いろは唄 | ナノ


不覚だ。やたらと熱を帯びる身体とぼんやりと靄の掛かったような頭で彼女はそう独りごちた。

外はまだ明るいというのに早々に布団に横たわり、時折吹く柔らかい風に火照った頬を冷まして貰いながら寝返りを打つ。

何もしない時間というものに慣れない彼女にはこういった時間は非常に長く苦痛に感じられて、退屈が人を殺すという言葉の意味を実感する瞬間だ。
ただ今ばかりは本を読もうにも文字を追うだけで頭が痛くなるほどだったので、唯一の暇つぶしの手段すら断たれた彼女は目を瞑って耐えるしかない。

相方がいれば暇も紛れるのだろうが、残念ながら彼女は今は少しばかり留守にしている。
そういえば少し遅いなぁとぼやけた思考で考えていると、ふいに遠くから響く少し荒い足音を耳に捉えてぴくりと肩を揺らした。


…そうか、どうやら帰ってきてしまったらしい。
明らかに近づいてくる複数の足音に小さく溜息を吐いて、緩慢に戸の方へと視線を移す。

「っ九子!!」

勢いよく跳ね開いた戸の代わりに視界に移るのは、焦ったような表情で息を乱す深緑を纏った青年。
暫く実習という名の忍務で学園を離れていた六年生、食満留三郎。
その後ろには同じく忍務で留守にしていた同級生の伊作が薬箱を抱えて心配そうに眉を下げ、更に後ろには昨日から泊りがけで実習に出ていた筈の見慣れた顔がいくつか並んでいた。

敷地が違うというのにぞろぞろとくのたま長屋に現れた彼らを見て、彼女は僅かに頭を抱えたい衝動に駆られる。
ばれずに済むとは勿論思っていなかったが、どうやら随分な大事になってしまったらしい。

無言で自分に駆け寄って額に手を当てた留三郎に、彼女は掠れた喉で声を絞り出す。

「留三郎、先輩…おかえりなさい」
「馬鹿、辛いなら話すな。…ただいま、帰って早々お前が寝込んでいると聞いて肝が冷えたぞ」
「伊作先輩に皆も、おかえり」

視線を動かして各々此方を見つめている伊作と五年…三郎を除く、だが、にそう言うと、彼らは安心したように返事をして息を漏らした。
此処に三郎が居ないことについては触れるものはいなかったが、九子は内心で苦々しげに舌打ちする。


別に此処にいないこと自体はどうでもいい、此処に居られても非常に迷惑であるし心配なぞされたいとは思わない。

ただ気に入らないのは、彼が此処に来ないのは心配していないからという理由ではなく、自分がいると九子が休めないという事を正確に読み取った上での行動だという事。
日頃から苦無を投げつけてはいるものの根が悪人でないことは知っている、どうせしなくてもいい心配をしつつも妙な気を回して来ていないのだろうと思うと本当に憎らしくて腹立たしかった。

そんな彼女の心境はさておき、安堵したような苦い笑みを浮かべた伊作が留三郎の隣に腰を降ろし手にしていた薬箱に手を掛ける。

「吃驚したよ、帰るなり一年生が飛びついてきて九子先輩が病気だーって騒ぐんだから」
「…ご迷惑おかけしてすみません、が、…一年生が?」
「うん、千茅から僕らが帰ったら伝える様に言われたって」
「そこに丁度僕らも戻ってきたから、三郎に報告任せてこっちに来たんだよ」
「………」

にこりと笑顔を溢す伊作と雷蔵の言葉を聞きながら、九子は一瞬その柳眉をほんの僅かに顰めて沈黙する。
その表情に少しばかり違和感を覚えつつも、薬を差し出して九子が飲むのを確認すると伊作は漸く満足そうに笑った。

「うん、薬も飲んだし明日には熱も下がると思うよ。でも暫く絶対安静だからね」
「……はい」
「しばらく千茅も帰ってこないだろうから、明日からの忍務は俺達で暇な奴が代わりに行く。絶対に無理して熟そうとするなよ」
「………」

ぽすりと軽く頭を撫でるようにした留三郎に曖昧な表情で頷く九子に、再び僅かな違和感を感じて彼らは首を傾げる。
熱で思考が鈍いということを除いてもいつもより歯切れの悪い九子の様子に、傍らで彼女を見つめていた兵助が口を開いた。

「九子、隠していることがあるなら早めに言った方がいいと思うぞ」
「…べ、つに、隠してない」
「熱を出している状態じゃいつもの駆け引きも上手くいかない。…千茅がどうかしたのか?」
「………」

常の淡々とした口調ではない、何処か柔らかく諭されるようなそれに九子は思わず沈黙する。
如何に熱に浮かされた状態であっても彼女は忍びだ、この程度の誘導ならば平然と切り抜ける自信がある。…が、そんな声で言われては躱し辛いではないか。

因みに口にしたのは兵助であるが、四方から似たような視線を向けられた状況に九子は小さく息を溢す。
…仕方ない、実際千茅のことが気がかりではあるし、この場にいる全員を相手に沈黙を守るのは正直しんどい。素直に話してしまう事にしよう。

そう諦めたような判断を下して、九子はゆるゆると口を開いた。

「…千茅は、何処に出たんですか?」
「へ?…急な忍務が入ったから数日空けるって一年生に言ってたみたいだけど、まさか知らないのかい?」
「……あぁ、やっぱり」

かくりと首を傾げた伊作の言葉に、彼女は心底呆れたような声でそう溢す。
ますます疑問を浮かべる皆を見渡して、ゆっくりと身体を起こすと九子は内心で相方に謝罪しながら続きを紡いだ。

