ドクハクケイシキ 「___弟、か。」 俺は自室で天井を見上げ、抑揚なく、呟いた。 ドクハクケイシキ。 畳と足が接触する。障子で仕切られた部屋は一件、プライバシーがないように思えるが___実はこの部屋がある離れの屋敷自体が、俺の自室のようなものだ。祖父母はあまり来ない。次来るのは、晩飯の用意ができた頃だろう。 つまり一人で思い悩むには、ここはいい空間だってこと。 弟、か。弟、ね。 「ショックといえばショック、だけど……」 どうでもいいといえばどうでもいい。納得はできる。おかしいことではない。大体藤宮は藤宮だ。あそこは俺の家じゃない。俺の家なんてどこにも無い。 じっちゃんとばっちゃんは、祖父母である前に師範とその妻だ。家族である前に弟子と師匠。それは当たり前のことだし、実際そうであるべきだ。 独りぼっちってワケじゃないけど、寂しくないのかと言えば嘘になる。不幸なわけじゃなく、かと言って幸せとはいえない。家族はいないけど親友はいる。友達も。ずっと苦しいわけではない。ただこんな風に時々、フッと、_____虚しくなる、だけ。 「人のことならどうとでも言えるくせに。」 無責任なヤツだ、と思う。自分のことは見て見ぬ振りして、他人のことに口出して。馬鹿みてぇ。 “分かっている”からタチが悪い。頭に心が追いついてない。だからどうすることも出来ない。解決策が見当たらない。 「泣かれちったなぁ……」 さっき切られたばかりの携帯電話に目を向ける。 ごめんな、和弘。 泣かせちまうとは思わなかった。俺のため、だよな。俺のせい、だよな。お前が嫌だと泣くほど俺は____苦しそうに、見えるのか。 自分が一番分からないのだ。苦しんでるのかどうかって、それさえも。ただ虚しさと同居してるってことは多分、俺は満たされてはいない。空洞だ。それくらいは分かるんだけど。 本当は分かってるんだよ、お前が俺のこと、本気で大事に思ってくれてるってこと。でも恐いんだ。俺は……臆病者だから。 伸ばしてくれた手。振りほどいてばかり。悲しませてばかり。責めさせてばかり。お前が悪いんじゃないんだ、お前には結構救われてるよ、それを言って何になるんだ。言えば言うほどお前はお前を責めちまうんだろ?お前だって優しいのに。俺が、臆病なだけなのに。 上手くいかない。 愛されるのが恐いのでもなく、愛し返せないわけでもない。死ぬのが恐いのは本当、でも俺と他の、例えば和弘の命どちらか選べと言われれば即答で死を選ぶ自信がある。死ぬのは確かに恐いけど、本当に恐れてるのは違うことだ。ひどく子供じみた、どうしようもないことを恐れてる。 告白されるのが嫌なのは、気味が悪いからだ。愛は恐くない、ただ愛欲は気持ち悪い。少しでも欲の混じった愛は受け入れられない。拒絶する。吐くまでいっちまうのは、自分でもおかしいと思ってるけど………しょうがないだろ?母さんの命を奪ったのは愛欲で、それを醜いと思ってしまうのは、自分ではどうしようもない。恐いのはそんなことではないんだ。恐れてるのは、もっと………もっと単純なこと。 言っても何にもならないから、言わないけど。 「………ん?」 携帯が鳴った。メールだ。さっき泣かせた親友だろうか。そう思って画面を見ると、そこにはひどく意外な名があって。 何でいきなり。 戸惑いつつ、俺はそのメールを開いた。 「よっ!虎くん。いきなし呼び出しちゃってごめんね」 待ち合わせ場所は公園のベンチ。他に誰もいないのもそうだけど、目立つ髪の毛は、やっぱり見つけやすかった。 「ミサワさん。どうしたんですか、いきなり。」 隣に座る。ミサワさんは息を白くしながら答えた。 「大したことじゃ___あるかも。ちょっとね、話を聞いてさ。柳からね。」 