いろは唄 | ナノ


偶然ふと目が覚めて、どうせなら普段より早く鍛錬を始めようかと少年はまだ朝焼けの光も薄い闇の中を歩いていた。

丁度演練場へ差しかかった辺りで、微かに鼻につくあの独特の臭気に気付き。不審に思って辿ればその臭気の元は学園の敷地を囲う塀の、ちょうど人目につかない倉庫裏の辺りだった。
濃くなったその臭気に思わず眉を顰めて目を凝らし、そしてまだ明かりの殆どない早朝の闇の中でもすぐに気付くほどの異様さに思わず背筋が凍る。

― 地面を染め上げる、黒い液体。既に乾き始めていたが臭気の原因はこれに違いなかった。
血痕、ではない。もはや血溜まりと呼べる程の量。

衝撃と混乱に一瞬身を固くしたが、次の瞬間には弾かれたように地を蹴って駆け出した。
血の跡は導くかのように点々と地面に刻まれている、闇の中を必死で駆けた末にそれが学園内を二分する塀の先へ消えているのを確認すると、彼はそのまま躊躇いもなく地を蹴って飛んだ。

塀に足をかけ、そのまま向こう側へ飛び降りようとした、その瞬間。

「いけません、鉢屋三郎君」
「っ…」

強く肩を引かれ、塀から降りることは叶わなかった。
反射的に睨みつけるように振り返ると、そこには真剣な眼差しの女性が彼をじっと見下ろしている。
思わず反抗ように、彼はその手を振り払った。

「っ山本先生、この血は…っ」
「…駄目よ、忘れなさい。他言は無用です」

焦れたように叫んだ彼の声にも、シナは首を振って強い口調でそう返すだけだ。
それを受けて再び走り出そうとする三郎の身体を強く抑え込み、固く感情を見せない声色で続ける。

「あれの始末は私がします、貴方は忘れて、部屋に戻りなさい」
「嫌です!!あれは彼奴等の、っ千茅か九子の血なんでしょう!?」
「鉢屋君、落ち着いて」
「あれは軽傷じゃない、下手すればっ…」

下手すれば、…続きを紡げなかった。
口にするのも憚られる程に、その言葉に真実味を感じずにはいられなかった。
臓腑に氷塊が滑り落ちたような感覚に、彼は思わず自身の身体を両手で抱え込む。
そんな三郎の様子にシナは小さく息を零し、ゆるりと膝をついてまだ幼い少年の凍りついた頬をそっと撫でた。

三年の中でも優秀とはいえ、まだ彼は幼い。まだ箱庭で暮らすことを許されている、それこそ“たまご”なのだ。
…動じるなというのは流石に無理が過ぎる。

なるべく穏やかに、シナは優しい声を出すように努めた。

「…大丈夫、生きているわ。今は部屋で休んでいる」

そう、眠っている。最低限の処置だけを済ませ、一時の時間も惜しむようにそれこそ泥のように。 午前には次の忍務へ発たなくてはならない、その為の体力を少しでも取り戻すために。

少しでも安堵をと発した言葉であったが、反して三郎の顔は苦く歪んでいった。
まだ幼い、けれどやはり、彼もまた忍びとしての訓練を積んできた者なのだ。此の程度のやり取りは容易に真意を見抜いてしまう。

「生きている、…でも、“無事”じゃない」
「………」
「彼奴等はこの一月碌に学内にいない、何をさせているのか先生方に聞いてもはぐらかされる」
「鉢屋君、」

聡い子だ、けれど今はそれが彼を傷付ける。

「っさっきの血の量は動くのも辛い筈だ、なのに、“今”は“休んでいる”だけ!先生は…っ二人を殺す気ですか!?」
「……っ」

鋭く、ともすれば殺気すら宿りそうな少年の瞳に睨まれ、シナは珍しく気圧されたように目を伏せた。

いくら忍びの世界が非情であることを理解していても、大切な友人が突如としてその残酷な世界へ放り込まれたことを彼は受け入れられないのだ。
…事実、シナでさえ今でもそのあまりに非情な選択が過ちであったのではないかと迷うのだから。

