いろは唄 | ナノ


忍術学園で双璧と言えば、誰もがとある二人の名前を挙げる。
実力だけで言えばプロ忍者に勝るとも劣らないと言われる最上級生、ではなく、そもそも忍たまですらなく。
くの一教室五年生に所属する、二人の少女の名前を。
初芽千茅に、播磨の九子。
くの一教室始まって以来の優秀さだと謳われる彼女たちは、文武両道、才色兼備。まさにくの一の鑑と言っても何ら問題は無い程の存在だ。


周りからの評価や期待に違うことなく、また裏切ることもない彼女たちは、忍術学園に存在する九つの委員会をたった二人で仕切っていて。
通常九人で行う筈の業務を彼女たちだけでこなしている。保健、火薬、学級委員長、そして体育。この四つを纏め上げるのは蜜色を揺らす千茅の方で、丁度今その四つの中の一つ、体育委員会の活動を終わらせてきたところであった。
薄汚れた忍服をぱたぱたとはたき、ううんと伸びをすればコキリと関節が軽い音をたてる。
その委員会名に恥じること無く、寧ろそれ以上に普段から体力を使い果たすようなことばかりやっている体育委員会であったが、幼少の頃から野山を駆け回っていた千茅からすれば楽しさを感じる余裕くらいはある。疲れ果てている一年生には少しばかり罪悪感もあるが。


「…あれ」


普段行う鍛錬とはまた違った疲れというのも新鮮だ。
未だ額から流れる汗を手の甲で拭い、だが勿論肌を流れる水滴を肌で全て取り去ることが出来る筈もなく、端から零れおちたそれは米神を通り頬へと伝っていったのだが。
ピリ、と。頬に走った僅かな、痛みと呼ぶには小さすぎる違和感に千茅は目を瞬かせた。


そっと触れてみればそこには、薄皮一枚が少しばかり切れただけの、本当に小さな傷。
葉が掠ったか何かしたか。明日には跡形もなく消えていそうなくらい些細なそれに、今この場に自分しかいないこと、もう少し言えば何かと口煩い  勿論愛情を向けてくれている故だとは分かっている  彼らがいなくてよかったと千茅は安堵する。
顔に傷だなんて、どんなに軽症でも黙っている筈がない。見付かったら厄介だと思うのが半分、でもそれも結局のところは嫌ではないのが半分。
早く洗って部屋に戻ろう。そう思い、泥を落とすために人気の少ない道を通って井戸を目指した、が。


「仙蔵先輩?」
「おや、珍しいところで会うものだな」


さらりと揺れる黒髪。
頭で考えるよりも先に思わず口から零れ落ちた名前に、井戸の脇に佇んでいた人影は振り向くと僅かに口許を緩めた。
忍たまだというのに、相変わらず外見も立ち振舞いもどこまでも美しい。女を敵に回す美しさだ。
六年い組の忍たまであり、また作法委員長でもある仙蔵に千茅もまた頬を緩めて歩み寄る。
くの一教室の作法委員会を纏めているのは九子の方であり、よって忍たまとの合同委員会も九子が赴く為に一見仙蔵と千茅の接点は無い。が、彼もまた千茅が心から尊敬する先輩の一人だった。


自然な動作で隣を空けてくれる仙蔵に甘え、井戸の水を汲み上げ手ぬぐいを浸す。ひんやりとした冷たさが気持ちいい。
ぎゅっと絞り、軽く引っ張りながら広げて適当な大きさに折り畳んだ、ところで隣からひょいとその手ぬぐいを奪い取られる。


「…先輩?」
「全く、体育委員会か?女子が頬に傷などつくって…」


ひやり。
頬に感じた冷たさ、次いで優しく拭われるその感触に、漸く千茅は己の置かれた状況を把握した。
何と言えばいいのだろうか。母親にされるそれとも、兄姉にされるそれとも言えるようで、全く違うようで。
柔らかく、それでいてどこか力強く、また心地よく。
余計な痛みや擦れなどを一切感じさせない加減で着実に汚れを落としていくそれに反応できたのは、よし、と満足そうに仙蔵が手ぬぐいを離した後だった。


「あ、ありがとうございます…じゃなくて!」
「はは、千茅は可愛いな。新鮮でいい」


作法にはどこか可愛げの抜け落ちた者ばかりだからな。
そう言ってやんわりと微笑う仙蔵に、貴方に同じことをされたらさすがにあの子たちも自分と同じ反応をするだろうと、そんなことを考えるのは脳が現実逃避をしているからだろうか。
確かに作法委員会には、性格にひと癖あるような者ばかりが集まっているかもしれない。
そして彼らは、予算員会でからくりを武器に闘うくらいにはからくりが大好きだ。


「千茅。九子から話はいくと思うのだが、近いうちにまた力を貸してはもらえないか?」
「からくりですか?」
「あぁ、中々に大規模なものを考えたようでな。だが九子はそもそも作る気が無いし、後輩たちには少しばかり荷が重い」


そして、そういったからくりを考えるのが好きなのは千茅の相棒である九子もまたそうであって。
しかし彼女は設計図を考えるだけ考えたら作る労力は惜しむような人間で、九子の作った設計図をぜひとも完成させたい作法委員の下級生たちに、というよりは下級生たちに強請られ折れた九子に引っ張られ度々作法室に足を運んではからくりを作っているうちに、千茅もいつの間にか作法委員会には馴染みの顔となっていたのだ。
今回もどうやらその類らしい。いいですよ、とすぐさま頷けば、ふと仙蔵の表情が緩む。
結局のところこの人も後輩大好きだよなぁと、自分の事を棚にあげてそんなことを考えていればふわりと頭を撫でられた。


「やはりお前は可愛いな」
「…仙蔵先輩、心臓に悪いのでやめていただけますか?」
「残念だな、本心なのだが」


伊作に見つかる前に戻れよ。
そう言い残し去っていく背中を暫し見つめ、はっと我に返ると軽く頭を振って踵を返す。
僅かに頬が熱い気がするのはきっと気のせいだ。既に温くなっている手ぬぐいを握り締め、そして先程のことを思い出しまた少し頬の温度が上昇する。
これぞまさに、悪循環。


(…千茅、作法委員入る?)


九子にきょとんと首を傾げながら訊かれたことを思い出す。
そう言われるのも仕方ないよなぁと苦笑を零しながら、さて纏まった時間が取れるのはいつが一番早いだろうかと、思考を巡らせながら自室へと足を速めた。




20120610