いろは唄 | ナノ


何処かで動物が動く音や風の音が響く空間の中で、少女はゆっくりと脚を動かしていた。

人家もなく木々によって月明かりが遮られる山ではほとんど完全な闇が彼女を包んでいたが、幼い頃から闇に慣れた彼女の目は違えることなく行く先を捉えている。
加えて昼間に地形を頭に入れていた事もあり、深夜の山の中で機嫌良く脚を進める少女は普通の人間が見れば異質な存在であろう。

それはある意味で間違っていなかったが、そんな疑問を抱く人間もこの場所にはいない。
思いつくままの旋律を鼻唄で歌いながら茂みを掻き分けて、影に隠れる様に生えていた植物に目を落としては彼女はにこりと笑った。

「あった」

態々深夜に山を訪れた理由、取り置きが少なくなったその薬草を摘み取って彼女は小さくそう独り言を溢す。
まだ故郷の山程植生を把握してはいないが、広大な敷地を持つ学園の山ならば見つかるだろうという彼女の考えは外れていなかったらしい。

次々と目的の薬草が生えているのを発見して、彼女は機嫌良く口元を緩めた。
そのまま植生を荒らさない程度に拝借しつつ脚を進めて、もう十分かと思えるくらいに籠の重量が増した頃に、彼女は小さな違和感に気付く。

「…地面が少し荒れてる」

足元に目を凝らせば、そこには決して野生の動物が通っただけでは出来ない草の乱れが目に入った。
しかも土の状態からしてその主が此処を通過してまだ一刻ほどしか経っていないだろう。

そして極めつけは、彼女から少し離れた場所に存在するあからさまに人為的な穴の存在。

「………」

何故こんな場所に、とは思わない。演習で罠が仕掛けられることは容易に想像できたし、その為に存在するような山だ。
ただ、演習が終われば一般に全ての罠は解除されるというのが演習の規則であり、落とし穴もその例外ではない筈。
更に悪いことに、地面の荒れが真っ直ぐに穴へ続き、そしてその先は消えていた。

まさか。そう思いつつ恐る恐る穴に近付いて覗き込むと、そこには人と思しき影が蹲っている。
彼女は背負っていた籠を慎重に下ろして、小さく深呼吸をした後穴に向かって声を掛けた。

「…あの、誰かいらっしゃるんですか?」

かなり深めに掘られた穴に、彼女の声が響く。
と、蹲っていたその影は驚いたように身体を震わせ、そして上を見上げると少しの間を開けて嬉しそうに立ち上がった。

「誰かいるんですか!?」
「え、は、はい」
「良かったぁ、僕落とし穴にかかってしまって出れなくて困ってたんです。申し訳ないんですが出していただけませんか?」
「あ…少し待ってください」

流石の彼女の目も穴の中のその人がどんな容姿をしているのかまでは捉えきれなかったが、声から察するに危ない人間ではなさそうだと判断してそう返事を返す。
そして少し思案を巡らせて周囲を見渡し、太く縒り合されている籠の背負い紐を解いて強度を確かめ、太い木の幹に括り付け穴に投げ入れた。

「下まで届きましたか?」
「あ、はい!大丈夫そうです、じゃあ上りますね」
「引き揚げましょうか?」
「いえ、このくらいなら平気ですよ」

そうその人がからりと笑うと、穴の中に伸びた縄は撓みを無くしてぎしぎしと体重を支えるように軋み始める。
切れないように時折全体を見ながらしばらくその場に立っていると、漸く穴からにょきりと手が生えて謎の人物が彼女の目の前に現れた。

どさりとその場に腰を降ろし、安堵の息を漏らすその人を彼女はまじまじと見つめる。

「ふぅ、助かったー。ありがとうございました」
「いえ…怪我とかはありませんか?」
「軽い打ち身程度だから大丈夫、良かったーあのまま夜を明かすところだった」

にこにこと微笑むその人は、彼女とそう歳の変わらない少年だった。
柔らかそうな髪には小枝や葉が刺さって、服や頬にはそこら中に泥がついている。

恐らく忍たまの生徒だろうなぁと少年を観察していると、彼は緩慢に立ち上がり彼女に向き直った。

「ありがとう、えっと…くのたまの生徒かな?」
「あ、はい。一年です」
「一年…?」

柔らかく笑う彼に思わず視線を奪われながらそう返すと、にこにこと微笑んでいた彼の表情は僅かに険を帯びたものへと変わる。
そしてその手を彼女の頭に添えて撫でる様に動かしながら、叱るような声色で言う。