「柳さんから?」 あぁ、悠が発信源か。一人納得して呟く。 「察しがいいねぇ、その通り。 どう、弟さんは。」 「……変なヤツでした。」 「ふぅん___それだけ?」 どうなんですかね。 俺は曖昧な返事をした。 自分でもどう思ってるか、よく、分からないです。 「まー初対面だもんなー。でもさぁ、」 傷口掘り返されるようなこと言われて、いい気持ちはしなかったでしょ? 優しい笑み。嫌ったっていいじゃん、別に。そう言いたげな。 でも、 「傷口っちゃ傷口ですし、掘り返されたといえば掘り返されたんでしょうけど……アイツは何も、知らないみたいだったから。」 だから、かわいそうとしか思わなかった。 ほとんど独り言だ。きっとアイツは知らないのだろう、知っていてあの男を慕っているというのなら、きっと心など持っていない。 母さんは、あの男に殺されたようなものだ。 「教えてはくれない感じ?」 「言ってもいいんですけど、言って何かになりますか?」 皮肉ではなく、本気でそう思う。それは俺の問題でしかなく、貴方を巻き込むことでもなく、貴方が知ったところで何も変わらない。 俺のことは俺が一番良く知っている。そして一番分からない。さらに一番____興味ない。 心底どうでもいい。 「虎くんさぁ、今幸せ?」 「幸せなんじゃないですか?」 「そりゃ、幸せじゃないってことだね。」 知った風に言うなぁ、と思う。思うが、それは俺にはよく分からないことだから。ミサワさんの言う通り、俺は幸せではないのだろうな。 「愛されるのが恐いんだっけ、」 「違います。………本当は。」 あれっ。ミサワさんは目を丸くした。柳からそう聞いたんだけど。 「今度の発信源は、誰ですか。」 「分からない? そのことを知ってる子なんて、一人を除いて他にいないでしょ。」 「でも、」 和弘が言うとは思えない。 答えると、ミサワさんは素っ気なく返した。 「だってかずくん今、結構限界、来てるでしょ。」 「………俺のせいですよね。」 「君がそう思うこと自体、かずくんを追いつめてんだよ。___百も承知だろうけど。」 上手くいかないねー。 ミサワさんはため息をついた。 「君は自分のこととなると妙に醒めるな。何で?」 「いや……もう知っちゃってるんで。」 「なるほどね。悩む必要はないんだ。」 「それに、どうにもならないことだって、それだけは……分かっちゃってるんですよ。」 言うだけ言っちゃえばいいじゃん。 ミサワさんは軽く答えた。わざと、俺が楽になるように。 「俺じゃ嫌ならかずくんにさ。和弘くんは多分、言って欲しいんだと思うよ?」 分かってんだよそんなこと。 分かりきっている。アイツは大事に思ってくれてる、だから俺を救えないことに傷ついてる。そんなの知ってる、俺だって悩んで欲しくない、傷ついて欲しくない。けど、言えないんだ。言ってしまえば終わりなんだよ。だからどうしても………和弘にだけは、言えない。 「虎くん、どうしたの黙り込んじゃって____虎くん?」 ミサワさんの手が、頭に置かれる。大人の手だ。慰めるような、寄りかかりたくなるような。 「声出して泣いたら?……そんなに気付かれたくないわけ。」 アイツに似てるね、そーいうとこ。 呆れるような声音。 「甘えりゃいいのに。助けてって言ってみれば? 誰も責めりゃしないよ。」 「………ちが……違うん、です。」 言えないんです。____恐くて。 「恐い?」 ミサワさんの問いかけに、黙ってうなずく。 言ってもいいか、この人になら。和弘以外の誰かになら。 「愛されるのは恐くないです。むしろ嬉しいです、誰かに愛して欲しいから。愛し返すことだって出来ます。大事だと思ってくれる人を、大事だと思ってしまう___それが怖い。」 