いろは唄 | ナノ


想像していたより、少なくとも身構えて一体どんな無理難題を与えられるのかと怯える必要は全くないというほどには、学園での生活は千茅にとって悪いものではなかった。


入学の日から数日過ぎたが、初めて接した同世代の級友達はそれなりに友好的であったし授業も触れたことのないことばかりだが理解できないものではない。
といってもまだ殆ど座学のみで実技などしていないに等しいのだが、それでも緊張に身を固くしていた彼女にとっては十分な安堵を与えてくれた。

そして何日目かの放課後、千茅は日頃そう通ることのない廊下を足早に歩いていた。
今日は授業が終わっても自由な時間というわけにはいかない。所謂学校ならではの恒例行事があって、そして彼女達は本日初めてそれに参加するというわけだ。




暫く歩いて見えてきた戸の前で小さく深呼吸して、ゆるゆるとその戸を引く。

「失礼します、保健委員会の定例会は此方で宜しいでしょうか」
「…入りなさい」

ひょこり、少し遠慮がちに顔を覗かせると、中では既に数人の女子が集まっていて此方を見つめていた。
現れた千茅に一番奥に座っている少女が少しだけ目を細め、口角を上げてそう返す。

その言葉のままに戸を引いて身体を滑り込ませる間も興味本位な視線が気になって仕方なかったが、そのまま少し離れたところに正座すると先程の人が可笑しそうに笑う。

「あらあら、今年の新入生は警戒心が強いこと。もう少し此方に来なさいな、何も取って食べたりしないんだから」
「は、はい」

くすくすと口元を抑えたその人が手招きするのを見て、慌ててほんの少し距離を詰める。
部屋の中には自分とその人、そしてその周りで二人ほど上級生が居て、恐らくこれでくのたまの保健委員は全員なのだろう。
ただその周囲の二人からの見定めるような視線がどうにも居心地が悪くて、折角の言葉にも千茅は緊張を解くことが出来なかった。

そんな胸中を知ってか知らずか、その人はじっと目を細めたまま此方を見つめている。
どうやら自分の出方を窺っているらしいと悟って、千茅は緩慢に頭を下げ額を床につけた。

「一年の保健委員となりました、初芽千茅と申します。不慣れでご迷惑をおかけするかもしれませんがよろしくお願いします」
「…宜しい。礼儀は及第ね」

一通りの挨拶を口にすると、頭の上からそんな言葉が降ってくる。
あぁやっぱり試されていたのかと息を漏らすと、またあのくすくすと可笑しそうな笑い声が響いた。

「ご丁寧な挨拶を頂いたからには此方も返さなくてはね。私は東雲柚季、一応この委員会の委員長よ。と言っても、五年だから代理だけど」
「しののめ、先輩…」
「そう。それにしても貴女、聞くところによれば保健委員に態々立候補したみたいだけど」
「…? えっと、はい」

どこか含みを持ったその言葉と、それと同時に両側から向けられる視線に首を傾げつつ頷く。


千茅は樵の父を持ち、生まれてこのかた山育ちである。
たまに街に降りることはあったが殆ど山で時間を過ごしたため、毒だとか或いは薬効を持つ植物を経験として知っている。
加えてたまに父が与えてくれた書物で知識も得ていたから、どうせならと保健委員を志したのだ。
ただ不思議なことに、級友達は一切手を上げようとはしなかったが。


一体どういった意図の質問だろうかと疑問符を浮かべていると、先程までの見定めるような二対の視線は少し厭な感じを帯びたそれに変わり、そして目の前のその人は少しだけ瞳に怜悧な色を宿した。
暫くじっと千茅を見つめ、そして柚季は口元に弧を描いて小さく呟く。

「…まぁ、大物か唯の阿呆かは直に分かるでしょう」
「…えっと?」
「いいわ、気にしないで」

意味深な言葉を溢して笑うその人に首を傾げるも、案の定さらりと躱されてしまった。
何だか遊ばれているなぁと思ったが当然口にはせず、そのままじっと委員長を見つめていると彼女はぱしりと手を打って注目を集める。

「初回だし、今回は新入生の顔合わせ程度にしておきましょうか。あぁあと、近々健康診断があるから各自そこのを持って帰って学年ごとに配って頂戴ね」
「…うげぇ」
「今年もですかぁ?東雲先輩」

ついと指差された方に視線を向けると、そこには袋に小分けされたマッチ箱が小さな山を成していた。
そして同時に次々と嫌悪を滲ませた声が上がるが、その声を文句を無視したまま委員長はゆるりと腰を上げて戸のほうへと歩き出す。

「仕事は仕事よ。保健委員の居ない六年と四年は私が受け持ってあげるから確り働きなさいな」
「でもぉ…」
「くどい。…それじゃあ委員会は終わり、少し用があるから失礼するわ。あぁ貴女はそこの子達から内容を聞いてね」
「あ、はい」

言い募る二人をぴしゃりと遮断した後、委員長は千茅にそう言い残すとそのまま戸をあけてさっさと出て行ってしまった。

あまりに淡々と且つ早すぎる解散に少々驚きはするものの、まぁやることがないのならこんなものかと納得してそのまま未だに不快そうに顔を歪めている二人に視線を向ける。
まぁ健康診断という単語から大凡の予想はついているのだが、聞けと言われたからには大人しく教わるのが筋というものだろう。

そういえばまだ名前も聞いていないし尋ねておこうかと口を開きかけると、それよりも早く彼女達は顔を見合わせて小さく口の端を歪めた。
そして、それはそれはにっこりと愛想の良い笑みを浮かべて千茅に向き直る。

そのあまりに不審な動きに、ひしひしと伝わる嫌な予感を顔に出さないよう努めるのは結構な重労働だ。

「じゃあ初芽さん、説明するからよく聞いてね」
「…はい」
「簡単な仕事よ、これをそれぞれの学年に配っておいて、健康診断の前日までに回収して此処に持ってくるだけ。あぁそれと、配るのは私達もやるけど回収は毎年一年生の仕事なの」
「そうですか、では全学年私が回収すればいいんですか?」
「っ、違う違う。さっき東雲先輩が言ってたじゃない、だから貴女は一、二、三年を回収すればいいの」
「… 分かりました。教えて下さって有難う御座います、先輩」

あぁほら、やっぱり。

にこにこと表面上は愛想良く告げられたそれも、結局のところはそういうことで。
もしや自分があのマッチ箱の用途を知らないとでも思っているのだろうか、あまりに見え透いた嘘に入学したばかりの千茅ですら呆れてしまう。

要は配るのはいいが、回収するのは嫌だと。そしてそれを態良く無知な一年に押し付けてしまおうというわけだ。あわよくば委員長である柚季に知れずに。

これが現状か。委員会というものに少なからず期待を抱いていた千茅は思わず吐きそうになる溜息を押し殺し、その代わりににっこりと満面の笑みを張り付けて二人に返した。



学園に来て数日、初めて気分が滅入るのを感じた。



20120630