「駄目だよ?女の子がこんな夜中に出歩いちゃ。それにまだ夜道を歩く勉強もしてないんだし、何かあったら危ないでしょ」
「………」

めっ。まるで幼子に言い聞かせるように顔の前に人差し指を立ててそう言った彼に、彼女はどう返したものか迷って沈黙を選んだ。
…深夜に出歩いて、落とし穴に落ちた挙句出られなくて途方に暮れていた人間にそう諭された時、一体どんな反応を返せば正解なのだろう。

しかし至極真剣な彼の表情を見て何とか小さく頷くことで返すと、寄せられていた眉間の皺はすぐに霧散してにこりと微笑まれる。

「うん、よしよし。でも君が来てくれて助かったよ、ありがとうね」
「いえ…偶然ですから」
「そういえばどうしてこんなところに来たの?名前は?」

会話しながらも頭に乗せた手をゆるゆると動かして撫で続ける彼に少し戸惑いながら、彼女はじっとその人を見つめる。

優しそうで見るからに人の好さの滲むこの少年からはとても自分に対しての敵意は感じられず、一般に円満とは呼べない忍たまとくのたまの関係にしては珍しいなと思う。
撫でられる感触に目を細めつつ、問いに答えるため口を開いた。

「あの、初芽千茅と言います。薬草を取りに来たんです、夜に取った方が薬効が高い種なので…そしたら穴が」
「千茅ちゃんだね。僕は二年の善法寺伊作、よろしくね。…でも薬草って、まだ医術の授業は始まってないんじゃない?くのたまは違うのかな」
「いえ、これは趣味で。昔から薬草とかは多少扱ってたので」

けろりとそう返すと、彼…伊作と名乗った少年は少し驚いたような表情で千茅を見つめた。
そしてそれは嬉しそうに頬を緩めると、ぽんぽんと軽く彼女の頭を撫でる。

「そっかぁ、僕も薬学が好きだから千茅ちゃんみたいな一年生がいて嬉しいよ!もしかして保健委員?」
「はい、一応」
「そうなんだ、くのたまと一緒じゃないのが残念だな。そしたら委員会で会えるのにね?」
「善法寺先輩は薬草にお詳しいんですか?」
「あ、僕のことは伊作でいいよ。まぁそこそこかな、良く怪我するから必然的にって感じ」
「良く?」
「あはは、何でかこういう穴に落ちたり同級生の投げた石が当たったりしちゃうんだよねー」

ふわふわと花でも舞わせるような笑顔の伊作に呑まれて同じく千茅も頬を緩める。
深夜の山中とは似つかわしくない和やかな雰囲気が流れる中、初対面の二人は他愛もない会話に花を咲かせていた。

人当たりのいい伊作に千茅は初対面ながら好意的な感情を抱いたし、恐らく伊作も趣向の近い後輩を気に入ったのだろう。
暗闇の中で小さな笑い声を響かせて、二人は暫くそのまま談笑する。


「…じゃあ伊作先輩も薬草を採りにいらしたんですか」
「うん、その途中であの落とし穴にかかっちゃったんだけどね。千茅ちゃんは採り終わったの?」
「はい、少し採り過ぎくらいです」
「ん…あ、これ僕が採りに来たのと同じだ。日中は成分が薄いから夜に採るのがいいんだよね。流石、良く知ってるね」
「いえ…あの、もし良ければお分けしましょうか?」
「え、いいの?」
「はい、もう夜も深いですしそろそろ戻った方がいいですから」

そう微笑んで籠を差し出した千茅を見つめて、少し考えるような仕草を見せた後伊作はふわりと笑ってその籠ごと受け取る。
そして不思議そうな表情で首を傾げる千茅の頭をもう一度優しく撫でた。

「お礼にもならないかもしれないけど、籠は僕が持つよ。学園についたら少し分けてもらってもいいかな」
「え、そんな悪いですよ…!背負い紐もないし重いし」
「だからこそ、女の子には持たせられないよ。背負い紐が無くなっちゃったのは僕の所為だしね」
「でも…」
「ね、お願い。千茅ちゃん」

そう言ってゆっくりと脚を進め始めた伊作に、千茅はぱちりと目を瞬かせてその背を見つめる。
…どうやらこれ以上の問答は意味を成さないようだ。
そう判断して、小さく苦笑を溢すとその背を追いかける様に小さく駆け出す。

「伊作先輩、ありがとうございます」
「こちらこそ、どうもありがとう。千茅ちゃん」

どちらともなくお礼を言い合いながら、あぁこの人好きだなぁと彼女は笑い、今日はいい日だなぁと彼は微笑んだ。



20120422