Rainy day's A.M.9:00

 不規則で心地いい雨粒の音に揺らされて、うとうとと、微睡んでいた。実習訓練は中止。今日は久々の休暇である、……と言っても、『神』が死んで以来俺達の休暇は増えた。上がお忙しいからだ、多分。

「小豆屋、」

 さて、心地いい俺の微睡みをさっきから邪魔するヤツがいる。誰だかははっきりとしていて、っつーのもこの部屋は幸運なことに俺とアイツの二人部屋だからだ。俺は寝がえりを打ちながら背後に向かってマガジンを投げ、直後に響いた金属音とヤツの悲鳴から察するにどうやらそれは命中したらしい。俺はこっそりほくそ笑む。ナイスコントロール。

「いってぇ!!」

「うっせーよ、俺は寝てんだよアホ」

「寝てるヤツは『寝てる』って言わねーよこのトンガリ頭」

 悪態をつきながらアーヴィンは近付いてきて、乱暴に俺の肩を揺らした。人の髪型をとやかく言うのはあんまりよろしくないと思う。余計なお世話だ。

「起きろよ。さっきから呼んでんだろ」

「だから眠ぃんだよ俺は。お前の付き合いはしねーぞ」

「アホ。俺の用じゃねえ来客だ」

「じゃあ追い返せ、」

「でも、――カワイイぞ」

 はい。飛び起きた。

「えっ、かわいい?」

「うん。すげえ美人」

「え、美人。え。なんで」

「知らねーよお前の知り合いだろ? っつか何だよ、お前いつの間に、」

「へ? いや違う、違ぇっつーか、」

「違ぇなら紹介しろよ」

「イヤ」

「んだよ狙ってんじゃん」

「だから、そーいうんじゃないって、いや、お前の好み確か黒髪だろ」

「あんだけかわいきゃどうだっていいし」

「けど、上官だし、」

「上官? あんな年下で?」

 ……ん? あれ、なんかおかしい。

「年下? に、見えるんじゃなくて?」

「年下だ。だって制服着てた」

「制服? 軍服じゃない?」

「おう」

「……勇李さんじゃ、ねーの」

「……はい?」

 返答を聞いて頭を抱える。俺の足りない脳味噌は超高速で回転し始めた、さて、どう言い訳しよう? このとんでもないゴシップ好きの前で俺は明らかにしくじった、公園に巣食う鳩の群れよりも貪欲な彼が見逃すはずがない。そう、俺の思い浮かべてた人物と来訪者とは重なり合っていなかった訳だが、問題は俺が別の誰かを思い浮かべてたってこと自体。だって、他に美人な知り合いなんて覚えが無かったんだ、クソッ、なんでよりにもよってコイツの前で、

「で? “勇李さん”って、誰?」

 ですよね。俺でもツッコむよ。

「ただの知り合いだよ」

「ふぅん? へぇ?」

「本当だ!!」

「あんな勢いで飛び起きといて?」

「いや、あの、そうだけど。銃オタだし、」

「上官なんだろ? ほぉう? 何? 職場恋愛ってヤツ?」

「違ぇ!! 別の軍隊だよ!!」

「――別の軍って、なんだよ」

 途端に、彼の表情は険しくなる。理由は俺も言った直後に思い浮かんでた、この世界で、別の軍はすなわち他宗教。他宗教との関わりは、――その繋がりが友好的であればあるほど、背徳行為だ。

 それが、アーヴィンが無言で拳銃に手をかけた事の意味合いだ。

「安心しろよ。 『この世界』じゃ、ない」

「……なんだ。先に言えよ」

 アーヴィンは途端に興味をなくす。そりゃ当然、『次元学』研究に携われる軍人はほんのわずかだ。俺だって、大佐が推してくださらなければ参加することはできなかった(俺が描いてた人物は実験で知り合った女性で、詳細は、……秘密。俺のプライベート)。そもそも俺は二等兵であって二等兵ではないんだ、実際に二等兵でしかないアーヴィンとはだいぶ話が違う。こればっかりは、運の話じゃない。ヤツが次元学に参加するには階級を五つあげねばならず、もし俺が舞い込んできた昇進話を全て受けてたら俺は今頃少佐辺りで、ラッキーでない二人部屋を堪能してることだろう。俺が、そうしなかったのは、

