いろは唄 | ナノ


鶫の鳴き声が響く冬晴れを何となしに見上げて、戯れる下級生の声を遠くに彼は手にしていた手拭いを弄びながら歩いていた。

実習に忍務と重なって暫く息をつく暇もない日々を送っていたが、先程漸く束の間の休息を与えられた次第であり、何時になく緩んだ仕草でその歩みは遅い。
忍びとしては褒められたことではないのだろうが、常に気を張って生きるなど人間である限り不可能だ。安全を許された学内でくらいは許容してもらおうではないか。


そんなぼやきにも似た独り言を胸中で溢しながら、彼がふと視線を巡らせた時だった。
学内を囲う塀の上から、音も無く、重力を感じさせない軽やかさで降り立った人影を認めて、彼は僅かに目を丸くする。

例の如くどこからか現れた事務員の彼に小言を貰いつつサインを渡す姿を見つめながら近寄ると、気付いたらしい少女がぱっとその表情に花を散らす。

「仙蔵先輩っ」
「っ…」

その反応にまた僅かに目を丸くした後、彼は堪えきれずに小さく笑みを溢した。

…全く、相も変わらず可愛らしい反応をする。
一見して喜色の滲む彼女の姿に頬を緩めながら近づくと、少女は傍らの小松田にもう一度頭を下げて仙蔵の元に駆け寄った。

「先輩、お久しぶりです」
「久しいな千茅、忍務帰りか?」
「はい、少し長引きまして…この有様ですので正門から帰るのも憚られて、報告は先に送ってあるので先に身形を整えようかと」
「…なるほど、中々に骨のある仕事だったわけか」

そう苦笑する千茅の姿を見下ろすと、確かに忍服の端々は破れて所々黒い飛沫で汚れていた。
その飛沫には勿論彼女のものは一つも含まれていないのだろうが、普段土埃一つ付けずに戻る彼女を思えば今回は難しいそれであったらしい。

破れて本来の役目を果たせなくなった頭巾が彼女の結い上げられた髪を飾る様に巻き付けられているのを見て、仙蔵はまたくすりと笑みを溢す。

「先輩?」
「いや、随分と可愛らしい頭をしていると思ってな」
「え、あ、いやこれはその…破けてしまって、別にそんな意図は」
「いいじゃないか、私は好きだがな。必要に迫られない限り普段のお前は飾り気がないから、たまには年相応に振る舞ってみるのも良いだろう」
「…またそうやって」

からかって遊ぶのは止めて下さい…。

そう消え入るような声で言って僅かに頬を染める千茅は普通の少女のようで、普段あまり動揺を見せない彼女とは似付かない姿だ。
とはいえ、そんな彼女に動揺を与えることのできる数少ない存在が仙蔵であったので、彼にとっては幾度か見た表情であるが、それでも頬が緩むほどには微笑ましく愛らしい姿だった。

頬を朱に染めて縮こまる彼女の髪に手を伸ばし、するりと藍色の布と結い紐を解くと、ふわりと豊かな蜜色が下りる。
一瞬肩を揺らした千茅だったが、彼の至極楽しそうな表情を目にして異を唱えられるわけもなくそのままもごもごと言葉にならない声を溢しながらますます肩を竦めて黙り込んだ。

従順と言えば従順だが、どこか嗜虐心を擽る仕草に彼はついに声を漏らして笑う。
大人しく甘んじることに決めたらしい彼女に、ならば遠慮なくと丁寧に手を梳くように動かしたところで、彼はふと違和感に気付いた。

「……」
「…?」
「…千茅、一番に私に会えたことを幸運に思え」
「え?」
「これが親馬鹿共に知れれば無駄な騒ぎが起きていたぞ」
「へ?…あ」

大きな溜息を溢した仙蔵の言葉の意を図りかねて彼女は疑問符を浮かべたが、彼の右手に手繰られた己の髪の一房に視線を落とした瞬間に全てを理解する。

豊かで艶やかな蜜色は普段通り緩い波を象っていたが、その一房に限ってはまるで一線引いたように途中でぷつりと途絶えていた。
恐らく、というより確実に刃物で断たれたらしいそれに、彼女は困惑したように頬を掻く。

「うーん何時だろう…気付きませんでした」
「まぁこの程度なら問題はなかろうが、お前の身体に関しては本人より煩いのが山と居るからな」
「適当に切ったら…逆効果ですかね。もういっそ揃えて切っちゃおうかなぁ、大した長さでもないし」
「…それは是非とも止めておけ」
「え?」

何気なく零した最後の言葉だったが、その後に返った仙蔵の声がそれまでとは打って変わって低く硬質な響きであったことに彼女はかくりと首を傾げる。
と、先程まで普段通りの平静さを保っていた仙蔵が僅かに眉を顰めているのを認めて彼女が口を開きかけると同時に、彼はゆるりと右手を動かして彼女の髪に顔を寄せた。

「せん、ぱっ…!?」
「…あいつらほどではないが私もお前の髪を気に入っている一人でな、これ以上無駄に失われるのを黙って見ているわけにもいくまい」

緩慢な動きで、まるで彼女に見せつけるかのように髪に口付けて微笑う仙蔵に、彼女は今度こそ言葉を失って身体中の熱を顔に集める。
すぐにでも土を蹴ってその場から立ち去りたかったが、辛うじて働く思考が容易く捕獲される未来を描き出した為に、間抜けに口を開閉させて彼から一歩分の距離を取る程度の抵抗しか叶わなかった。

先程までの仄かな朱とは違い、誰の目にも明らかに赤面した少女を見下ろして、彼は堪えきれず再び声を上げて笑う。

「くっ、はは…珍しいものを見たな、その顔はお前が一年の頃以来だ」
「っもう!本当に勘弁してください…!」
「ふふ、そう怒るな。多少からかう意図が無かったわけではないが言葉自体は本心だ」
「…先輩、ここの所忙しかった鬱憤を私に向けてらっしゃいませんか」
「失敬な。堪った疲れを癒そうと可愛い後輩と戯れることにしただけだ」
「それを鬱憤を晴らしているというんです…」

諦めたような呆れたような声で呟く千茅は未だに熱の帯びたままの頬に両手を添えて溜息を溢したが、当の仙蔵は至極愉快そうに笑みを溢すだけだった。

あぁもう、本当に、この人には敵う気がしないなぁ。
どこか情けないような、けれど怒りや悔しさは湧いてこない不思議な感情に悩まされつつ頭を抱える彼女に、彼はゆるりと手を掬ってそのまま歩き出す。

「せ、先輩…どこに行かれるんですか?」
「決まっているだろう、斎藤のところだ。センスは微妙だが腕は一流だ、あいつに頼むのが一番真っ当だろう」
「あぁ、確かに…でもそれなら私一人で、先輩も戻られたばかりなんでしょう?お休みになった方が」
「そう言うな、私の数少ない楽しみくらい満喫させてくれ」
「…楽しみとは」
「お前を愛でる事だが」
「…………もう余計な口は利かないことにします」


さて、大分気晴らしも出来たし、そろそろこの可愛らしい後輩の機嫌取りでもしてやろうか。

そう独りごちて、彼は再び溢す様に頬を緩めて笑った。



20131119


まぁ諸注意としては付き合ってません