだろう、誰がこんなひどいことをしたのだろう、と。一瞬、手の中で風に揺れる彼岸花の間から白い何かが見えた。腕を下ろし、それが何なのか見定めるため必死に焦点を合わせる。制服を身に纏うナマエが横たえている。反射的に目を見開く。ナマエの目が閉じられているのは眠っているからではない。見間違えるはずはない、制服のカラーリングは胸から肩、腕にかけて施されているのであって、腹部が紅く染まっているはずはないのだから。


「ナマエ!!」


彼女の元へ行かなければと思い至った時、身体はすでに動き出していた。走れば自然と視界は揺れる。距離感を掴めない。あとどれだけ走ればナマエの元に辿り着ける、そう思った時、一面は先ほどの彼岸花が幾百幾千と咲き乱れる緋色の世界に戻っていた。
刹那は足を止めた。










揺れた岸花、君の姿を見た気がした





「彼岸花の花言葉、知ってる?」
俺は怖くて、どうしても答えることができなかった。




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