「お前つくづく、大佐のこと好きだな」

 “あの人”の下にいたかったからだ。

「だって、尊敬しないでいられる?」

「俺だって、尊敬はしてるよ」

「お前はな。見たことがないから」

 戦場での“あの人”を。血と死と罪と狂気だけがある戦場(フィールド)で見たことがないから。あれほどまでに美しい殺戮を俺は他に知らない、“あの彼”は、本来人が、生者が見てはいけない者だ、死にゆく者、犠牲者のみが垣間見ることを赦される美。目にした者は誰一人生き残ってはいない、……俺と、“預言者”以外には。

「見れば、分かるよ。見れないだろうけど」

「うっせぇな。俺が二等兵だから?」

「違ぇよ。ジープ係だからだ」

 “彼”の累計犠牲者数には同じ部隊の二等兵も含まれているのだと、恐らく、ヤツは知らないのだ。“彼”は核兵器と同じ、邪神と同じ、呪と同じ。使えば全て死滅する。敵も、味方も。

「“預言者”は、」

「うん?」

「“神様”が、欲しかったのかなあ」

「それ、どーいうこと?」

「や、……なんとなく」

 ウソだ。俺は確信している。もし“彼”が、蔵未大佐が戦場の“神”でなかったら。“預言者”は“彼”を崇めなかった。“彼”があの血生臭い世界、腸が溢れ手脚が千切れ脳漿が顔にぶち撒けられるあの世界の“神”でなかったら、沢霧大佐はあんなにも蔵未大佐に尽くすはずがなかった。ただ命を救われただけで、恩義以上のことをする彼ではない。俺は無論、彼の過去など何も知らないし親しい訳でもない、それでも分かる。“預言者”は、死に纏わり憑かれてる。どんなに明るく快活であっても彼は死と暴力の匂いで満ち溢れていて噎せ返るようだ、俺の嗅覚は、的確に俺の好きな匂いを探し当てるから。勘だけど、「感」。彼は死に惹かれ、死に焦がれ、死に愛される。だが死なない。戦場では、死を意識すること自体が死を招く。それなのに、あれほど死に焦がれてる男が死にありつけない、――蔵未大佐と同じ。

 彼は神様が欲しかったんだ。 終わりを齎す死神でなく、自らを引き止める“神”が。

 “死神のお気に入り”。“預言者”以外の彼の呼び名だ。多分、沢霧大佐の場合、死に焦がれてるだけじゃないだろう。同じくらい、恐れてもいる。深く愛されているからこそ焦がれもするし恐れもするんだ、それは、母への想いに似ている。自らを縛るものに対する安堵と恐怖。反発と思慕。

 何もかも捧げるだけの価値がある“神”を、彼は欲していた。

「ってかさ、いつまで待たせんの? 客」

 や、ばい。すっかり忘れてた。俺はさっさと立ち上がりついでにアーヴィンを平手で殴り(何すんだよ、と彼は怒鳴って睨んできたので蹴りも飛ばした)、玄関まで足を運ぶ。しかし、客? 何故俺に? しかも相当な美人だなんて俺のデータベースにはない。俺は散らかったアーヴィンの靴を蹴散らしながらドアを開けた。 そこに、いたのは。

「お久しぶりです」

 ああ、なんで忘れてたんだ。アイツとおなじスカーレット、……でも。

「どうして、ここに?――泉ちゃん」



Rainy day's A.M.9:00



 午前9時。私はその日、基地で案内役を待っていた。私は新米(プロビー)で、この四月に軍事学校に入学したばかりで、14だった。四月九日の春雨が基地の外にさめざめと降って、私は廊下に備え付けられたベンチに座り、彼を待つ。柔らかな優しい雨はそれでも大気を冷やすようで、私の身をひんやりと包んだ。プラスチック製のベンチは背もたれのない簡易なもの。私は生成りの壁に背を預け、ガラス越しに空を見た。大粒の雫がフィルターをかけて世界はいつもよりまるく見える、小さな小さなたくさんのレンズにしっとりと濡れた樹々の葉が映る。遠くから、足音。たぶん彼。案内役が誰なのかその時の私は知らない。でも、今は知っている。

