いろは唄 | ナノ


どんよりと分厚い雲に覆われた空は灰色で、普段なら未だ明るい時間帯だというのに辺りは薄ぼんやりとしている。
今にも雨が降り出しそう、とまではいかないが、出掛けるには少しばかり躊躇するような天気だ。
そのせいなのかどうなのかは分からないが、心なしか外に出ている生徒も少ないような気もする。斯く言う八左ヱ門もまた、生物たちの世話を手早く終わらせると自室で新しく籠を編んでいた。
委員会で山に餌を採りに行ったりする際に使っているものなのだが、長く使っているとどうしても所々傷んでしまうのだ。まだ使えるからと不精でそのまま使用していたが丁度いい機会だろう。


手元が若干暗い気もするが灯りをともす程でもない。
これが終わったら後輩たちの分も新しく作っておくか。そんなことを考えながら黙々と手を動かしていた時、不意にすとんと背後に見知った気配が降りた。


「九子?」


背中から伝わる重みに声をかけてみるも、返ってくる言葉は無い。
彼女は五年生の忍たまの中では八左ヱ門の部屋に一番よく現れるが、それでも用もなく訪れることは滅多に無いし、ましてやこちらに反応しないことなど普通は無い。珍しいこともあるものだと思いながらも八左ヱ門は籠を編む手は止めなかった。
触れ合う背中。暫く無言の時が続き、ただ木皮の擦れる音だけが響く。
しゅるり、しゅるり。五年も籠と親しんでいればこの作業も慣れたものだ。


「…なんで八じゃないんだろう」
「は?」


どのくらい静寂が続いていただろうか。
ぽつり。
唐突に零された九子の言葉は小さかったが、普段よりも静かな学園内で、二人しか存在しない部屋の中では拾うには充分過ぎるものだった。
その言葉にようやく八左ヱ門は背後を振り返ったが、彼女の頭は向こう側を向いたままで、視線よりも低い位置にあるが故にこちらから表情を窺うことは出来ない。


「なんで八じゃないんだろう」


もう一度、全く同じ台詞を落とした九子に八左ヱ門は思わず苦笑する。
何の話だ、と問えばいいのだろうか。しかし残念ながら彼には彼女の言葉の真意が読み取れてしまったし、恐らく何かこちらからの言葉を欲しているわけでもないだろう。
頭のいい彼女のことだ。理解できないのではなく、理解したくないだけ。納得出来ずに混乱してしまっているだけ。
再び手元に視線を落とし、ただ少しだけこちらからも背中を押し返してみると、暫し沈黙を貫いていた九子がまたぽそりと口を開いた。


「…私、八好きだよ」
「俺も九子のこと好きだぞー」


いきなりどうしたのだろうか、と思うけれど口にはしない。九子のことを好意的に思っているのは確かなことだし、彼女もまた同じように思ってくれていることも知っているから。
後ろに手を回して頭を撫でてやりながら応えると、僅かに顔を俯かせた九子からなんだか嬉しそうな気配が伝わってきて。
暫くまた無言の時間が流れる。その間ずっと背中にくっついている気配に、この間裏山で怪我しているところを保護し随分と懐いてくれた子狐の存在を思い出して思わず笑いが零れた。
ふわりと指の間から逃げていく髪が柔らかい。


本題からは離れたことにも気付いている。突然の彼女の訪問に間違いなく絡んでいる級友のことをなんだかんだいい奴だと胸を張って言えるし、敵になるつもりもない。
しかしそれと同時に九子を急かすことも出来ない。どちらも自分にとっては大切な友人で、片方に肩入れするなど八左ヱ門には到底無理な話なのだ。


(どっちもどっちだよなぁ)


自分としては、大事な人たちに笑っていてもらいたいだけなのだけれど。
一癖も二癖もある奴らにはどうやら難しいことらしい。何をするでもなくただ座って背中を預けてくる九子にまた一つ苦笑を零し、しゅるりと木皮を編む音が静かに部屋の中に響いた。




20130320