昔。愛してくれる人がいた。俺は当然その人を愛して、だけどその人は死んでしまって。もう一人、あの親友は、俺を大切だと思ってくれてる。和弘は、俺にとっての大切な人になってしまう。それが怖い。 失いたくない。 「一度だけ、なのに……俺が大事に思ってた人が、誰より大事に思ってた人が、死んで、しまったのは、あの一度だけ、なんです。だけど、……いなくなっちゃう気が、するんです、俺が大事に思う人は、大切に思う人は人は、みんな、みんな、____死んでしまう、気が、するんです。」 言葉が詰まる。涙でつっかえる。 こんなの久々だ。 「頭では分かってて、そんなワケない、死ぬはずない、って、でも恐いんです、よ、恐いんです、どうしようもなく恐いんです、大事とか、大切とか、そんなの全然関係なくて、死んじゃうときは、死ん、じゃうんです。神様なんていないから、どんな大事な人も、どんな大切な人も、すごく簡単に死んじゃうんです。呆気なく、本当に唐突に、一瞬で。どんなに失いたくなくても、どんなに死なないでくれ、って、願っても、死んじゃうん、です、人は。」 「だから___和弘くんに言えないの?」 「だって言ったら終わりじゃないかっ!!」 声が上ずる。落ち着か、ないと。こんなんじゃダメだ。 ミサワさんが背中をさすってくれた。俺は何とか、口を開く。 「だってこんなの言ったら、言ったら、和弘がっ!!言ったら終わる、全部、嫌なんです、嫌だ、死ぬなんて嫌だ、アイツが居なくなるなんて絶対嫌だ、恐いんです、そんなの嫌なんです、和弘が死ぬなんて絶対受け入れられない、耐えられない、死んで欲しくないんです、どうしても、アイツだけは、アイツにだけは………アイツが死ぬなんて、嫌だっ………!」 嗚咽が止まらない。口に出せば出すほど、恐くて、どうしようもなくなる。 俺が大事に思ってる人は、みんなみんな、死んでしまう気がして。 もう失うのは嫌だ、失うのは恐い。アイツが死ぬのは、そんなことよりもっともっと恐い。 手を差し伸ばされたって、その手を取れるわけがない。その手を取ればいなくなる。勘違いだって分かってるけど、恐い、いなくなる、恐い。 死んで欲しくない。それだけは本当に、どうしても、嫌なんだ。またいってしまう、いなくなってしまう。俺の大事な人がまた、一人。 想像するだけでも背筋が凍る、それだけは、お願いだからやめて下さい。和弘を連れてくのだけはやめて下さい。連れて行かないで下さい。奪わないで下さい。俺の大事な人がいなくなるのは____もう嫌だ。 頭では分かっていても、心が信じてくれなくて。だって死ぬはずないなんてどうして言い切れるんだよ?あんなに大事に思ってたのに、だって母さんは死んじゃったんだ。想いなんて何も関係ない。俺がどんなに願っても、死は容赦ない。いなくなる。いなくなってしまう。俺がどんなに死んで欲しくないと思っても、和弘が、和弘が、 死なないなんて言い切れないじゃないか。 「…………強迫観念、ね。」 つらいね、それ。 ミサワさんが切なそうに言った。俺はまだ、泣き止めない。 「嘘、ついちゃうんです。見抜かれるのも知ってるし、その嘘で、アイツが傷つくのだって分かってて、でも恐くて、本音を言ったら、だって、大事な人ほど、だって、」 「ん、分かるよ……分かる。」 「俺、ただの臆病者なんです。大事な人が死ぬのが恐くて、だから却って傷付けて、上手くいかなくて、生まれたときから上手くいかなくて、どうすればいいんですか、俺、もう傷付けたくないです、分かってるのに、くそっ、どうすれば、俺、もう嫌だ、もう、嫌だ」 はいはい、自分を責めないの。ミサワさんはあやすように言う。 「誰も悪くないんだから。____本当、上手くいかないね。