「…千茅、医務室に少し薬取りに行くって言って出ていったんです」
「じゃあその途中で先生に言われてそのまま出て行ったのかな…?でも九子にも言わずに出ていくなんてそんな急な内容だったのかな」
「九子が伏せてるから気を遣わせないようにとか?」
「それもあるだろうけど…止められないように、かな」
「止める?」
「千茅、昨日まで高熱で伏せてて私と入れ替わりで回復したのでまだ病み上がりなんです」
「「……は?」」

淡々と述べられた言葉に、彼らは間抜けにそう一言零して固まった。
予想通りの反応を返す彼らに、九子は次に起こり得る現象を予期して耳を両手で塞ぐ。

「「っはああ!?病み上がりぃ!?」」

キィイン、耳鳴りすらしそうな六年二人の叫びが終わるのを待って手を外すと、伊作が確認するように彼女の肩を掴む。

「千茅病み上がりって、熱が下がったのは何時?」
「…今朝、です」
「……そっか」

にっこり。先程までの穏やかなそれとは違い明らかに冷ややかな色を宿した笑みを浮かべた伊作がゆるりと振り返る。
その視線の先にいた五年生が肩を揺らしたのを気に留める様子も無く、彼は貼り付けたような笑みのまま口を開く。

「ねぇ、誰か悪いけど鉢屋引っ張ってきてくれないかい?」
「え、あ、はい…!」
「…迎え行くのか」
「当然。そんな病み上がりで数日かかる忍務なんて許せるわけないだろ。鉢屋に代わらせて連れて帰ってくるよ」
「そうか、仙蔵には俺から伝えとく」
「うんよろしく、それじゃ僕はこれで。あぁ九子ちゃん、君は留三郎の言う事を聞いて安静にしておくんだよ。僕が帰るまで動かないこと、いいね?」
「……はい」

そのまま伊作は音も無く消え、三郎を呼びに雷蔵も出ていくと穏やかだった室内が一気に慌ただしくなる。
恐らくかなり口煩く叱られて帰ってくるのだろう千茅を思うと、予想し得たとはいえ少々申し訳ないことをしたかもしれない。

胸中でもう一度相棒への謝罪の言葉を口にして九子はゆるりと目を閉じた。
そんな彼女の髪を軽く撫でて、留三郎は緩慢に立ち上がる。

「…さて、思ったより心配無さそうだし俺は先生への報告やらを済ませてくる。また顔を出すから大人しく寝てろよ」
「はい」
「あと久々知、お前悪いが薬箱を医務室に戻して新野先生に報告してくれないか。
尾浜は食いやすそうなもんを食堂で貰ってきてくれ、こいつどうせ食ってないから」
「…………」
「嫌そうな顔しても食わないと駄目だからな九子」
「…はい」

食べ物という言葉に盛大に顔を歪ませた九子にそう留三郎がぴしゃりと言い切ると、彼女は渋々頷きながら布団に顔を隠す。
日頃から食の細い彼女のことだ、熱も相俟って食欲など皆無なのだろう。だが今回は助け舟を出すわけにもいかず、勘右衛門や八左ヱ門が苦笑気味にそれを見つめた。

二人に指示を出しくるりと踵を返すと、留三郎は首だけ振り返って少し気を抜いた様子で呟く。

「と、いうわけだ。竹谷、お前は此処で九子見ててくれ」
「分かりました」

そう言いながら安堵を隠す様子も無く息を溢した彼は、八左ヱ門の肩を軽く叩いてそのまま部屋を出る。追って薬箱を抱えた久々知、「美味しいの貰ってくるから!」と囁いて消えた勘右衛門を見送って、八左ヱ門はほんの少し苦笑した。

留三郎と九子の付き合いは長い。それこそ実の妹のように思っている彼女が伏せていると聞いて気が気でなかったのだろう。
と、深い溜息を溢した留三郎の心中を推測すると苦笑せずにはいられなかったのだ。

といっても九子の身を案じたのは彼にとっても同じことだが。
実際九子が倒れた事実を聞いて留三郎と並ぶ勢いで駆け出したのは八左ヱ門だった。彼もまた同学年の忍たまの中では最も彼女と親しい間柄であるから当然と言えば当然である。

そんな彼の心配を知ってか知らずか、九子はゆるゆると彼を見つめて口を開いた。

「…八、おかえり」
「あぁただいま。良い機会だ、ゆっくり休めよ?いつも働き過ぎなんだよお前」
「うん…ごめん、迷惑かけて」
「いいって。…倒れたって聞いたときは焦ったけど、前みたいな大事ではなさそうだし安心した」

そう溜息を溢した彼の言葉が指すのは、二年ほど前に彼女らが二人揃って倒れ一週間ほど寝込んだ過去のこと。
急激に忙しさを増した彼女達がぱたりと倒れ込み、そうして暫く目を覚まさなかった時の事を思い出して彼は背筋が寒くなる感覚に襲われた。

思い出したくも無い、大切な友人を失うかという恐怖。
今回は意識はあるし会話も出来るようだからその恐怖を再び感じることは無かったが、もしまたあのようなことがあれば間違いなく自分は平静などではいられない。


そんなことを考えていると、彼の頬にゆるゆると九子の手が伸びる。

「…八、ありがとう」
「ん?」
「心配かけて、ごめんなさい」
「気にすんなよ!それより早く元気になって …心配してる奴もいることだし、早く顔見せてやってくれ」


緩慢に頷いて返した九子の髪を緩く撫でながら、何処か含みのある笑みを浮かべて彼はにっこりと微笑んだ。




20120620
修正:20130306