けれど、あの日強い瞳で自身の問いに頷いた幼い少女達の決意を、その選択を強いた自分だけは邪魔してはならないのだ。
誰に憎まれようと罵られようと、彼女達自身がその道を諦める以外は、自分があらゆる手を尽くしてこの道を突き通させなくてはならない。

「………」

暫しの沈黙の後、シナは再び三郎の肩を強く掴む。
涙すら浮かびそうな幼い少年の瞳を真っ直ぐ射抜き、強く厳しい言葉を吐いた。

「…部屋へ戻りなさい、鉢屋三郎」
「っ先生!!」
「仕事はまだ残っているの。貴方のような血如きで取り乱す子供は、折角研ぎ澄まされているあの子達の集中を乱しかねない。…僅かでも緩めばそれはこの先の忍務であの子達の死に繋がる」
「っ……」

容赦のない言葉だった。厳しく鋭く、…そして正しい。
まだ箱庭を抜け出していない無力な子供である自覚があるだけに、深く胸を抉るシナの言葉に三郎は返す言葉を紡げず俯いた。

情けない。
あんな傷を負いながらも必死に忍びとして生きようとしている彼女達に比べて、その覚悟を見守ることすら出来ない自分の幼稚さが。
その重い重い責の、一部すら背負ってやることすらできない自分の無力さが。

強く握った拳に爪が食い込み赤い滴を垂らしたが、構わず彼は力を籠め続ける。
それを視線の端で捉えて、シナはそれまでの固い声色を緩めゆるりと少年の頭を撫でた。

「…今は耐えなさい。もう少しで急ぎの依頼は片付く、そうすればあの子達も気を抜いて許される時間が与えられるわ。その時に何より嬉しいのは、貴方達の顔を見ることの筈よ」
「………」
「急いては駄目よ、鉢屋君。貴方もいずれあの子達と同じ道を進むことになる、今は見守る強さを身につけなさい」
「……失礼、します」

震える声で小さく返し、三郎はそのまま逃げ出すように駆け出した。
長屋ではなく裏山の方へ消えていく小さな少年の背を見送りながら、シナは深く深く溜息を吐く。

「……ごめんなさいね」

あの悲痛なほどに思いつめたような表情で幼い顔を歪ませる姿を見るのは、もう何度目だろうか。
先ほど三郎と交わしたやり取りはもう数人の生徒と同じことを繰り返していて、皆一様にあの苦しくて堪らないような目でシナを見上げるのだ。

最初は四年生の忍たまだった。 既に忍務についている五、六年の忍たまは全てを察しつつも黙って見守る器が備わっているようだったが、四年以下の生徒にはとても黙ってみていられるものではないのだろう。
涙を滲ませながらやめさせてくれと縋る者もいた、激昂して叫ぶように抗議する者もいた。けれどそのいずれにも、シナは先ほど三郎に投げつけたものと同様の言葉でしか返すことが出来ない。

三年生は先ほどの三郎が初めてだったが、あの動揺を周囲に隠せるほどの実力はまだ彼には備わっていないだろう。
となれば恐らく、数日中にはあの少女達と親しい三年生の耳にも入る。そして三郎と同じくあの少女達を案じてシナの元へ訪れるだろう。

…大切なものが傷つく姿を黙って見守る覚悟を、まだ幼い彼らに強いるのは酷だろうか。
あの日頷いた少女達を見た瞬間から覚悟していたこととはいえ、流石のシナも弱音を吐きたくなる。

「…駄目ね、私がこんな様では」

大丈夫、きっとやり遂げる。
自身に言い聞かせるように胸中で繰り返して、シナは踵を返し駆け出した。


20160727