 噂だけは聞いていた。栞田陸軍狙撃科コースに、17歳の美青年がいる。けど、私は部隊コースで、男子と女子では寮も違う。縁のない話だと感じ私は聞き流していた。ほんとうに綺麗な顔だって、ちょっと見てみたい気もしたが、同時に耳に入ってきた素行の噂で興味が失せた。軽薄な人は、嫌い。今だってそれは変わらない。

 とかく、私は待っていた。塩化ビニル素材でできた床の感触を意識しながら。足音が近付いて、それは私の足音よりも重く響いた、きっと男のひと。目を閉じる、彼の靴音は不思議と私を落ち着かせる。どうしてかな、暖かかったから。亡くした父を思い出したから。

「寒くない?」

 目を開く。右側に立つ彼を見上げて、思わずあっと声が漏れた。刹那、時は樹脂で固められ、ガラスを流れる雫も、雨も、水滴に揺れる樹々の葉も私の鼓動も静止する。私は彼を網膜に映した瞬間に察したのだ、彼はそう、“特別なひと”。私にとっても、世界に、とっても。

 美しいひと。

「初めまして、李伶さん」

 その頃の章吾は今よりも、少しだけ髪が短かった。





 死んだのは俺だったかもしれないのだ。そう思うと、不意に自分が分からなくなる。本当は生きているのは兄で、俺はとっくのとうに死んでる、――すると、脊髄と脳髄を冷たいモノが駆けて行く、――ゾッとして、鏡を見る、それが自分であるという確証はまるでない。未だ知らない、生きていたならば瓜二つだったであろう彼の顔。知らない、自分。腰に巻き付けたバスタオルは湿って脚に貼り付いて、少し、気味が悪い。

 父母を恨んではいない。俺は彼女らを愛してる、無事に生まれた息子を見て「無事でなかった」子を想うのは当然のことだろう。愛されなかった訳じゃない、二人はもう一人愛してただけだ。もう一人、分娩室で産声を上げることなく亡くなった兄を。沢霧、章人を。俺の向こうに。

 俯き、洗面台を見つめる。髪の先から滴が垂れて陶器の肌を滑り落ちていく。湯冷めする前に乾かさなきゃと頭のどこか考えてはいて、でも動けない。動く気になれない。徐々に膨らんでゆく不安が恐怖となり身を浸すのを感じた、恐怖? 狙撃手のこの俺が? いや。俺はずっと怯えてる。たぶんずっと、生まれ落ちてから。

 盲人は目が見えるようになることを望むだろうか。強烈な光に射抜かれるその感覚を望むだろうか、親しみも見覚えもないイロトリドリの世界が、欲しいか。そうだろう、望むんだろう、欲しいんだろう、大抵の人は、……けど中には望まない者も、恐れる者も、いる筈だ。知らない世界、見ずにいられた世界、美しいならいい、だが併し、「見ずにいられた」としか形容できない世界だとしたら? 俺は、盲いていたい。見たくない。だからずっと目を瞑っていた。生まれてから今まで、ずっと。

 顔を上げる。鏡には、紛れも無い俺の顔が映っている。知らない顔が。幼い頃からよく女顔とからかわれた馴染み深い顔が。親しい顔が。俺じゃない顔が。

 此処にいるのは、誰だ。

 ふっと、何も分からなくなって、気付けば鏡が割れてしまっていた。血で濡れてる、絵の具みたいな赤が、拳で叩き割ったのだと覚るまでに数秒かかった。蜘蛛の巣状のひびの隙間にも俺が映り込んでいる。割れた破片に、顔、顔、顔、知らなかった、いくら割ったって鏡は増えるばかりだったのだ、もう一人いる、一人じゃない、此処にも、彼処にも、何処にも、俺が、

 落ち着け。俺は、俺だよ。そうだろ。左耳のピアスホールに触れる、なぞるように一つ一つ確かめていく。俺がいる証。だってこの穴は蔵未を想って開けたのだから。繋がりだから。いくらタトゥーをいれたって、俺は俺の存在を証明できなかった。俺のだって、この身体も魂も俺の物だとは思えなかった、だって、“独り”だから。俺がいることを証明するのは俺自身の想いそれだけだ、愛してること、愛しいこと、愛されてると感じてること、――俺自身を。身体では駄目だ、髪を染めても自分の為にピアスを開けても同じことだった、借り物に傷をつけているだけな気がした、そうじゃない、頭では分かっていても心は思う。 “これは俺のじゃない”。



