いろは唄 | ナノ


大人しくしていろよと釘を刺されつつ三郎と八左ヱ門と別れ、千茅は再びふらりと学内を彷徨う羽目になった。
というのも、これから雷蔵の手伝いに行くのだという二人に自分もと申し出たものの「病み上がりが馬鹿を言うな」とにべもなく却下され、やっと見つけた話し相手がいなくなってしまったからである。

双璧の二人が倒れたことによる弊害は大部分を忍たま五・六年により補われていたが、やはり完全には常の通りというわけにはいかなかった。
とりわけ慌ただしさを増したのは図書委員会である。その人並み外れた頭脳から蔵書の位置を完璧に記憶している九子の不在は、予想より負担が大きかったらしい。
普段九子が片手間に処理してしまう返却図書の整理や希望図書の捜索など、何でもない雑務も滞れば十分支障を来す要因となり得た。
また此処暫く長次や雷蔵の不在が続いたこともあって、現在処理に追われているようだ。

本調子じゃなくても手伝いくらいできるのになぁ。
そう独りごちながらも、言葉にすれば恐らく多方面から叱られるであろうことは想像に難くないので大人しく引き下がった次第である。


ということもあり、彼女はふらふらと行く宛を探していたのだが、ふいにぴたりと立ち止り思案を巡らせた。

もうそろそろ授業が終わる頃合いである。とすれば、休息や鍛錬や委員会やと活動する人間も増えてくるだろう。
自分達が伏せていた事実は何故か結構な範囲に知れていて、忍たまくのたま関わらず顔を合わせば一言目には心配される。時には後輩からお叱りを受けることもあり、有難いし嬉しいのだがこのまま徘徊し続けて彼らに更にいらぬ心配をかけるのも申し訳なかった。

「んー…仕方ない。避難所に頼ってみるかぁ」

あまり邪魔はしたくはないのだが、忙しそうならば諦めればいいだけの話だ。
そう判断して、彼女はくるりと踵を返し何処かへと脚を進めだした。







「こんにちはー…」
「あ!千茅さん!!」

控え目に戸を引いて、覗き込むように顔を見せた彼女に中から驚きと歓喜を入り交ぜたような声が上がる。

彼女が向かったのは“避難所”、もとい忍たま側の保健室であり、中で彼女を迎えたのは本日保健当番の左近と乱太郎の二人だった。
お邪魔してもいい?という千茅の言葉が終わるよりも早く頷いて腕を引く後輩達が微笑ましく、思わず頬を緩める。

律儀に座布団まで出してくれる彼らの頭を撫でると、少々心配そうな表情で二人は彼女を見上げた。

「千茅さん、もう体調は大丈夫なんですか?」
「もう全然なんともないよ。もともと治りかけだったし」
「でもあんまり無理しないで下さいよ。千茅さん方ほっんとにご自分に無頓着なんですから」
「あはは…」

少々憤慨したように窘めてくる左近に苦笑いで返しながら言葉を濁す。
と、ことりと目の前に湯呑が置かれ、礼を言いながら手を伸ばすとその中身に軽く首を傾げた。
お茶だと思って受け取ったのだが、それにしては少々色が薄い。

「左近くん、これは」
「蜂蜜生姜湯です。気休めみたいなものですけどね」
「私もう元気だよ?」
「念のためです」

飲むまで帰っちゃだめですよ、と釘を刺す後輩に更に苦笑を強め、何だか伊作先輩に似てきたなぁと胸中で溢した。
千茅に対する伊作の過保護さは今更述べるまでもないのだが、幸か不幸か保健委員の彼らにも受け継がれてしまったらしい。

じわりと優しい甘さのするそれを嚥下していると、軽く服を引かれる感覚に視線を落とせば乱太郎が此方を見上げていた。

「どうかした?」
「あの、千茅さん。九子先輩のお加減はどうですか?」
「あぁ…」

眉を下げ心配そうに尋ねる小さな後輩にくすりと笑みを溢し、湯呑を持つ手とは逆の手で軽く撫でる。

「大丈夫、まだ少し熱はあるけど元気だよ。部屋から出られないから退屈過ぎて、却ってそっちでまいっちゃってるみたい」
「そうですか…良かったぁ。じゃああと何日かでお会いできますね!」
「九子先輩まだ熱が下がらないんですか?結構長引いてますね」

安堵したように息を吐く乱太郎に対し、左近は少々固さの残る表情でそう返した。
一年保健委員として経験を積んだことからそう判断したのだろう後輩の成長に少し満足そうに頷いて、彼女は笑顔を返す。

「九子は普通より長引きやすい体質だからね、そう問題はないよ。食が細いから回復も遅くなっちゃうんだよねぇ…」
「は!?九子先輩食べてないんですか!?」
「駄目ですよそんなんじゃ!治るもんも治らないじゃないですか!」

独り言のように溢した千茅の言葉の後半部分に、二人が噛みつくように反応する。
しまった。そう後悔しても役は立たず、身を乗り出す様に食いかかる後輩達を宥めるために思考を巡らせた。

「落ち着いて二人とも、食べてないわけじゃないよ。ただ熱があるから何でもは食べれないだけで」
「でも…ただでさえ食が細いのに」
「そうなんだけど無理に食べさせるわけにもいかないから。大丈夫、どうせ治ったらいっぱい食べることになるんだし心配ないよ、ね」
「……はい」

千茅の言葉に些か不服さを残しつつも頷いて、腰を降ろす二人に彼女は小さく安堵の息を溢した。


実際を言えば、伏せて以来何度か無理矢理留三郎や伊作が運んできた食事を除けば九子は食事らしい食事は殆ど摂っていなかった。
それが勿論好ましくないことは承知していたが、自身も食に関しては九子と似たり寄ったりでその気持ちが分かるだけに千茅は九子に食事を強制する気にはなれなかったのだ。

まぁ水分と最低限のものは摂っているし嘘は言ってない、…筈。
そう自分の中だけで言い訳しつつ目を伏せると、ふいに背後から戸が開く音が彼女の耳に響く。

気配で既に察しており、誰かなど確認するまでもなかったがゆるりと振り返るとそこには予想通りの顔が少々呆れ気味にじっと此方を見下ろしていた。


にっこりと微笑んでみせると、彼は呆れを隠そうともせずに肩を竦めて返した。

「お前、こんなとこで暇を潰してたのか…」
「やっほ三郎、図書は片付いた?」
「あぁ、何とか目途はついてきた。で、整理してたら行方不明だった希望図書が出てきたから届けに来たんだ。ほら左近」
「え、あ、ありがとうございます。態々すみません」
「どういたしまして」

ひょいと左近に本を差出した三郎は、そう返しながらひらりと手を振りつつ早々に踵を返す。
そのまま出て行こうとする彼の常らしくない早急さに、千茅はかくりと首を傾げた。

「あれ、もう行っちゃうの?」
「まだ少し残ってるからな。お前もほどほどに部屋に帰って休めよ」
「はーい」

からからと笑って全く気のない返事を返した彼女の声を聞きながら、三郎は後ろ手にぱたりと戸を閉じる。

そしてすたすたと脚を進めたが、保健室から少し離れたところでぴたりと脚を止め、ずるりと近くの壁に凭れかかってしまった。


「………くそ」


何処か考えるように眉を寄せながら、彼は苦々しげに小さく舌打ちを溢した。



20130716