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 彼は雪解け水に浮かんでいた。

 誰もいないはずの屋上で。空っぽなはずのプールの中で。彼は澄んだ水面(みなも)に浮かび、ぼんやり空を見上げていた。季節は春。花綻ぶ頃。冬凍てついた天空が少しずつ融け始めていた。曇り空はうっすらとスクリーンに映し出されて、そこに紙をのせたなら、空の模様が写し取れそうで。

 とても綺麗な声だったんだ。透明の真ん中で静止する彼は白く、青く、まるで水死体のよう。けれども彼の唇は誰も知らない歌を紡ぎだす。……ら、……ら、……離ればなれの音。それでいて、繋がってる音。音色はふわりと空へ昇る。逆向き(さかむき)に降る、雪みたいに。

「なにしてんの」

 尋ねると、彼は唇を結んだ。悲しい旋律がぷつんと途切れた。俺は、沈黙を呼吸で埋める。深く深く胸で息をする。ゆっくりとした俺の呼吸が三度聞こえたところでようやく、彼は小さな疑問符を返す。

「僕?」

「そう、お前」

 水死体は目を閉じた。彼の睫毛が春風に震える。その繊細な黒いカーブはぱたぱたと揺れていてきれいな蝶の翅みたいだった。彼は、焦れったくなるほどの緩いスピードで瞼を開く。少しグレーがかった瞳が曇天と呼応して、そして。

 彼は答える、“探している”と。

「探してるの、__レクイエムを」

 それは、エイプリルフールの朝。



 俺は一人の、迷子を見つけた。



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 雪顔夏也に出会ったのは高二の始業式でだった。新年早々遅刻した俺は、気まずい思いをするのが嫌でそのまま始業式をさぼり、屋上で暇をつぶすことにして、……そこにいたのが夏也だったんだ。彼は、空っぽだったプールにわざわざ水を張って浮かんでいた。ブレザーを脱ぎ、Yシャツと、学生ズボンだけを身につけて。そうして、歌を歌っていた。 俺の知らない、悲しい歌を。

「あ、さっきの」

 朝礼の三分前に、俺と彼とは五分ぶりの再会を果たすこととなった。始業式を無視して一人プールに浮かんでいた“天才”は、俺と同じくU年G組で、しかも、隣の席だった。彼は人懐っこく笑って俺の隣に腰を掛け、

「ねぇねぇ、君の名前はなに?」

「え、俺? 俺はアオイ」

「アオイ?」

「アオイヒロアキ」

「アオってなに? ブルー? パステル?」

「エメラルドグリーン」

「そっか。イは、井? 井戸の井?」

「合ってる」

「ふぅん。ヒロアキは? 海? 季節?」

「いいや。broad、blight」

「じゃあこうだ」

 彼は机の端にさらさらとシャーペンを走らせた(そのとき俺は彼の利き手が左であると知ったりもした)。彼の手で多少擦れてはいたが、その字はどうにか読みとれて。 碧井広明。

「正解」

「やった」

 彼は嬉しそうに声をあげ、俺はこっそりとため息をつく。俺は子供のように純真な彼の横顔をじっと見つめて、__一言で片付けるなら、彼は美青年だった。目が大きくて、鼻が高くて、華やかなのに儚げな顔立ち。瞳の色は黒で、だけど、ほんの少しグレーに近い。肌が白くてさらさらしている。粉砂糖でできたみたいだ、すぐ溶けそうで、甘い顔。

「ねぇねぇヒロくん」

「ヒロくん? 俺のこと?」

「そう。ね、もっとお話ししよーよ」

「なんで」

「僕、君と話してると楽しい」

 話してると、楽しい。__初対面の奴に言われるとは。そもそもまだ数十秒しか会話を交わしていないじゃないか。 言い返してやりたくはなったが、表情を見て閉口する。あんなまばゆい笑顔で言われちゃ否定するのも気が引ける。