「そうだよ。返してよ」



 沈黙。声はバスルームに反響し、長く尾を引いた。風呂上がりの湯気に溶けてく波長、判別不可能になるまで、俺は追い続け、戦慄する。俺の、声だ。間違いなく。俺が言ったんだ。無意識に。

 怖い。

 俺が何をしたんだろう、誰か愛せればそれでよかった、愛されなくても構わないくらい愛せればよかった、対象が、偶像が欲しかっただけだ、いけないこと? 証明したかった、俺は此処にいて、誰かを想う、想っているから俺はここに居る、想う相手が居なくなったなら俺はどうすればいい? 雷光が、嘶き声をあげて蘇る、15歳の誕生日だった、一週間だけ取れる夏期休暇で俺は両親に会いに行った、喜び勇んで家へ帰った俺は焼け焦げて肉の塊と化した両親に再会した、普通のこと、この世界では、家族が生きていることの方が珍しいから、母さんと、父さんの死体はいつまでも燃えてああ人間は動物は脂肪でできているんだなって俺は思った、油だ。肉。賞状、成績表写真プレゼント、父母に渡すつもりでいた物全部壊して破いて捨てた、たった一つ、手紙だけはライターで丁寧に燃した、薄灰色の煙になれば天国の彼らに届く気がした、天国にはすでに兄がいて、三人で仲良く暮らしてる。

 捨てられた。 そう、直感した。

 俺の手紙は読まれない。生きた身体を持つ俺は魂だけの兄に勝てない。兄は、これ以上ないくらい清らかに死んだのだ、何も傷付けず殺めず穢さず静かに死んだ、俺は、生きたから、美しい死者である兄には勝てない。俺は、捨てられる。

 妄想だ。恐ろしい妄想。だけど俺にはこの妄想こそが真実に思えた、その瞬間、俺は俺の証人を失ったのだ。彼らは俺を俺の息子だと、言ってくれないと、思った、天国へ行き、テレビカメラ片手に、マイクを向けてインタビューしたら彼らはこう言う、――「息子? ええ、一人いるわ。章人っていう、可愛い子が」――何故なら彼らが見てたのはやっぱり俺じゃなかったから、俺越しの“もう一人”だったから、彼らがやっぱり愛してたのはやっぱりやっぱり兄だったから、彼らのいるところにいるのは俺じゃない。兄だ。
 独り。寂しさなんざ問題じゃない、そんなのは、そんなくだらない感情はほんとうにどうだってよかった、俺がいるか、いないかだ、繋がりがなくなってしまえば俺は俺を証明できない。自分自身はまるで霧みたいに指の間をすり抜けていくから、確かな誰かが、受け止めてくれなきゃ、天国にいるあの人たちはもう俺のことを見ていない。否、――嘘はやめる、――天国なんて、無い。

 俺が愛したひとは、消えたのだ。

 彼女は俺を見つけてくれた。俺は絶対確実に彼女を愛した、たぶん彼女も、だから俺は俺自身をそこに見つけた、彼女の中に。彼女は俺に愛されていると知っていたから。彼女は、俺の、身体の向こうのほんとうの俺を見つけてくれた。俺に見えない俺を、身体ではない俺がいることを証明してくれた、愛してた、永遠に傍にいれると思った、そうでなきゃ俺はまた、ほら。神は死んだ。神は死んだ。神様はどいつもこいつも去っていく、どんなに願っても、簡単に俺を置いていく。去っていく。俺のもとを。

 よろめいて、ドアに寄りかかる。そのまましゃがみ込んでくと、身体が冷えているのが分かった、いいよ。都合がいい。このままそっと、死者の温度まで連れてってくれ、行かないでくれ。行かないで。また一人俺を置いていくならどうしてあのとき俺を救った? お前は、俺を知っているだろ、そこに触れようとしないのは俺を想ってくれているからだ、分かってる、俺だってそうだ、誰よりもお前のことを考えていると断言できるだってそれは俺の為でもあるから、色恋沙汰じゃないけどさ、愛してるよ。なのに、なあ、お前は俺に失えってのか、また繋がりを捨てろっていうのか、俺はまた孤独になってまたこんな恐怖の中に突き落とされるのかお前のことを、殺せと、君は言う。俺を殺して。それが誰よりも愛する君の願いであると俺は知っている。お前のことが好きだから、殺したいよ。けど、殺せない。怖い。怖いんだ。どうか、どうか生きてください、“神様”、生きて、そして俺を、

