いろは唄 | ナノ


後ろから抱え込むように腕を回されて、緩く拘束される。
殆ど力の入っていない、少し身動ぎすれば簡単に解けるようなそれだったが彼女は抗うどころか指一つ動かせずに硬直していた。

振りほどく事など出来ないし、する気も無い。耳元を擽る彼の息遣いすらも聞こえる程静かな、人通りの少ない物陰であったから誰かが来るようなこともないだろう。
勿論それを理解した上での行動なのだろうが、邪魔が入らないだけに彼の気の済むまでこの体勢が続くと思うと少々自分の身が心配になる。

高い位置で一つに結われた彼女の柔らかい蜜色の髪に、彼の額が押し付けられぐりぐりと動き、その度に彼女は喧しく響く己の鼓動を抑えるのに必死になった。

心臓が忙しすぎて思考が停止してしまいそうだ。

「あ、の…」
「気にするな」

辛うじて絞り出した声に、背後から返ったのはその一言だった。
なんて無茶を言うのだろうかと胸中で呟くが、それ以上口を動かすことは難しく音を得ることはない。


こういったことは初めてではない。と言っても頻繁にあるわけでもなく、過去に二回ほどこういうことがあった。
お互い上級生となってからは実習や忍務で暫く顔を合わせないことも珍しくない。そうして久し振りに会ったかと思うと、ひょいと物陰に引きずり込まれ、そして訳も分からないままこの体勢へと持ち込まれる訳である。

その真意は分からないし、問うても先ほどの一言で終わってしまうのでその度彼女はこうして身体を凍らせて待つしかできないのだ。
耳元に吐息が掛かるのがやけに恥ずかしくて俯くと、彼はゆるゆると笑った。

「お前の髪は柔らかくて触り心地が良いな」
「先輩ほどではないですが…」
「此処最近少々忙しくてな。柔らかくて暖かい生き物を抱えていると癒し効果があるそうだ、その点でお前はちょうどいい」
「…動物ですか私は」

先程から梳く様に彼女の髪を弄りながら小さく笑みを溢す彼は酷く楽しそうだ。
いわゆる抱き締められる形をとっているものの、彼にとっては動物を愛でるような感覚に近いのかもしれない。髪に触れるのも動物の毛並みを撫でるのと同じ行為だろう。

ただ、それでも彼女の心臓を早めるには十分すぎる行為なのだけれど。

羞恥を誤魔化すように不満を装うと、彼は髪に顔を埋めながらまた笑う。

「動物、か。確かに犬でも抱えてる感覚に近いな、逃げもせず従順に腕に収まっている辺り」
「…逃げられないんです」
「おや、逃げたいのか?」
「……」

からかうような声色で投げかけられた問いに、彼女は沈黙を守る。

逃げたいのか、その答えは否であり是でもある。
警鐘のように早鐘を打ち続けている心臓を考えれば、逃げてしまった方がよほど身体的にも精神的にも良いのだろうことは知っていた。
けれど、それでも逃げたいと思わないのは。…この状況は苦しくはあれど、決して嫌ではないからなのだ。
彼女にとって彼は尊敬と好意を向けている存在であり、そんな相手に触れられることに緊張こそあれど不快感など存在する筈もない。

それを知ってか知らずか、黙り込んでしまった彼女の耳元で彼はくすりと笑みを溢す。

「動物も悪くないが、やはりお前が一番落ち着くな。反応が一々愛らしい」
「…あまり苛めないで欲しいのですが」
「ふふ、そう言うな。愛情表現だ、私なりのな」

くすくすと笑いながら、またぐりぐりと髪に頬を押しつける彼に甘んじながら。

…なるほど、さしづめ自分は彼専属のセラピー犬ということらしい。
そう小さく息を溢しながらも、彼の役に立てるならばそれも悪くないかと緩い拘束の中で目を伏せた。



20130321



まぁ犬なのは極一部に対してのみで基本は猫っぽいんですけどねうちの子