いろは唄 | ナノ


「やぁ、お久しぶり」



そう淡々とした一言が室内に響くとほぼ同時に、戸に手を掛けていた彼女の姿は消え鋭い金属音が重なった。

見つめていた彼らが慌てる暇も無く、また目視することも出来ないような速さで庇うように彼らの前に立ち睨みつけてくる千茅に、声の主はわざとらしい溜息を溢して肩を竦める。

「全く、相変わらず怖いねぇ御嬢さんは」
「…何故此処に居る。返答によっては次は牽制では済まさない」
「そう警戒しないで、ちゃんと許可貰って入ってるよ。そこの子達にも、伊作君にもね」
「……左近君」

のんびりと答える男に、彼女は一瞬も目を逸らすことなく言葉だけで背中の後輩を呼ぶ。
因みに彼女の片手には既に投げられた手裏剣に代わり苦無が握られ、目の前の男にいつでも襲いかかれるよう準備を整えているようだ。


呼ばれた左近は傍らの一年二人と一瞬顔を見合わせて、慌てたように答える。

「あの、一応本当です。小松田さんにサインも渡しましたし、先生方もご存知です」
「…そう」

左近の一言に漸く彼女は手を降ろしたが、未だにその目は鋭く細められたままで。
その殺気にも似た視線を受けながら、雑渡はもう一度だけ肩を竦めて楽しげに目を細める。

「だーいじょうぶ、近くまで来たから顔見に来ただけだよ。何かするつもりはない」
「…タソガレドキ忍軍の首領ともあろう方が随分お暇なことで」
「そう邪険にしないでよ、千茅ちゃん」

にんまりと笑うその人に不機嫌そうに眉を顰めたものの、本当に殺気が無いことを確認し彼女は漸く後輩たちの前から動く。
振り返ると少し心配そうに見上げる下級生三人の姿が目に入ったので、彼女は漸く常の笑顔に表情を形作って交互に彼らの頭を軽く撫でた。

「ごめんね三人とも、妙なとこ見せちゃったね」
「いえ…あの人曲者には変わりありませんし。庇っていただいてありがとうございます」
「でも千茅さん、こなもんさんそんなに悪い人じゃないですよー?いつも雑炊くれるんです」
「伏木蔵…それはちょっと違う気がする」

少し驚いた様子はあるものの三人には怯えている様子は無い。
恐らく本当にこの子達には悪意を向けていないのだろうと判断して少し気を緩めたところで、先程彼女が少々乱暴に跳ね開けた扉からひょこりと顔が覗いた。



「皆ー、お茶入ったよ」
「お待たせ…あ、千茅来た。ちょうどよかった、今お茶入れてきたんだ」
「数馬くん、伊作先輩」

お盆の上に人数分の茶器と茶菓子、ご丁寧に雑渡と千茅の分まで含まれていた、を乗せて現れたのは残りの保健委員の二人。
何とも緩い登場で現れた伊作を見て、彼女は今度こそ完全に警戒を解いた。

六年の伊作がこの男を警戒していないのであれば、自分だけ気を張っておくのも馬鹿げた話であるから。

「…あれ、何この手裏剣?」
「あ、それは」
「そこの千茅ちゃんに挨拶代わりに貰った奴だよ」

ズズ、そう音を立てながら一体どうやって飲んでいるのか分からないが顔を覆った布越しに茶を啜った雑渡が返す。
それを受けて伊作が少しの間脳にその言葉を反芻させた後、合点がいったように手を打って千茅を見た。

「あぁ!そうか、こなもんさんを曲者だと思ったんだね」
「思った、というか実質そうなんだけど。まぁ君らに手を出す気はないけどね」
「すみません、園田村の件もありますからつい反射的に警戒してしまって」
「いやー良い投げだったね、あの速さじゃうちの中でも避けれる奴はそうはいない。流石希代のくのたまだけはある」
「それはどうも」

感心したように言う雑渡に千茅は苦笑気味に一言だけ返し、早々に伊作の手からお盆を受け取って茶を配り始める。
その傍らでぎくしゃくと少しぎこちなくそれを手伝う数馬と、雑渡の手土産である団子を嬉しそうに見つめる一年とそれを窘める左近。
何とも緩やかな光景に、雑渡はにやにやと無言で笑みを向けていた。