「……いーけど。お前、名前は?」

「僕? 僕はね、ユキガオナツヤ。天気に身体に季節に古語」

「古語ぉ?__あぁ、也か」

 俺は夏也のシャーペンを借りて、夏也と同じく机の端にシャーペンを走らせる。雪、顔、夏、也。

「せーかい」

「かっこいい名前じゃん」

「ヒロくんも、いいじゃん。碧井」

 アオ、アオ。エメラルドグリーン。 夏也は歌うように呟き(アイツの声は心地よすぎて日常会話も歌みたいなんだ)、それから教壇の先生を見つめる。俺は先生から目を逸らし窓の外へと瞳孔を向けた。薄墨を垂らした空によく咲いた桜が映えて、仲々に風流な眺めだ。このクラスに若冲がいたなら、水墨画の一つや二つ勢い余って描いちゃうかも。

「ヒロくん」

 まだ先生のご講義を聴き始めたばかりだというのに、夏也はすっかり飽き飽きした顔で俺の肩をとんとんと叩く。俺が彼に従って、黙って視線を寄越してみせると、夏也は悪戯っぽい笑みでラメ入りの瞳をきらめかし、言った。

「抜け出そう」

「、は?」

「出ちゃおうよ。教室は退屈、先生も退屈、生徒も退屈、でも君は違う。僕、君が気に入っちゃった」

 肯定も否定も待たずに彼は俺の手をがっちりと掴んで、いきなりダッシュで走り出しやがった。振り払うこともできなかった俺は引っ張られるまま教室を出て、__去る間際、ちらりと見えた教室内の揃いも揃った白眼に、俺の心はちくちくと、__廊下は朝の節電のために窓からの光しかなくて、囲われてる分、外よりも暗い。ヤツはインドアな男のくせに(無論、あとから知ったことだが)案外と足が速かった。仄暗い、無機質な廊下。夏也はぐんぐん遠ざかる。俺が掲示板に貼られていた『廊下走るな』のポスターを無視し、必死になって走っているうちに、夏也は裏口から校舎を出た。間もなくして後を追い、飛び出した先に、……あったのは。

「__すげぇ」

 満開の、桜。

「すごいよね、もう咲いてたんだね」

「裏庭にこんなでかい木あった?」

「ヒロくんは来たことないの?」

 彼はもったいない、と嘆きつつ、桜をバックに微笑んでみせた。風にはためくブレザーを見て俺はとある疑問に気付く、__あれ? そういえばコイツ、着替えとかどうしたんだろう。もしかして持ってきてたのか? わざわざプールで浮遊するために? よく見れば髪も乾いてる。教員辺りにドライヤーでも借りたんだろうとは思うが、一体どうやって説明したんだ。先生、僕、特に訳もなく、プールに浮かんでいたんです。 そんな説明で貸す馬鹿がどこに、

「ヒロくんったら不良だね」

「……はぁ?」

 俺の思考が明後日の方に飛んでいたのを察してか、夏也は不意に呼びかける(ちなみにアイツが年上キラーだと気付いたのはこの随分後だ)。俺は慌てて目の前の、不思議な少年に目を向ける。

「教室抜け出してきちゃったじゃない」

「お前がつれてきたんだろ?」

「ヒロくん、嫌がらなかったもん。嫌がる訳もないけどね」

「は?」

「この世には『yes』しかないの」

 ……俺には、悪い癖がある。それは「諦め癖」ってやつだ。俺は、頭の動作を止めた。理解するための努力をやめた。分かんないことは分かんないまま受け入れちまえばいいだけだ、実際、俺が夏也から、意思表示の間を与えられたとて、俺は『yes』を選んだんだろう。なんとなく、そんな気がしたんだ。これは神様との約束事。俺は、多分、この天才に、出会う誓約を交わしてた。

 産まれる前に。

「なぁ夏也。お前、なんでプールにいたの?」

 どうせ二人きりだから、と、今日の朝からこの時までずっと気になっていたことを尋ねた。しかし逆に彼は首を傾げ、

「どうしてって、どうして?」

「それは、……どうしてもなにも四月だろ? あんなの凍え死んじまうよ」

「死なないよ、僕は」

「そりゃ確かにあんなんで人が死ぬはずないけどさあ、」

「違うの。僕は、“死なない”んだってば」

「……ん?」

 俺は妙な引っかかりを感じて、__この先、俺は何回か(数えきれない回数)雪顔夏也に対してあることを感じる羽目になるのだが、思い返せばこの時が、記念すべき初体験だった。__そう、俺は夏也に対して、はっきりとこう感じたんだ。 コイツ、