「……独りに、しないで」



(××が欲しかった。 俺は“一つ”に、なれなかったから。)





 章吾と恋人になってから6ヶ月。経ったとき。彼の同級生は口々に文句を言った。負けちゃったじゃんよ、絶対別れると思ってたのに。その後基地で彼らを見かけたとき彼らは章吾にタコ殴りにされていたワケだけど、彼らの文句も無理はないのだ。私は所謂、大穴だった。絶対安全な遠回りのルートを選んで橋が落ちた感じ、悔しさもひとしおだったろう。悪いのは章吾。女の子をとっかえひっかえ平均三週間で捨てていた彼、私は彼らを責める気になれない。6ヶ月は当時最長記録で、現在私が更新している。今日で一年。早いような気もする。

 彼とであった日も今日みたく、優しい春の雨が降っていて、私は彼の髪の毛が雨に濡れることを期待した。彼の銀髪は、濡れるとシルクのごとく輝く。私はその輝きが好きだ、彼はほんとうに、ほんとうに綺麗な人だもの。眺めるだけでとても仕合わせ。それ以外、いらないと思える。

 二ヶ月、会ってない。章吾にとって、初めての実習訓練だ。狙撃手は、実に長い期間標的を監視する必要がある。標「的」が「人物」になるまで、相手が生きた人間であると認識してしまうまで、長く。でも彼はタフな人であったし、恋人の私がいうのもなんだがあまり情のある人じゃない。時に彼の眼は、存在そのものを否定するだけの鋭さを持つ。その刃。私は向けられたことがない。だから私は彼の全てを知っているとは言えないのだろう、でも、別にいい。構わない。見えている部分がわずかでも人は人を愛せるのだから。私は、彼を愛しているし、彼が私を愛してることも知っている。それで十分だ。

 紅茶を入れて、待っていた。 あの日と一緒。 彼のことを。

 やがて彼の気配を感じた。彼の優しい足音が私の鼓膜をそっと撫でる、私は、瞼を下ろし、想像する。135号室、137号室、139,141、……すぐそこ。電子ロックの解除音。私の心は弾んだのに、彼の声は、聞こえてこない。

 任務失敗。そんな言葉がよぎる。不安がわっと押し寄せてきて、身動きがとれなくなった、まさか。でも。まさか。狙撃手が捕虜にされることはほぼ無い。生かしとくだけ損だから、速やかに。 殺される。

 気が付いたら、私はもう玄関へ駆け出していた。キッチンを抜け、リビングを抜け、玄関に繋がる扉を開く。途端に、雨の音がした。……章吾はドアを開け放ったまま、玄関で立ち尽くしていた。

「おかえりなさい、」

 ほっとして、走り寄る。目の前に立った次の瞬間、彼に抱き締められていた。その手はどこか必死で、強くて、ひどく息がしづらくなる。

「章吾? 苦しい。ゆるめてください」

 答えは無い。腕に、力がこもる。

 しばらくは、させたいようにさせるしかないらしい。章吾の手は強まりはしても弱まることはけしてなく、抱きすくめられた私は満足に呼吸できないままに背に手を回す。軍服は、雨でしっとりとして、私は彼の髪を想う。絹糸のようになめらかに、きらめく銀。大好きなシルバー。

「李伶、」

 自分自身の声色に驚いたように彼は口を噤む。泣き出しているみたいだったからだ。それとも、だから雨に濡れた? 私は彼の顔がみれない。

「俺は、分かってなかったよ。何も」

「何も、って?」

「俺が『する』ことを。俺がこれから、『してく』こと」

 愛してるって、言って。 囁きは懇願として私の胸に届き、私は頷く。愛してる。愛して、います。彼は手を弛め、私の頤をくいと持ち上げてキスをする。とても軽いキス。彼にしては珍しい、繊細な。壊れそうなキス。

「なあ李伶。人を、殺したよ」

 そうして、私は悟ったのだ。傍にいなければならないと。ずっと、彼の傍にいて、片時も離れてはいけない。彼を、ひとりにしてはダメ、――だって、あれは雨でした。頬を流れた透明な雫。





 貴方は、泣けなかったのだ。


2013/02/21:ソヨゴ