何でだろうね、みんな、いい子なのにね。」 「っ、ぁ、俺、どうすれば」 「かずくんは死んだりしない、って………分かってんだもんね、頭では。」 頷いた。何度も。 「俺が、俺がいるせいで、和弘は傷ついて、傷つく、から、俺なんか、俺なんかいなくなればって思った、思ったけど、俺が死んだら、アイツは絶対悲しむじゃないですか。」 「………うん。」 「だから死ねない、死んじゃ駄目で、でもつらいし、きついし、どうすればいいかわかんなくて、恐いままで、誰にも心を許せないまま、母さんみたいに死ぬのかなって、思って、俺は大切な人を傷付けてばっかなのかって、だったら、こんなことなら、いっそ、」 「俺なんか、生まれてこなければよかったっ………」 言っちゃ駄目だ、と、思っていたことだった。口にした瞬間、押し潰されてしまうから。その通りだった。言葉にした瞬間に、予想は確信となって頭の中を埋め尽くす。 生まれてこなければ、誰も傷つかなかったのに。 生まれてこなければ、_____俺も、傷つかなかったのに。 大事な人ほど傷付ける。俺が、誰かの大事な人になんてならなければ良かった、かと言って、そんなの俺にはどうしようもなくて、だから、………俺なんか最初から、存在しなければ良かったんだ。 こんなこと言ったら、アイツはきっと怒るんだろうな。 他人事みたいに考える。いなければよかったのに。生きてたって仕様がないのに。生まれてこなきゃ良かったのに。 「____虎くん、それもう一度言ったら、怒るよ。」 「…………ごめんなさい。」 「謝らないでよ。……タチが悪いなあ、今の言葉がまた誰かを傷付けるって、分かってんの、そんなことまで。」 ごめんなさい。 俺はもう一度、謝る。 「とりあえず、生まれてこなければよかったなんてもう二度と言わないでね。特にあの子の前で言っちゃあ、駄目だよ。」 「分かって、ます。…………嫌というほど。」 「____だよ、ね。」 虎くん、さぁ。 彼は立ち上がって伸びをしながら、俺の方を見ずに、話し始めた。 「君の心は俺にはどうしようもないし、色々口出されても迷惑だろうから俺は何にも言わないよ。でもさぁ、せめて溜め込むのはやめようよ。空っぽの心ん中に苦しみだけ溜め込むのはやめようよ。せめてそれぐらいは吐き出そうよ。きつくなったら頼って来なよ。頼りないだろうけど、俺虎くんよりは年上だしさぁ、大人だからさ、君はまだ子供なんだからさ、頼ってきてもいいんだよ別に。俺は殺しても死にそうにないっしょ?そんなに大事でもないだろーし。だからさぁ、苦しくなったら呼んでもいいよ。君が苦しんでだって傷つきゃしないよ、俺は。けどね、君が泣いてると、心の中でもだよ、嫌ぁな気持ちになるんだよ。多分他のみんなもそう。君はいい子だからさぁ、つらいと思って欲しくはないな。」 まぁ要約すると、無理すんなってこと。 ミサワさんは一言付け足して、俺に缶コーヒーを投げ渡す。俺は受け取ってプルトップを開け、一口飲んだ。 「あっま………」 「悪いねー、俺甘党なんだ。無糖とか飲めるヤツの気が知れないよ俺は」 ははっ、と、俺はちょっとだけ笑う。ミサワさんも振り返って、同じように笑った。 「寒い中呼び出してごめんね。」 「いえ。___楽に、なりました。少しだけ。」 「そ?良かった良かった。」 じゃあ俺は帰るから。後ろ手に手を振りながら、ミサワさんは夜道を歩いていった。その後ろ姿を、見えなくなるまで眺める。 「………いつもはかっこ悪いくせに。」 こんな時だけかっこいいからずるい____大人って。 タイトルは深い意味はなし。虎が言っていたのはほとんど独り言みたいなものだってことです、隣に人がいるのに。 2010/12/05:ソヨゴ |