いろは唄 | ナノ


良く晴れた、星明りの多い夜。
闇に慣れている瞳には眩しくさえ思う暗がりの中で至るところにちらつく灯りに、これほど多方面から照らしてしまえば一つや二つばかり影が増えても気付けやしないだろうにと少女は小さく溜息を零した。
ただ、それは形通り表に出ることはなく。その口から落ちたのは、上擦った小さな悲鳴。
それにニタリと嫌らしく笑ったのはこの屋敷の主人、随分と恰幅のいい体格と、目と目の距離が極端に離れているのが印象的な男である。


「ぐふふ、随分と間抜けなくの一がいたものだ」
「っし、知りません、私…!」
「嘘をつけ!」
「ひっ!」


唾を飛ばしながら怒鳴る男に震える華奢な肩。
ぽろりと一粒零れた涙は、白い頬を伝って布地へと浸み込んでいく。


(うっわぁ…)


その様子を盗み見ていた勘右衛門は、自分の口が開いたままになっているのを自覚こそしていたが繕うことが出来なかった。
彼がいるのは天井裏などと大それた場所ではない。まぁたまごとは言え忍であるのだから、天井裏に身を潜めていたとしても何の不思議もないのだが。
男から死角になる位置で、単純に物陰から顔を出して場を窺っているだけである。それでも悟られないのは、彼の忍としての才能、男の状況処理能力の低さ、そして映る影を紛らわしてくれる蝋燭たちのおかげであろう。
あぁそれともう一つ。そのただでさえ周囲への注意力が疎かな男をさらに自身へと引きつけてくれているあの少女。


「…凄いですね、九子先輩」
「ね。俺も未だにびっくりする」
「尾浜先輩は見慣れていらっしゃるのでは?」
「俺は基本組むの千茅だからさー」


ひょこりと勘右衛門の隣から現れた紫色の制服。
冷静な口ぶりとは対照的に頬を引き攣らせているのは四年生の三木ヱ門で、二人は怯え縮こまる少女とそれに高笑いをする男に揃って肩を竦ませた。


忍術学園では、上級生になるにつれて生徒も忍務を請け負うようになる。
四年生というものは何とも難しい学年だ。実力としては学園内では上位に食い込むようになってくる、だが実際外に出るには力不足もいいところで、現実を知り己の無知を痛感する。
昼の顔と夜の顔、それがはっきりしてくるのもこの頃からだっただろうか。たった一年前のことだけれども、随分と昔のようにも思えればつい最近のことのようにも思う。
そしてその四年生が早々に潰れることの無いよう、こうして上の学年と忍務が組まれることがあるのだ。
その場合、勘右衛門たちの忍務は所謂巻物やら情報やらの類のものを持ってくるだけではない。通常どのような手段を使うか、どれが有効か効率的か、想定外の対処法。それらを実戦でもって肌で感じさせ学ばせる。
上から下へ。自分たちが受け取り、学び、身に着けたものを、今度は受け渡していく。


学園の双璧と呼ばれる彼女たちに至っては、二つの顔を早くから使い分け、上から学ぶものもなく自分たちで全てを築き上げてきたのだけれど。
そりゃ貫禄もあるよな、と視線の先の少女と、もう一人今は屋敷の離れにいるであろう蜜色の髪の持ち主を思い勘右衛門は苦笑した。


「勘」
「お疲れー、どう?」


ふと降り立った気配に肩を跳ねさせた三木ヱ門、対して軽い口調を放った勘右衛門は視線を動かすことなく会話を成立させる。
気配も音もなく突如現れた三郎、そしてそれを当然のことのように受けている勘右衛門。
これが五年生なのか、と胸に感じるものに、押し潰されるのか、それとも伸し上げるのか。それは紫色を纏うそれぞれがどう受け止め消化していくかにかかっているのだ。
なんとも素直な反応を見せる三木ヱ門を一瞥した三郎は、それに対しては特に何を口にするでもなく再び勘右衛門に向き直った。


「八と千茅から合図だ。撤収する」
「りょーかい。あっちは?」
「…私が行く」


既にこちらの矢羽根は全て聞き取っていたのだろう。先程まで伸ばされる手から声にならない悲鳴をあげつつ必死に逃げていた九子はと言えば、既に男を気絶させ、自身を拘束していた縄は足元に無造作に散らばっている。
その顔に浮かんでいるのは常日頃と変わらない無表情で、潤んでいた瞳も赤みを帯びていた頬も今となっては見る影もない。
彼女のことだ、どこまでも手本のような手順を踏んだ故に本来ならば必要のなかった演技や手間を負ったことも、後輩の為ならば痛くも痒くもないのだろう。
こきこきと手首を回しながら何やら思案している様子を勘右衛門が指差せば、数瞬口を噤んだ三郎は溜息交じりにそう言った。何やら意味深な笑みを浮かべた同期生の頭を強めに叩くのを忘れずに。


「じゃぁ撤収しようか」
「はいっ。…あの、主人は?」


屋敷の主人は、依頼主にそのまま引き渡す契約になっている。
あの巨体、いくら成人男性の忍でも軽々とは担げないだろう。それを線の細い九子と、体力派という印象ではない三郎と。二人に任せてしまっていいのだろうか。
実際忍務でそんなこと言っていられないのは分かっているが、適材適所という言葉もある。そんな三木ヱ門の心情を正確に汲み取った勘右衛門は、後輩ににっこりと笑うと促すように背中を二回叩いた。


「いいのいいの。今の鉢屋に近付いてもいいことないしー」
「へ?」
「それに二人ともあれくらいなら一人で担げるから」
「九子先輩もですか…」
「筋肉痛にはなるだろうけどね」


あれ、でも一人で担げるなら…と勘右衛門の言葉に考え込みそうになる三木ヱ門を笑顔で制すると、二人は一足先に母屋から外に出る。
直に残りの顔ぶれも揃うだろう。明るすぎる夜にここまで堂々としているのも随分と久し振りだ、たまにはこんな空気もいいかもしれない。


(珍しいものも見れたし)


それは果たして、普段あまり関わることのない九子の忍務姿か、それとも。
楽しそうに笑う五年い組の学級委員長の脳内は、一癖も二癖もあるが故に一般のそれでは図りしえない。
が、今回に限っては、同じ五年生、そして六年生でも悟れるようなものなのだが。まぁそれは大した話ではないので特筆することでもない。
ただそう、言うなれば。


(俺らの姫さんたちはやっぱりすごいね!)




20140506