「僕はね、死ねない病なの」

 コイツ頭おかしい。

「あれ、どうして黙ってるの? あ、嘘だと思ってるんでしょ、そりゃそうだよね稀な病気だもん、きっと会ったことないでしょう? だけど本当なんだから、僕、嘘つくのあまり好きじゃないもの。一つの嘘は七つの嘘を呼んでくるから厄介なんだよ、一つ嘘をついてしまったらその嘘が七つ、七つが四十九、四十九が、__面倒くさいや。とにかく、終わらないから駄目なの。あのねリチャード病っていうんだよ、世界で最初にこの病気にかかっちゃったのがリチャードさんなの、リチャード・アッシャーさんっていってね、ある日交通事故にあって心臓が止まって死にかけてだけど奇跡的に助かって、でもその後退院した日に今度は泉で溺れてしまって、また心臓が止まったの、なのにね、何故か彼は死ねなかったんだよ。心臓はきっちり止まっていたのに彼は立ってお話ができたの。結局、血が回らないことには身体も腐ってしまうからって人工心臓をつけたんだけどね。当たり前のことだけど、妻も子供も友達も彼をおいてみんな死んでしまって、寂しくて絶望した彼は一人で自殺したんだよ」

「ちょっと待て。なんで自殺なら死ねるんだ」

 放心していた俺ではあったが口を挟まずにいられなかった。夏也は俺のしかめ面が見えてないみたいに、楽しげに、

「だって自殺って『殺す』ってことでしょ。自分を殺しちゃうんでしょ。死ねるに決まっているじゃない、『殺す』って、人を死なせるってことだよ、定義の中に死があるんだものそりゃ殺されたら死んじゃうよ」

「どうして発症したんだよ」

「はっきりとは分からない。だけど有力な仮説があって、一回死んで戻ってきた人はその先死ねないからなんだって。リチャードさんは車に轢かれて身体が一回死んじゃったんだね。だけれど何故か魂は、この世に残っちゃったんだ。現代医学が生んだ病気だよ、死んだ人も身体だけなら生き存えることができるでしょ、だから、魂が逝けなかったら、永遠に生き残れちゃうんだよ」

 問いを、投げつけかけて、逡巡。言っていいことなんだろうか。いや、嘘に決まっているし、死なない病などある訳ない、__だけど。だって、分かんねえじゃんかよ。人が、何抱えてるかなんて。

「……お前も、死んだの」

「うん。一度」

「どんな風に?」

「秘密」

 悲しくなるから。

 それきり、彼は口をつぐんだ。なんて馬鹿馬鹿しい話だと、思いつつ俺は、あの歌を、__屋上で聴いたレクイエム。明るくて、綺麗で、どこまでも、悲しい__水死体のようなあの身体。

「なぁ、夏也」

「なぁに? ヒロくん」

「お前、__誰のために、“探してた”の」

 レクイエムを探してる。 屋上で、彼はそう言った。春の日のように明るくて、冷たい雪のように儚い、無情で、悲しい、寂しい音色。その旋律は、確かに、遠い、彼方の誰かを悼んでいた。

「決まってるでしょ」

 夏也は泣きそうな顔をした。微笑みは崩れてないし、涙ぐんでもいなかったけど。あれは、迷子の瞳だった。帰り道が見当たらない子。どこへ行けばいいのかを、ずうっと、探している瞳。あの日の俺には彼の言葉も、彼の瞳も理解できなかったが、今、俺は知っている。 ずっと、ずっと、遠い昔に。

「僕のため。 哀れな哀れな、僕の、__」





 彼はもう死んでいたのだと。


新連載というやつです。



2012/01/16:ソヨゴ