いろは唄 | ナノ


ゆらり。廊下に揺れた影を視界の端に認めて彼女は手にしていた本を閉じた。


まだ熱を孕む頭を日の落ちる紅と藍の混じる外へ向ければ、戸の影から音も無く見慣れた少女の姿が顕われる。
枕元で小さな山を築いている本の塊の一番上に本を置いた彼女は、少し掠れた声で少女を迎えた。

「おかえり、千茅」
「ただいま。調子どう?」
「ん、まぁまぁ」

にこりと微笑んだ少女、千茅は後ろ手に戸を閉めつつそう尋ねる。
殆ど答えを知った上での問いであることは明白だったので簡潔に答えると、千茅は僅かに目を細める事で返した。

まだ熱に浮かされる九子と違い、既にほぼ全快である千茅には学内での行動が許されている。
それ故彼女はふらりと外へ出ては後輩達の様子を教えてくれたり、暇つぶしを運んでくれる。枕元の本の山も、昨日千茅が九子の為に図書室の新書を確保してくれたものである。

ちらりと山積みのそれを視界に映し、千茅はくすくすと笑みを溢す。

「読み終わった?」
「うん」
「そっか、また暇潰し探さなくちゃねぇ」

そう肩を竦めた千茅に、九子も真似て小さく肩を竦める仕草を返した。

未だに完全な回復を見ない九子は、ここ数日同室である彼女か時折訪れる留三郎、伊作、八左ヱ門などの面子としか顔を合わせていない。
千茅曰く後輩達がお見舞いをと主張したらしかったが、あまり大勢で押し掛けては負担になるということ、また彼女達の部屋までの道のりには多くの罠が仕掛けられていることが常であったので、下級生には少々危険だということで却下が申し渡された。
なので、現状いわば外との窓口は千茅のみといってもいい。

九子はゆるゆると頭をもたげ、僅かに首を傾げる仕草をとった。

「千茅…どうだった?」
「ん?あぁ、」

掠れた鈴の音の問いに、千茅はふわりと頬を緩める。

「大丈夫そうだよ。最後までどたばたしてた図書も今日目途がついたみたい。八と三郎が手伝ってくれたからね」
「そう…良かった」

千茅の言葉を聞いて、九子は小さく安堵の息を溢した。
自身が伏せたことでの皺寄せを憂慮していたが、それが解消されたと聞いて僅かに肩の荷が下りる。



今回の一件、勿論熱で伏せたことを責める者などいなかったし、寧ろいい機会だから休めと皆口を揃えて言ったのだが、九子はそれに手放しで甘えられるような気質ではなかった。勿論千茅も同様である。

彼女達以外の人間からすれば極めて損な性質であり、少しは甘えることを覚えろと叱りたくもなるようなものだが、この頑固なまでの責任感が彼女達が双璧たり得た何よりの強みでもあったので文句をつけても致し方のないことであった。
それこそ今更、である。故に彼らは外出禁止と云う一見すれば過保護が過ぎる言いつけを二人に申し付けることで彼女達を強制的に休息させたわけだ。

そんな彼らの思惑が透けて見えるからこそ、彼女達も無理に言いつけを破ろうとはしなかった。
日がな一日学内を彷徨ったのも室内で読書に甘んじたのも彼らの心配に従ってのことである。



ともあれ安堵したように目を伏せた九子に笑みを溢しつつ、千茅はゆるりとその額に手を伸ばした。
暫く思案するような表情を見せた後、苦く笑って軽く彼女の身体を押して布団へと押し戻す。

「千茅…?」
「残念だけど…まだ駄目だね。目も潤んでるし熱も引いてない」
「もう殆ど治ったよ」
「まぁ問題ないとは思うんだけど。同じことを伊作先輩にも言ってみる?」
「………」

ほんの少し悪戯に目を細めた千茅の言葉に、九子は返事は返さず目を逸らすことで返した。
そんな分かりやすい沈黙を呈した相棒の仕草にまた笑みを溢しつつ、千茅は幼子を寝かしつけるような仕草で布団を二、三度撫でて、再び戸に手を掛ける。

そのまま立ち上がった彼女に、九子は布団から顔を覗かせて尋ねた。

「…鍛錬?」
「うん、流石に落ち着かなくて。軽めのだけだからすぐ戻るとは思うけど、九子は寝てていいからね」
「うん。…怒られないようにね」
「言いつけは学内から出ないこと、でしょ?大丈夫、本当に軽くだから」

にっこりと微笑んで実に忍らしい弁舌…基、言い訳を口にしながら、ひらりと手を振って消えてしまう千茅の背を見送って九子はゆるゆると息を溢す。

「暑…」

回復したとはいえやはりまだ思考に靄がかかっていることは否めない。千茅の指摘は的確であったし、九子自身も自覚している。

…いつまでも伏せている訳にもいかない。早く治さなくては。そう溜息を吐いて、彼女は大人しく布団を被り直した。







そんな少女達の会話から一刻ほど、既に世界が深藍に染まった時刻。


「………」


彼は少々乱れた頭巾を取りながら、己の右手に視線を落として盛大に溜息を溢していた。

一体なんで私がこんな真似を。
そう舌打ちの一つでも漏れそうな心境ではあったが、こればかりは誰に強いられたわけでもない。
言うなれば彼が彼に強いた結果であったから、責めるべき対象もやはり自分という事になって何とも不毛で無意味な苛立ちであった。

がりがりと柔らかな髪を掻き乱しながら、彼は諦めたように肩を落とす。


そうして手にしていたそれをそっと戸の前に置いて、殆ど音を得ない声で呟いた。

「…後は知らんからな、私は」



さて、それは誰に対しての宣言だったのか。



20130721