いろは唄 | ナノ


数枚の書類を片手に足を進めていた彼は、ふと感じた気配に顔を上げた後がりがりとその柔らかな髪を掻いた。
柔らかな、と言っても彼の自前のものではない。変装が得意なことで有名な三郎はいつも誰かの顔を借りて生活しており、そしてこの髪は普段その姿を借りている同室の雷蔵のものだ。
考え込む間もなく遠ざかっていった気配にふぅと溜め息をつくと、また先程と同じように足を進める。
きっと目的の場所にいる顔ぶれは各々予想通りの表情を浮かべていることだろう。そしてそれらは共通点がないようでいて、己にとっていい意味はないという点で共通している。


「失礼します」


からり。
向かった先、作法委員会の活動場所となっているその部屋の障子を開くと、先程の予想を裏切ることなく大層面白そうな色を浮かべた仙蔵に出迎えられた。


「残念だったな、九子なら今さっき逃げて行ったところだ」
「…。委員会の仕事です、各委員会に連絡するようにと」
「おや、それは御苦労。詫びに向かった先でも教えるか?」


にやにやと、それはそれは心底楽しんでいますと言わんばかりの仙蔵に言いたい言葉は浮かぶものの、一つ上、この学園において最上級生であるだけでなく、その中でも極めて曲者であるこの人物に簡単に喧嘩を売る程馬鹿でもない。
その後ろで口では挨拶をするものの不満そうな顔をしているのは兵太夫で、これもまた予想通りすぎて最早清々しいくらいである。元々素直な気質の一年は組に嫌われていないことは分かっているが、この後輩は特に九子に懐いているから自分のせいで去ってしまったのが気に入らないのだろう。
まぁそれを言うならば伝七も同じようなものだが、不満を隠そうとしている辺りい組の意地といったところか。こちらから見ればどちらも可愛いものだが。


ひらひらと片手を振れば仕事に戻っていく後輩たちに背を向け、そしてさっさと自分も失礼しようと思ったのだが、どうやら仙蔵はまだ帰してくれるつもりはないらしい。
ふぅ。先程もついた溜め息をもう一つ零し、促されるままに腰を下ろす。


「結構です、どうせ逃げられますので。…私としては、先輩が私寄りなのが不思議で仕方ないのですが」
「そうか?」
「メリットが無いでしょう。まぁ一番意外だったのは中立を保つ善法寺先輩ですが」
「あいつは近くに見境のない兄馬鹿がいるからな、あれで丁度いいだろう」


くく、と喉で笑う仙蔵はどこまでもこの状況を楽しんでいるらしい。
後輩に気取られるヘマはする筈がないもののこんな状況で話したい内容でもないが、勿論それすらも楽しんでいるのがこの人だ。頭が痛い。


「はぁ。…それで、立花先輩は」
「留三郎はあれだし、千茅は面白がりながらも完全に九子の味方だからな。加えて伊作と八左ヱ門が中立とくれば、一人くらいお前の味方がいてもよかろう」
「その方が面白い、と?」
「はは、分かっているじゃないか。」


はっきり言いやがって。思わずひくりと口元が引き攣る。


「しかし、お前が現状に甘んじているのも不思議だがな」
「と言いますと?」
「私に皆まで言わせる気か?」


茶を飲む仕草がここまで様になる男性というのもそうそういないだろう。本当に女性泣かせな美しさを持つ人だ。
先程までのあからさまな面白がり方とは違い、ただ静かに弧を描く唇。
腹の探り合いなら得意な方だと自負しているが、この人だけは相手にしたくない。交わっているようで交わらない、逃げ道が残されているようで残されない会話は楽しみよりも疲れが先にくる。
ふぅ。表に吐き出す息はこれで何回目だろうか。


「…今はまだ同じ箱庭にいますし、それは先輩も同じでは?」
「なるほど、しかし私とお前では同じようでいて大きな違いが一つあると思うが」
「…。先輩、本当に私の味方する気ありますか」
「あるからこそ助言しているんだろう。九子が認める保証はないぞ?」
「…そのうち手は打ちますよ。貴方を楽しませる為だけに動く気はないですけどね」
「なんだ、つまらん」


ちくりと棘を刺してみてもなんら手応えは返ってこない。
先輩としては、頼もしいことこの上ないけれど。本当にどこまでも敵に回したくない相手だ。色々な意味においても。
とん、と湯呑を置いて立ち上がる。続いて腰を上げようとする仙蔵に断りを入れると、今度は特に止められることもなく部屋を後にすることができた。


別に、何から逃げたかったわけでもないが。
誰に言い訳する訳でもなく心中でそう小さく呟くと、またがしがしと頭を掻き次の委員会へと気怠く足を進めた。




20130912