切なめ
雑誌を買いにコンビニへ行こうと、家を出てぶらぶらと歩いていた。
自転車で行けば近いが、なんとなく散歩したい気分だった。
道のりの半分ほどのところだろうか、ふとなにか甘い香りがすることに気付いた。
並大抵の甘さではなかった。深く息を吸いこんだらまるで脊椎まで溶かされそうな、しっとりとした甘い香り。
けれど砂糖とかチョコレートとかとは違う、あとには残らない、さっぱりとした印象だった。
気が付けば立ちどまっていた。
目を閉じて。
人に見られていないか急に不安になり、顔が熱くなるのを感じながらあたりを見回した。
そこで目に入ったのは斜め向かいの家の垣根。
垣根にはオレンジ色の小さな花が散らされるようにこぢちんまりと咲いていた。
そこで合点がいった。
「キンモクセイ」
無意識のうちに声が出ていた。
その花の名を口にした途端、まるで懐かしいような、苦しいような、夢で見たような、そんな感情が駆け廻った。
デジャヴかと感じたが、その瞬間思い出した。
記憶のフラッシュバックと共に。
ニコニコ笑う彼、
横を俯いて歩く、
―――わー、すごい匂いだね
―――この花かな? うわ、すっごい。
視界をあげる、
彼はニコニコ笑っている、
―――なんて言う花だっけ…えっとー…
そうだ確かにあのときも、
キンモクセイと呟いて、
驚いた顔の彼が見えた。
―――キンモクセイ、そうだ。甘い匂い…
―――フフ、食べちゃいたいね!
そう笑い声をあげてた顔は夕日に照らされて、
逆光で見えない。
僅か10秒にも満たない記憶の追想だったが、何時間にも感じられた。
嗚呼。
うめき声が意識せずに漏れる。
完全に足は止まった。
そうだ、あの日もこんな秋の、夕暮れだった。
一番ふたりが近かった秋。
肌寒くなる風に距離をつめて、人目を気にしながらそっと手をつないだ。お互いの体温が高くて、びっくりした。
いつもより近い彼にどきどきしながら、もう秋ですねなんて、下らないことを口にした。彼も緊張していたのか、いつもの饒舌はなくただそうだね、と答えられた。今思うと不自然だ。
顔が近い、と不平を洩らすとさらに距離は縮まり、これって、ああ、顔の筋肉が強張っていくのが自分で分かった。
誰かに見られたらどうするんです、見せつけちゃえばいーよ、耳元でささやかれた返事にぞくりと身体が震えた。
大人しくしていたら柔らかいものが唇に当たり、そのまま離れていった。意外っちゃ意外だった。
それを見抜いたように、彼が照れたように人懐こく笑った。
なんて、懐かしい。
あれから5年が経った。
あんなに一緒にいたのに、冬になってからはぱたりと彼に逢わなくなった。
彼に恋人ができたのだった。とても可愛い子で、彼から告白したのだという。
あの関係は一体なんだったのだろう。胸に風穴が沢山あいて、北風がひゅーひゅーと吹きつけるような感覚だった。
それから卒業まではほとんど彼を避けるように生活していた。卒業してからも彼の噂だけは聞き流してどうでもいいと突っぱねた。
5年間一度も、思い出さないように、思い出さないように耳をふさいできたのに。
今更。
全てがどうでもよくなった。
とにかく、どこかに隠れていたい。どこだ。どこかだ。
そして、こみあげてくる熱いものを解放したい。
くるりとその花に背を向けた。
そして駆けだす。
鼻孔の奥には、いくらシャワーを浴びても、いつまでも甘ったるさが残っている様な気がした。
[
back]
何とも