どこか不気味なそれに、伊作が不審そうな目を向けて声を掛ける。

「こなもんさんうちの子達を厭らしい目で見ないで下さい」
「厭らしいって…中々言うね伊作君」
「特に千茅は見ないで下さい。というかそもそも馴れ馴れしく千茅ちゃんなんて呼ばないで下さいうちの子です」
「…過保護だね君」

先程軽く流れた筈の会話から態々掘り返して文句をつけてくる辺り相当気に入らなかったのだろう、冗談として受け取るには少々伊作の目は真剣すぎる。

呆れ半分に伊作の言葉に返事をすると、雑渡の前に皿に乗せられた団子が差し出された。
ふと目をやると、その主は先程自分に敵意を向けていた少女。
まさか自分に彼女が渡すとは思っていなかった雑渡は少々目を瞬かせ、そしてゆるゆると手を伸ばす。

「どうぞ、雑渡さん」
「…ありがと。もう警戒しないの」
「必要ないと分かった以上無駄な警戒は愚かです。はい伊作先輩」
「ありがとう千茅」

雑渡の驚きを余所に淡々とそう答えた彼女は、言い終わるより早く伊作に笑顔を向けて団子を差し出していた。
そしてそれをにこりと笑顔で受け取る二人を見て、彼は小さく息を溢す。

なるほど。脳内でそう呟いて、少しだけ意地悪く目を細めて更に口を開く。

「ねぇ、必要ないってのは?」
「はい?」
「後輩が私を警戒してないから?ちゃんと入門の手続きを取ったから?それを信用していいのかい?」
「可笑しなことを仰るんですね。勿論それもあります、でもそれ以上に…伊作先輩が貴方を警戒していないというだけで、私が警戒を解くには十分です」
「…ふーん」

あっけらかんと言い切る千茅に、ますます面白そうに目を細めて。
隠れて見えない口元を盛大に歪ませて、彼はにやりと笑う。

「そっか、伊作君と君は所謂良い仲という奴かな」
「「「…は?」」」



ぴたり。

雑渡の一言に、少し離れて団子に舌鼓を打っていた下級生四人も含めて茫然とそう呟いた。
自分以外凍ってしまった空間に、彼はかくりと首を傾げる。

「…ん?違うの?」
「…誰よりも慕っていますし信頼していますが、そういった色気のある関係ではないですが」
「伊作君は?」
「千茅は可愛い妹みたいなものだし…良い仲と言えば良い仲ではあるけどそういった類ではないです」
「そうですよこなもんさん。千茅さんと伊作先輩は学園内でも有名な仲良し兄妹なんですから」
「先輩、良い仲って何ですかー?」
「一年はまだ知らなくて良い」

「…へー」

一斉にからからと笑って否定する保健委員の面々に、少しつまらなそうに頷いて。
至極残念そうに溜息を吐いて、彼は残りのお茶を飲み干した。


何だ、違うのか。
先程巡らせた打算が一瞬の元に却下され、ぽつりと独り言のように呟く。

「…君らが恋仲なら、伊作君をうちに捕まえておけば一年後には優秀なくのいちが入ると思ったんだけどねぇ」
「千茅はタソガレドキなんかにあげません」
「「あげませんー!!」」
「はは…お気持ちだけ受け取っておきますね」

ぴしゃりと言い放つ伊作に続き大合唱する後輩達にくすくすと微笑んで、千茅は本気とも取れぬ雑渡の言葉にそう返す。
それに少しだけ目を細めて、彼はこっそりと伊作の目を盗むように手を伸ばすと、彼女の柔かい髪に添えて撫でる様に動かした。

「まぁ、考えておいてよ千茅ちゃん。給金は弾むから」
「あはは…お許しを頂けたら、考えておきますね」


ほんの一瞬、聞こえるか聞こえないかの小さな声でそう交わして。


曲者との愉快な茶会はゆるゆると続く。



20120530